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小説家 藤岡陽子とふるさとを旅する


岡山本四連系線
瀬戸内の港町に漂う
堅実かつ実利を尊ぶ気風
~岡山県倉敷市児島地区と
本四連系線を訪ねて~

岡山県倉敷市児島地区には、本四連系線を管理する「西寺域流通システムセンター(現在、電源開発総変電ネットワーク(株)岡山送変電総括事務所が立地)」がある。
瀬戸大橋の本州側起点でもある児島地区の史跡やものづくりの現場を訪ね、今と昔を知る旅に出た。
01米作に向かない地
塩田や綿花栽培へ

──嗚呼、あの島から島へ飛び移って海を渡ることができたなら、どんなにか便利だろう。
昔々、この児島で暮らしていた人々は、瀬戸内海の島々を眺めながら、こんなことを考えていたに違いない。瀬戸内海に浮かぶ5つの島に架かり、本州と四国を結ぶ瀬戸大橋は、そんな古人の思いを形にしたものかもしれない。
時は400年ほどさかのぼり、1618年、江戸時代初期までは、この児島もまた離れ島のひとつだったという。それが干拓によって陸続きとなり、その干拓地で米づくりが始められたそうだ。しかし土壌の塩分が強すぎてうまくいかず、塩田経営や綿花栽培が行われるようになっていく。
そんな古人の軌跡を頭の片隅に入れて町を歩けば、目に映る景色のあちらこちらに製塩業、繊維業、海運業で栄えた町の歴史を見て取ることができる。

藤岡 陽子 ふじおか ようこ
報知新聞社にスポーツ記者として勤務した後、
タンザニアに留学。帰国後、看護師資格を取得。
2009年『いつまでも白い羽根』で作家に。
最新作は『はれたらいいね』。
その他の著書に『海路』『トライアウト』
『ホイッスル』がある。京都在住。
02由加神社本宮は
厄除けの総本山

岡山県の最南端に位置し瀬戸内海に面する児島は、昔から多くの旅人が訪れる場所でもあった。
由加山にある由加神社本宮は厄除けの総本山であり、江戸時代から旅人の安全を見守り続けてきた神社とされる。
安全な平成の世とはいえ、私もまた旅の途中。由加大神のご加護をいただくために、祈祷殿から聞こえてくる権現太鼓の音色を聞きながら御本殿へ向かった。
由加大神には厄除けの他にも「有求必應」といって、願い事を必ず叶えてくださるご利益があるらしく、ここはひとつ、今年の重大案件である私事を……。
娘が第一志望の高校に合格しますように──。
「由加神社本宮と讃岐(香川県)の金刀比羅宮の両方を参る『両参り』は、江戸から明治時代にかけて流行したものですが、今も残る風習です」
太鼓の奏者である権禰宜の佐伯英則さんが両参りを勧めてくださったが、それはまた次の旅で。今回は明治時代まで金刀比羅宮への入り口であった下津井港を散策するにとどめておく。
港の近くには「むかし下津井回船問屋」という明治の回船問屋を復元した資料館もあって、かつての賑わいを目で楽しむことができた。
03ジーンズストリートで
日本の誇り実感

歴史の移ろいをゆったりと堪能した後は、2010年に生まれた新しい観光地、児島ジーンズストリートへ足を運ぶ。
「わあ!」と思わず足を止めたのは、ストリートに掲げられた「藍色の旗」を目にしたからだ。この地が国産ジーンズの発祥の地であることを誇るかのように、頭上に吊られたジーンズが雲を背景に風にはためいている。
児島でジーンズづくりが始まったのは戦後のこと。1965年に「BIG JOHN(当時はマルオ被服)」の創業者である尾崎小太郎氏が日本初の国産ジーンズを手掛けたのが最初だった。だがその時は材料のデニム生地を輸入していたのだという。
それから8年後。1973年には国内産のデニム生地を使っての正真正銘のメイド・イン・ジャパンのジーンズが誕生。その後、児島産ジーンズは国内外から高い評価を得るようになり、地元を代表する産業のひとつに成長した。
ストリートはかつて児島で最も栄えた味野商店街にあり、ジーンズメーカーの洒落た店舗が集められ、自動販売機までがジーンズ色だ。通りの随所にオブジェのように飾られるジーンズを発見するのもまた楽しく、観光客の驚きの声が通りに響いていた。
04広大な野﨑邸で
製塩の歴史を学ぶ

ジーンズストリートから続く小道を上がっていくと「旧野﨑家住宅」にたどり着く。
こちらは江戸時代後期に塩田王国を築いた野﨑武左衛門氏の住居であり、またこの地で栄えた製塩業の歴史を知ることのできる貴重な博物館でもある。
およそ3,000坪もの敷地にある野﨑邸を、学芸員の宮崎健司さんに案内していただいた。
「野﨑家はもともと足袋を扱う商いをしていたんです。それが武左衛門の代に塩田を経営するようになりました。彼は借金をして48haの塩田を、今の児島駅周辺に整備したんですよ」
代々続いていた家業を見限り、借金をしてまで大規模な塩田づくりに乗り出した男──。
そう聞けば、この武左衛門という人物、さぞかし豪胆な実業家のように思えるかもしれない。
ところがとても興味深かったのは、博物館に掲げられていた武左衛門氏の「申置」。そこには、
「新たなる事業を企て財利を得んとする計画はなすべからず。ただ固有の身代を減らさじと心懸く」
とあり、つまりは「手広く事業を広げてはいけない」という戒めを後世の者たちに残していたのだ。
「武左衛門は世の中をよく知った、堅実な人だったんでしょう」
と宮崎さんは話す。その教えを受け継ぎ、野﨑家は今も岡山を代表する製塩業を営み、地元産業の一角を担っている。

05代々受け継がれる
学生服づくりの真髄

菅公学生服株式会社の倉敷工場では、1923年から続く学生服づくりを見学させていただいた。
「うちの会社は国内で18の工場を持っています。従業員はおよそ1,900人。この倉敷工場では約200人の職員が働いています」
工場内の説明をしてくださったのは高木良一さん。生地の保管場所から始まり、布の裁断から縫製まで、工程に沿って制服が仕上がっていく様子を見せていただく。
「制服は、毎日着ても破れたりしない丈夫なものでなくてはいけません。思い出と共にある大切なものですから、私たちも細心の注意を払って丁寧につくっています」
どの工程においても神経を張り巡らせ、だが迅速に生地を扱っている従業員さんたちの姿に圧倒される。技術は先輩から後輩に受け継がれ、4、5年の経験を経て全工程を任せられるリーダーに育つのだという。
工場内では私以外にも地元の小学生が見学をしていた。どの子も目を大きく見開いて、一心に説明を聞いている。この近辺の小学校では、3年生になると地元の産業を学ぶ授業があるのだそうだ。
「従業員の中には、小さい頃に見学に来て、それで縫製の仕事に興味を持ったというような方もいますよ」
と高木さんは微笑む。子供たちは小さな頃から町の産業を学び、そして知らず知らずのうちにわが町の誇りをも学んでいるのだろう。
いくつもの要所を巡り町を出る頃、空が夕陽の色に染まっていた。
実直に生きる人々に、神のご加護がありますように──。
夕陽は穏やかな波間にも映り、それが一筋の道のように見え、息をのむほどに美しかった。
06本州と四国を結ぶ送電線
50万Vの電力の道を見学

四連系線とは、西日本全域の電気の安定供給に貢献するためにつくられた、本州と四国を結ぶ127㎞にわたる送電線のことである。空中を通る架空線、地下、そして瀬戸大橋に添架されている電力ケーブルの3つに分かれている。私がまず驚いたのは、その送電線(電力ケーブル)が橋に添架されて海を渡っているということ。いったいどうやって?という疑問を解消すべく、西地域流通システムセンター(現在、電源開発送変電ネットワーク(株)岡山送変電統括事務所が立地)送電グループの下川原秀幸グループリーダー(取材当時)に実際の電カケーブルを見学させていただいた。
「電力ケーブルは橋の上方を通る車道と、下方を通る鉄道の、ちょうど間を走ってるんですよ」
下川原GLの後をついて、通常は入ることのできない瀬戸大橋内に入らせていただく。海面からの高さは約80m。橋の上から海を見下ろす勇気はなかったけれど、1号線、2号線と呼ばれる2つの回線の電力ケーブルが橋の東側に添架されていることは確認できた。
「1号線、2号線にそれぞれ3本の電力ケーブルがあり、送電容量はどちらも120万kWあるので、最大で240万kWの電力を送ることができます」
電力ケーブルの接続部分などには、異常を察知するセンサーによって24時間監視されているそうだ。
説明を受けている間にも頭上ではひっきりなしに車が走り、足元ではゴウゴウとうなりをあげて電車が通り過ぎていく。電力ケーブルは季節ごとの気温の変化や車や電車の重みで橋が伸びたり縮んだりする変化にも対応するよう様々な仕組みがあるのだという。50万Vもの電力を本州と四国に行き来させるという高度な技術とマンパワーに、感動すらおぼえる。今日も不自由なく電気を使わせていただいていることに、改めて感謝の思いだった。


