技術と文化を受け継ぎ、新たな価値を加えて次世代に託す
渡部 肇史×奥田 透

新春対談

J-POWER社長

渡部 肇史

和食料理人「銀座小十」店主

奥田 透

かつての野球少年が自らの「甲子園」と思い定めて東京・銀座に構えた、席数14の日本料理店。
数寄屋造りのしつらえ、店名の由来にもなった名工の手になる唐津の器、食材も調理技術も一切が「本物」で埋め尽くされた小空間はミシュランガイドにその真価を見出されるや和食文化の前途をも占う、限りない挑戦の場となった。

挑戦する心を失わず前へ前へと歩んだ日々

渡部 私は食べることが好きで、自分で厨房に立つこともあります。料理の出来栄えにかかわらずそれなりの達成感があり、いい気分転換にもなりますので。世間に「厨房男子」が増えてきたのは、料理というものが優れて創造的なことも一因ではないかと思うのですが。
奥田 好きこそ物の上手なれと言うように、料理を「食べる」と「つくる」は本来的に同一線上にあるものです。何かしら料理を食べて美味しかったという経験をすると、今度は、記憶に刻まれたその味わいを自らの手で再現してみたくなる。そういう方向に興味・関心が向かう方には料理人の資質がおありだろうと思います。
渡部 料理を美味しく「食べる」ことができても、再現したくなって美味しく「つくる」となると話は別で料理の世界でプロとアマの差は歴然です。私などは自分好みにつくって食べて自己満足に浸るだけですけれども、プロはお客さんの好みを察して料理に創意工夫を凝らし、評価は他人の舌に委ねるという実にシビアな世界なのですから。その意味で私は、奥田さんのように万人を唸らせる当代一流の料理人を敬してやみません。
奥田 身に余るお言葉です。私が今日あるのは、18歳でこの世界に入って30年余、それ以前の思春期も含めて幾多の挫折を味わい、また遠回りをしながら、挑戦する心を失わずに前へ前へと進んできたこと。そしてその折々、運命的に出会った方々に導かれてこそと肝に銘じています。
料理に限らず、未熟な私に日本の伝統文化を教え、日本人の美意識や風儀といったものを授けてくださった恩人は枚挙にいとまがありません。
渡部 そのあたりの逸話を順を追ってお聞かせください。料理の道に足を踏み入れる前の少年時代は、野球を熱心にやっていらしたそうですね。
奥田 はい。大の野球好きの父にスパルタ教育を受けた私は、幼い頃から甲子園を夢見て野球漬けの日々を送っていました。小学3年で5、6年生チームの正捕手に抜擢されるなど順風満帆に見えたのですが、やがて無理が祟って右ひじに故障を抱え、中学に進んだ頃には選手として致命的な深手になりました。
もう野球はできない。目標を見失った私は高校進学後も何事にも身が入らず、こうなったら環境を変えるしかないと……。
渡部 郷里の静岡を離れて仙台のご親戚に身を寄せられたのでしたね。高校生の身としては思い切った決断だったかと思いますが、そこで見つけた何かが、料理の世界への扉を開かせるきっかけとなったのでしょうか。

先輩方に食らいつき嬉々として教えを請う

奥田 学校が休みの間、仙台へ通って海の家を営む親戚を手伝いました。市場でマグロの仲買人の方の仕事も手伝うようになって、早朝から汗まみれになって働く人たちの熱気と活気にすっかり魅せられてしまった。
私にとって退屈なだけの学校とは違い、市場には「働くこと」への情熱やエネルギーが満ちあふれていたのです。
渡部 まだ在学中の身ながら、自分には学問よりも働くほうが向いているとその頃から既にお気づきになっていたわけですね。迷いや不安はありませんでしたか。
奥田 むしろ一刻も早くそちらへ進みたくなり、やはり縁者の伝手を頼って、今度は地元静岡の居酒屋を手伝うことにしました。そのお店でプロの料理人を間近に見て、料理の腕ひとつで生きる職人気質に惚れ込み、これぞわが人生を捧げるべき道と確信しました。
渡部 こうと決めたら動きは速い。今日の奥田さんの一挙手一投足に表れる職人魂のようなものが、きっとその時期に育まれたのでしょうね。そこで、高校卒業を待って料理人への階段を上り始めるわけですが、最初の修業先の選び方がまた、いかにも奥田流と言えばいいのか……。
奥田 同じ働くなら静岡で一番厳しい親方の元がいいと思い、有名な割烹旅館に住み込みでお世話になりました。調理場の先輩方に食らいついて包丁の握り方から教えを請い、左手の指先はいつも絆創膏だらけ。そんな修業に嬉々として立ち向かえたのは、野球でのきつい練習が習い性になっていたせいかもしれません。
渡部 そして2年経った20歳の時、「25歳で独立して店を持つ」と誓いを立てたのだそうですね。当社にも10年間の事業計画を示した「中期経営計画」や組織・個人レベルでも毎年の目標管理を制度化していますが、奥田さんも若くして自らに目標を課し、5年先に独立するために必要なことをすべて紙に書き出して、1項目ずつクリアしていく算段をされたとか。
奥田 人と生まれて何事かを成そうとする際、世間ではよく「10年かけて」と言いますけども、目的と手段を明確にすれば「5年でできる」と血気盛んな私は考えたのです。料理人の仕事に求められる技術と知識の習得に絞り込み、人の2倍働き、2倍勉強すれば十分に勝算はあるはずだと。そのために調理場の仕事が終わってから、食材の仕入れ先との取引関係や銀行融資の受け方、税金の仕組み、職人集めの手立てなども貪欲に学びました。
渡部 料理の腕を磨きあげるのと同時進行で、仕事や職場を経営者目線で実地検分してもおられたわけですね。
奥田 そうした日々に私が悟ったのは、料理をつくることと料理店の経営は別次元で、どちらも妥協は許されないこと。フグやアンコウのおろし方のような特殊な技術は、それ専門の先輩職人を訪ねて手ほどきを受けましたし、経営面で自分に足りない知識を補うために、旧知の居酒屋に頼んで働かせてもらった時期もありました。

 

日本料理の奥の深さに修業の出直しを決意

渡部 独立を誓って以降、奥田さんは念願の開業へ向けて「2倍速の修業」に打ち込まれたにもかかわらず、期限の25歳を目前にして、あえて遠回りの道を選ばれました。企業経営でも経営方針の変更には多大な労力と決断が伴いますが、奥田さんの計画変更の理由は何だったのですか。
奥田 正直、自分の店を構えて一国一城の主となればよしとするなら、一通りに格好はつけられたと思います。けれども、その時の自分にたとえ必要十分な技術と知識があったとしても、それはまだ本物の上っ面をなでたに過ぎないのではないか。先人たちが受け継いできた日本料理の奥深さ、日本文化に裏打ちされた豊かさや伝統美まで表現できて、ようやく一人前の料理人と呼べるのではと、ためらう気持ちが表に出てきました。
渡部 なるほど。それで修業の出直しとばかりに京都や徳島の名だたるお店の門をたたかれたのですね。
奥田 和食といえば京料理という通り相場に従って、まず京都の老舗料亭に半年在籍。そこでは料理もさることながら、築400年という店構えから食器や什器、掛け軸、花かざりに至るまで歴史の重みを感じずにはいられませんでした。その後、徳島の名店「青柳」の存在を知って矢も盾もたまらず、お店に直談判して弟子入りを許してもらいました。
渡部 よほど奥田さんの琴線に触れるものがそこにあったと……。
奥田 「青柳」のご主人が著された写真集を一目見るなり、「私がやりたかったのはこれだ!」と直感したのです。どの料理もシンプルで華美に走らず、地元食材を多用した素材の良さが息づいて、いかにも食べてほしそうに料理が語りかけてくる。それまで料理人として何かもやもやしていた気持ちが晴れわたる思いがしました。
渡部 ただ、徳島での修業は調理場の外で行うものがほとんどで、最初は車の運転手とお店の下足番から始めたそうですが、それからどんな発展を遂げたのですか。
奥田 結局「青柳」にいた4年間のうち厨房に入れたのは最後の1年だけ。それでも下足番で接客のイロハを学べたし、運転手は乗客のニーズに先回りして応える訓練になりました。さらに、「青柳」の支店でお運びをするうちに働きぶりを認められ、支配人として切り盛りを任されるまでになりました。
渡部 必ずしも所期の目的に叶う修業内容ではなかった状況下でも決して下を向かず、自分にできる精一杯をして返す。大した心掛けと言うよりほかにありません。
奥田 そうした修業を通じてご主人が私に伝えたかったのは、人のため、お客さんのためにどれだけ自分が気づいて、いち早く行動に移せるかという一点だったろうと思います。

銀座が自分の甲子園 思い定めて三つ星店に

渡部 そして力を溜めに溜めた奥田さんに、いよいよ独立の時がやってきます。日本料理店「花見小路」で故郷に錦を飾ったのは、奇しくも修業を始めて10年が経った頃でした。
奥田 最初に切った期限を延長してまで修業を重ねて、もうこれで準備万端整ったのかというと、そんな底の浅かろうはずはありません。とはいえ、自分に足りない部分があるのを承知の上で、いつかどこかで自身が全責任を負う立場に立たないといけません。念願だった店を持つことのうれしさと、気の引き締まる思いが相半ばする独り立ちでした。
渡部 料理の道に向き合う奥田さんのそうした真摯な姿勢が、それを食す方の喜びや感嘆を呼び覚まし、一方では、奥田ファンとも言うべき同志や支援者の共感を呼び寄せるのでしょう。静岡のお店の成功からわずか4年後に「銀座小十」の開店にこぎつけ、有名店が軒を連ねる中で、ひときわ輝きを放つキラ星のごとき存在になりました。
奥田 恐れ入ります。東京進出は私のかねてからの夢で、銀座こそが自分の甲子園であると思い定めてきました。ただ、こんなにも早く実現できたのは、おっしゃるように店で使う器の一切を請け合い、そのお名前を店名にくださった陶芸家の故・西岡小十先生をはじめ、多くの方々から頂戴したお力添えの賜物です。
渡部 その後のご発展ぶりは今さら言うに及びませんが、後発の「銀座奥田」を含めて一流の証しであるミシュランガイドに定位置を占め、パリに「OKUDA」を出店して日本料理の紹介に努められました。当社も海外で、コンサルティング事業や火力・水力発電事業に加え、最近では再生可能エネルギー分野でも挑戦を始めています。1つの成功に安住しない奥田さんの飽くなき挑戦心はどこに源泉があるのでしょうか。
奥田 私には前々から日本料理そのものと、その背後にある日本文化の存続や伝承に対する差し迫った危機感があります。古来日本人が食べてきたからこその和食・日本料理であって、昨今の風潮のまま洋食化や食の無国籍化が進んだ先で、日本料理が本来の姿で継承されていくかを大いに懸念しているのです。
渡部 そうでしたか。パリへの出店は、和食の文化的価値を世界に伝えるという料理人としての使命を果たす、その第一歩であったのですね。
奥田 現に、ミシュランに掲載されてから「銀座小十」は海外からのお客様が格段に増えましたが、日本人でも外国人でも味は変えずに、「これが本家本元の日本料理です」と胸を張ってお出ししています。パリの店も事情は同じで、変にフレンチに寄せたりすれば「日本」を味わいに来られたお客様に対して礼を失するでしょう。
渡部 そうした意味においては、店内のしつらえが日本古来の数寄屋造りで統一されていることに目を見張りますね。そこまで本物に徹するのだという、奥田さんの決意がうかがえます。
奥田 あの数寄屋造りはパリの店にも採用しました。日本建築の職人と材料一式を日本から運び、料理人も器もすべて持ち込みました。加えて、食材調達の面で、生魚を食べる習慣に乏しい現地で新鮮な魚介を手に入れたい思いから、近郊の漁港で水揚げされた魚を「活け締め」にできる流通ルートを自前で開拓したばかりです。

次代を託す料理人を育て日本料理を「世界食」に

銀座の2店舗とパリ店の調理場を賄うためには、和食料理人をはじめ常に30人規模のスタッフを抱える必要があるという。その一人ひとりに技量の向上を促し、接客の心を教え込むが、その場で奥田氏が各人に求めるのも「自分がいるから、こう変わった」という価値創造への意欲と自覚だそうだ。

渡部 料理にせよ文化にせよ、日本人が自国のものへの愛着を持てず、価値を見出せないとなれば由々しき事態です。奥田さんの抱かれる危機感は、具体的にどのような形で表れてきていますか。
奥田 例えば今、調理師学校に通う若者の大半はフレンチやイタリアン、パティシエなどを志望し、和食系は寿司や天ぷら、蕎麦などを入れても全体の1割程度しか専攻する人がいません。街中を歩いても純然たる日本料理店の衰退は明らかで、このままでは和食の技術や人財を後世に伝えるのがますます困難になります。
渡部 固有技術の継承や人財育成は電力会社にとっても大きな課題です。古典芸能や職人の世界で「芸は盗め」と言われてきましたが、そんな旧来の方法論が通じにくくなっている現実もあり、正しく時代性を捉えた人の育て方なり、技術の伝え方なりを真剣に考えねばならない時期に来ている気がします。
奥田 手を挙げて、自分にやらせてくださいという弟子がいなくなりました。今は本人の自主性に任せた教育が重視されていますが、弟子たちが独立して、自分でやらなければならない時のことを考えて、私は思ったことは言うようにしています。
渡部 昔から先輩の背中を見て育つとか、上下絶対の序列の中で学ぶ機会が多くありましたが、現代では基本的に自分から学びにいく、自分でネットワークをつくっていく。時代の流れですね。奥田さんは「銀座小十」以外でも日本料理の継承に尽力されていると聞きますが。
奥田 私は店舗経営の傍ら、和食と寿司に特化した調理師学校の運営にも深く関わっています。技術に秀でた和食料理人を育てる一方で、当面、パリの店を軌道に乗せて海外出店のルートを拓き、卒業生たちが国境を越えて活躍できる場を提供したい。本物の日本料理を修めればどこの国でも通用すると分かれば、彼らは世界中に雄飛するでしょう。そして、日本料理がいつしかフレンチやイタリアンにも引けを取らない「世界食」になる日が来るのを夢見ています。
渡部 奥田さんならきっと正夢となるに違いありません。
最後になりますが、年頭を期してこれからの若者たちにキーワードを授けていただくことはできますか。
奥田 私自身、何か新しいことに挑もうとする際には「自分がいたから、こう変わった」ということに価値を置いています。例えば、先に触れたパリ出店のために活魚流通まで開拓した件では、後のち「ほかの誰でもない、奥田が来たから、パリの魚料理が変わった」と評されるような新しい価値を、現地に植えつけられると信じて実行に移したわけです。
渡部 確かに、奥田さん抜きには起こらないだろうという価値創造が成就しそうです。今のお言葉を肝に銘じ、新しい年を歩んでまいります。本日はありがとうございました。
奥田 こちらこそ、ありがとうございました。

構成・文/内田 孝 写真/吉田 敬

 

PROFILE

奥田 透(おくだ・とおる)

和食料理人、「銀座小十」店主。1969年、静岡県生まれ。地元の居酒屋や割烹旅館、京都の老舗料亭などで見習い後、徳島の名店「青柳」で和食料理および料理店経営を修業。99年に郷里静岡に「花見小路」を店開きして独立。2003年、「銀座小十」を開店。07年発刊の『ミシュランガイド東京』で3つ星を獲得。11年開店の「銀座奥田」では2つ星、13年パリに出店した「OKUDA」でも1つ星を獲得。日本料理の技術と文化を次世代に伝えるべく、「東京すし和食調理専門学校」の立ち上げに参画し、食育に取り組む「和食給食応援団」を結成するなど広範に活動している。