「違い」を力にモビリティで社会を楽しく
井原 慶子
Opinion File
苛酷な世界を乗り切る自ら順応する力
「このまま日本を拠点にしていたら、この世界ではもう活躍できないかもしれない……そうだ、海外に出よう」
やがて熾烈なカーレースの戦場を渡り歩き、「世界最速の女性ドライバー」と称されることになる井原慶子さんが渡英を決意したのは、デビューわずか2年目のことだった。
1999年、井原さんは華々しくレース界に登場した。フェラーリのワンメイクレースである「フェラーリチャレンジJAPAN」初戦でいきなり3位に入賞すると、その後立て続けに3回優勝。イタリアでの世界戦にも出場し、その年の最優秀選手賞に輝いた。25歳でのデビューは遅咲きだというが、学生モーグルスキーで鳴らしたアスリートとしての才能と、カーレースに懸ける人一倍の熱量を原動力に駆け上ってきた。
初めてサーキットを訪れたのは、レースクイーンのアルバイトをしていた学生時代。レーサーはもとより、メカニックや開発者などチーム全員が命を懸けて繰り広げる「人間たちの本気の闘い」に魅了され、自分も絶対にレーサーになると心に決めた。運転免許すら持っていなかったにもかかわらずだ。
「車というよりも、ギリギリの世界で緊張感や責任感を持って戦う人たちの姿に感激したんですね。周囲は猛反対で、女性には無理、始めるのが遅すぎる、危なすぎるなどと非難ごうごうでしたけど、やってみなければわかりません。自分の気持ちに素直に、運転の初歩を学ぶところから始めました」
だが、いざ実力でのし上がり、レースで目覚ましい結果を出しても、女性レーサーに対する周囲の目は冷たい。素直に賞賛されず、実力ではないと意地悪さえ言われる。逆に成績が出なければ女性だからと言われ、どのみち日本に活躍の場はないと思えたのだ。
「海外では違いました。女性であろうとなかろうと、よい結果を出せば素直に認められ、初めから排除されることもありません。ただし、実力がすべて。結果を出せなければ生き残れない、厳しい世界でもあります」
反面、レースを離れた生活の場で、人種差別は確かにあった。渡英した最初の年、住み始めた家の隣にあった肉屋の店主が、毎日のように腐った卵を投げつけてくる。意を決して理由を質(ただ)せば、国際的な紛争に金しか出さない日本人などこの街から立ち去れと言う。気に病む井原さんを救ったのは、皇帝の異名を取る希代のF1ドライバー、ミハエル・シューマッハから掛けられたこの言葉だ。
――どんなに苛酷な環境であれ、自ら順応する努力と工夫を忘れてはならない。――
「これはその1年前、私が彼に世界一のレーサーになる方法を尋ねたときに返してくれた答えです。この言葉が胸に甦(よみがえ)り、私はそれからほぼ毎日、肉屋に通い詰めて笑顔で主人に話し掛け、すすんでコミュニケーションを取ることを続けました。すると、初めは完全無視を決め込んでいたその人が、次第に聞かれたことに口を開くようになり、半年後にはバーベキューに呼んでくれるまでに心を開いてくれました。結局、自ら選んで飛び込んだ場所なら、何があっても解決する手立ては自分自身で見つけるしかない。望んだ道で生きていくには、自主的なコミュニケーションが大切だと感じました」
多様性を力に変えて命懸けの競争に勝つ
モータースポーツの世界で勝ち抜くには、才能や実力を備えているのは当たり前。それに加え、コミュニケーションスキルと改善する力が必須であると、井原さんは言う。
世界選手権レベルのレースになると、一つのチームに関わるスタッフの人数は、サーキットに臨むメンバーだけで約50人、バックオフィスも含めれば300人規模に膨れ上がる。メカニックやエンジニア、データ技術者、メーカーの開発研究員、マネージャーや広報担当もいて、巨大なファミリーを形成する。ドライバーはレースの顔だが、特にちやほやされることはない。「あらゆる人と主体的にコミュニケーションを取り、よりよいパフォーマンスを求めてスピーディーに改善を続けない限り、勝てるチームにはならない」と井原さんは断言する。
「時速350kmで走行中のドライバーの心拍数は、フルマラソンのランナーよりも高いんです。カーブを曲がるときに身体が受けるG(※1)の強さは、大相撲の力士が力任せに横から押し込んでくる圧力ぐらい。10秒に一度は襲ってくるその重圧に耐えるために、全身の筋肉を使うから心拍数が上がるんです」
そうした状況下でドライバーは、操縦しながら絶えずエンジニアや開発者と交信を続け、マシンに今起こっている現象や走行状態、解決すべき課題について的確かつ迅速に、情報のやりとりをしなければならない。
「1,000分の1秒の判断ミスや1mmの操作ミスで命さえも危うくなる。情報を瞬時に言語化する能力と、正しく伝えるコミュニケーション力、それに素早く解を見いだす改善力など、冷静に高速にマルチタスクをこなすことが求められます」
種々多彩な人たちが織りなす混沌とした状況を切磋琢磨の環境に変える力も必要だ。井原さんによれば、世界レベルで好成績を維持するチームには、きまって「多様性」が見られるという。
「性別や国籍、育った環境、考え方や感性も違えば、言葉も専門も異なる人たちがつくる共同体。その中で当然のように生じる摩擦や誤解、意見のぶつかり合いといった障壁をどう乗り越え、いかに合意形成ができるかで、レースの勝敗は大きく変わります。反対に、多様性よりも同質性が際立つチームの場合、成果が出るのに時間がかかることもあります。例えば、同じ国籍の人しかいないチームとか、多様なメンバーがいるにもかかわらず、似た者同士で固まってしまうようなチームでは、課題や危機を乗り越える際にもろさが出てしまいます」
多様性が爆発的な成果を生む。そのことを井原さん自身が最も強く体験したのは2014年、耐久レースの世界最高峰「FIA世界耐久選手権(WEC)」(※2)の第3戦「ル・マン24時間レース」のこと。同選手権に連続出場を果たして3年目。井原さんのチームには30カ国からの精鋭スタッフが顔をそろえ、勝つためのアイデアを出し合いながら結束力を高めていった。井原さんも2カ月前には合流、合宿トレーニングを通じて一体感を強め、情熱と情熱が共鳴する感覚を味わった。
結果、井原さんは総合14位でアジア女性初の完走を果たす。その2カ月後にはル・マンシリーズ史上女性初の総合優勝も勝ち取り、3年連続で「世界最速の女性ドライバー」の称号を手に入れた。これらの業績が評価され、2016年にはフランスで女性アスリートとして「記録を打ち破り、新たな歴史を築いたロールモデル」(※3)に選出されている。
次世代モビリティで創る生きがいを感じる社会
体力的にも精神的にも苛酷なこのような状況にこそ、井原さんが求めてやまないカーレースの醍醐味がある。それはすなわち、人間が極限の競争の中で切磋琢磨することにより、新しい技術、新しいサービス、新しい産業を生み出せる楽しさだと、井原さんは言う。
カーレースがモータースポーツである一方、自動車開発技術を競い合う舞台でもあることはよく知られている。井原さんが社外取締役を務める日産自動車株式会社は、モータースポーツ活動を通じて電動化をはじめとする次世代技術開発を進めていく姿勢を早くから打ち出してきた。日産は電気自動車によるレース「ABB FIAフォーミュラE選手権」(※4)にも2018年から長期参戦中で、カーボンニュートラルに向けた取り組みを強化している。
「自動車のエネルギー効率や環境性能、安全性能の向上といったことにも、レースは大いに貢献しているんです。ここ10年ほどのデジタル技術の進展で、走行中の車両と世界各地の技術開発拠点を通信網で結び、まさにリアルタイムで開発を進める態勢も進んできました。そういう試行錯誤の積み重ねが、例えば自動運転技術やMaaS(※5)の展開にもつながっているわけです」
2020年、井原さんはその延長に位置する活動として、未来型パーソナルモビリティ(※6)の開発に着手した。きっかけはコロナ禍だ。
「閑散とした地元の商店街を歩いていたら、お店の方から言われたんです。すぐ近くで買えるのに、なぜみんな遠くの店に頼むのか。よそから車で配達すればCO2も出るし、地元の経済も回らない。あんたレーサーなら、なんとかできんかね」
そこから知人のエンジニアと共同開発を始め、半年後に完成したのが超軽量の一人乗り電動ミニカー「GOGO!」だ。原動機付き自転車の5分の1程度の重さで折りたたみ可能、三輪なので安定性もよく、時速30km以下でゆったり走る。三密を避けて一人で移動でき、CO2フリーで温暖化対策にも役立つ。
今、自動車業界は100年に一度の変革期といわれるが、これからはこういった環境性に優れた個人仕様の「グリーンスローモビリティ」(※7)というべき移動手段のニーズが高まるだろうと、井原さんは読む。同時に、通信とモビリティを掛け合わせた新しい価値の創造も追求したい考えだ。その一端は、GOGO!事業展開のために立ち上げた新会社Futureが提供するサービスの1つ、地域通貨や商取引、デリバリーなどを組み合わせた「地域ECモール」にも見られる。
「子どもの頃、土曜日は休みじゃなかったけれど今は週休2日が一般的。週休3日で経済発展と地球保全と人間の生きがいが達成できたらいいなと思います(笑)。複雑化、高速化した社会によって人生でできることが増えた反面、疲弊も多々見られます。解決するにはさらなるイノベーションが必要ですが、みんなで協力すればできそうな気がします」
明日の命も知れないレーサーだから、危機感を最大の原動力に、今できることから楽観的に始める。それが井原さんの原点だ。
取材・文/松岡一郎(エスクリプト) 写真/吉田敬
KEYWORD
- ※1G
重力加速度(gravitational acceleration)。地球の重力が地上の物体に及ぼす加速度。 - ※2FIA世界耐久選手権
国際自動車連盟(FIA)主催の耐久レース(World Endurance Championship)。毎年世界各地で複数回開催され、ル・マン24時間レースもその1つ。 - ※3記録を打ち破り、新たな歴史を築いたロールモデル
フランスの女性プロアスリート対象の栄誉ある賞「WOMEN'S FORUM GLOBAL MEETING」において選出(Record-breakers and role models)。 - ※4ABB FIAフォーミュラE選手権
バッテリーとモーターを搭載した電気自動車によるフォーミュラカーのレースシリーズ。2014年にスタートした。 - ※5MaaS
Mobility as a Serviceの略(マース)。複数の移動サービスを1つに結びつけ、検索・予約・決済等を一括で行うサービス。 - ※6パーソナルモビリティ
近距離移動を想定した1人乗りのコンパクトな移動支援機器。 - ※7グリーンスローモビリティ
時速20km未満で公道を走ることができる電動車を活用した小さな移動サービスで、その車両も含めた総称。
PROFILE
井原 慶子
レーシングドライバー
Future株式会社
代表取締役CEO
いはら・けいこ
1973年生まれ。レーシングドライバー、Future株式会社代表取締役CEO、慶應義塾大学大学院メディアデザイン研究科特任教授。1999年にレースデビュー以来世界70 カ国を転戦。2014年には女性として初めてカーレースの世界最高峰WEC世界耐久選手権の表彰台に立ち、ル・マンシリーズで総合優勝。女性レーサーの世界最高位を獲得。2018年日産自動車社外取締役に就任。自動車産業や自治体とともに環境車のインフラ整備や女性が活躍しやすい環境づくりにも努める。2012年内閣・国家戦略大臣賞「世界で活躍し『日本』を発信する日本人」に選出。FIA(国際自動車連盟)アジア代表委員など役職多数。著書に『崖っぷちの覚悟』(三五館)がある。