不眠大国日本から世界へ 睡眠資本主義を推進
小林 孝徳

Opinion File

「従業員がよく眠れている企業ほど評価される時代が来る」と小林さん。

世界でワースト1位 睡眠不足の日本人

「四当五落」という言葉が、受験生の間でまことしやかに言われていた時代がある。4時間の睡眠なら合格できるが、5時間眠ったら合格はできない――。受験生を鼓舞する言葉だったのだろうが、科学的根拠はなく、現代においてこの法則を信じる受験生はいないだろう。しかし、これが過去の言葉となった今でも、日本人は世界でもとりわけ睡眠時間が少ないことをご存知だろうか。

経済協力開発機構(OECD)が2021年に発表した統計によれば、日本人の平均睡眠時間は7時間22分で加盟33カ国の最下位(グラフ参照)。加盟国の平均より1時間も少ない。さらに気になる数字がある。米国のシンクタンク・ランド研究所は2016年に、日本人の睡眠不足による経済損失額を年間15兆円と算出した。睡眠障害による生産性の低下などにより、実にGDPの2.92%を損失したことになる計算だ(※1)。

こうしたデータは、日本企業にとっても看過できないはずだ。睡眠はもはや個人だけの問題ではない。社員から最大限のパフォーマンスを引き出すためには、個々の睡眠を「資本」ととらえる「睡眠資本主義」の考え方が必要――そう提唱するのが、株式会社ニューロスペース代表取締役社長CEOの小林孝徳さんだ。

「利益を出すためには睡眠を取りましょうというのが睡眠資本主義の考え方です。会社を持続的に発展させていくための戦略的な行動が睡眠なのです」

ニューロスペースは、睡眠の課題をテクノロジーの力で解決するスリープテック事業(※2)の国内パイオニア。企業に対して睡眠改善のためのサービスを提供し、業務効率の向上に寄与している。小林さんが同社を立ち上げたのは13年。実は以前から、小林さん自身も睡眠の問題を抱えていたという。

「起業する前はITベンチャーで働いていましたが、社内には寝ないで働くことが美徳とされる文化があって、当時の睡眠時間は平均4時間ほど。昼間に強い眠気に襲われたり、10秒前に言われたことが思い出せなかったりすることがあって、危機感を持つようになったのです」

同じ悩みを抱えている人がいるのではないかと調べたところ、日本では5人に1人が何らかの睡眠障害で苦しんでいることが分かった。これは自分だけの問題ではないと痛感し、睡眠改善事業を起こそうと決意したのだという。

「もともと、いつか自分の手で会社を立ち上げたいという夢を持っていた」という小林さん。起業するにあたって、2つの軸を定めていた。

「1つは、まだ誰もやっていないことをやりたいと考えていました。社会課題の解決につながる事業や、社会にインパクトを与えるようなことに挑戦したいという漠然とした軸です。もう1つは、何があっても諦めずに熱意を注げることをやりたいという軸。当時自分が抱えていた睡眠の問題が、社会全体の課題と合致することを知り、温めてきた起業の2つの軸が『睡眠』というキーワードでつながったのです」

睡眠技術を獲得できる3つのサービス

創業当時は「スリープテック」という言葉さえなかった時代。

「当社が提供するサービスについてお話をしても、ほとんど見向きもされなかった」

と、小林さんは当時を振り返る。2015年に経済産業省が「健康経営銘柄」(※3)を選定する取り組みを始め、従業員の健康を配慮する企業が注目されるようになったが、取り上げられる項目は食事や運動など。睡眠についてコミットする企業はまだ少数派だった。

しかし同年、ニューロスペースが手がける睡眠セミナーを大手牛丼チェーンで実施することになった。睡眠リテラシーを向上させるための研修で、「睡眠は技術である」という小林さんの言葉は、多くの参加者の心を打った。特に、長く現場を経験してきた同社社長は、店舗勤務時代に睡眠で困っていた実体験を持ち、講義の内容におおいに関心を寄せたという。これを機に、この大手牛丼チェーンでは睡眠改善による健康経営の取り組みを本格的に始動。その動向を知った企業から問い合わせが急増し、メディアでも注目を集めることになったのだ。

現在、ニューロスペースが提供しているサービスは3つある。

1つは、睡眠セミナー。睡眠の役割や重要性を理解し、自分の眠りの特徴を知ることで睡眠の技術を高めていくための講座だ。これまでに130社超、2万人以上が受講している。

2つめは、睡眠に関する簡易診断を行う「My Sleep」。5分程度のアンケートで現在の睡眠状況と生活習慣をチェックし、一人ひとりにパーソナライズした快眠のためのアドバイスが受けられる。いずれも、従業員に負担をかけずに睡眠改善の一歩を踏み出せるものだ。

3つめは、睡眠計測デバイス「Fitbit」を活用した睡眠改善プログラム。Fitbitをつけて眠れば、睡眠の傾向や課題を可視化することができる。それをもとに、睡眠改善に向けた具体的な方法をアドバイスし、その行動変容をサポートしていくものだ。このプログラムの効果検証を大学の研究者とともに実施したところ、3カ月のプログラムを経て、時間管理能力や集中力が向上し、仕事の成果が上がったなどの効果が認められた。

「その経済的効果は1人あたり年間12万円と評価しています。エビデンスのある施策を求める企業様に対して自信を持って提供しているプログラムです」

ちなみに、小林さんに快眠のポイントを聞いたところ、朝起きたら太陽の光を浴びて体内時計をリセットすること、夜は身体の内部の深部体温が下がる時に質の良い眠りが実現できるため、寝る1時間前の入浴や温かい飲み物を摂取することが望ましいと教えてもらった。日中に15~30分程度仮眠するのも、仕事の効率を上げるうえで効果的だそう。今日から実践できそうな内容ばかりだ。

睡眠ブーム到来で不眠大国返上なるか

ニューロスペースが実施した調査によれば、ビジネスパーソンの7割以上が自分の睡眠に不満を持っているという。理想の睡眠時間と実際の睡眠時間には1.2時間の乖離があることも分かった。さらに、熟睡困難(たくさん寝たはずなのに疲れが取れずだるい)、慢性睡眠不足(就寝時、意識を失うようにあっという間に寝る)、起床困難(すっきり起きることが難しい)といった課題を抱える人も少なくない(グラフ参照)。こうした現状をふまえて睡眠の重要性を訴え続けてきた小林さんだが、22年は「睡眠ブーム」の追い風が吹いたと感じている。

「5月に慶應義塾大学商学部の山本勲教授が、従業員の睡眠時間が長い企業ほど利益率が高い、という研究結果を発表しました( 下のグラフ参照)。睡眠と企業の利益率(※4)には相関関係があるということです。睡眠の重要性を周知させるうえで非常にインパクトのある発信だったと感じています」

ブームはアカデミック領域にとどまらない。政治の領域では「勤務間インターバル制度(※5)」を推進する動きが加速した。

「勤務間インターバル制度は、終業時刻から次の始業時刻までの間に一定の休息時間を設けることで、睡眠時間を確保し労働生産性の向上につなげようという取り組みです。この制度の導入は企業の努力義務となっていますが、実際にはなかなか進んでいない状況です。これを見かねた政府が、導入企業に対する助成金支給を決定しました」

このほか、昨年は睡眠の質の向上を謳うたった乳酸菌飲料のヒットなども話題になった。こうした一連の動きは、睡眠への関心が高まっている証左だろう。

しかし、小林さんが見据える未来は、もう一歩先にある。先に言及した睡眠資本主義の実現だ。

「質の良い睡眠がプラスの経済効果をもたらすことは、これまで述べてきた通りです。企業が従業員の睡眠改善を促し、各々が最適な睡眠を確保することで会社の利益や生産性が向上し、ひいては企業価値につながるのです。不眠大国日本から睡眠資本主義という概念を世界に広げたいというのが私の切なる願いです」

かつて「24時間、戦えますか?」というキャッチフレーズとともに流行した栄養ドリンクがある。量をこなせば生産性が上がる時代を駆け抜けた世代が、いま企業の上層部として古い価値観を捨てきれないケースも少なくない。

「自分たちが若い頃は寝ないで働き成果を上げた、という成功体験が脈々と受け継がれている企業はまだ多くあるのです。睡眠資本主義を実現するためには、経営陣の意識改革も不可欠だと思っています」

まずは経営者自ら、睡眠改善による効果を体感することが大事だと話す小林さん。

「睡眠はもともとの体質に左右されるもので、改善はできないと諦めている方もいらっしゃいますが、それは誤った考え方です。睡眠のリテラシーさえ身につければ、誰もが上達することができるのです」

そう、睡眠は技術なのだ。

他業種との協業でスリープテックを進展

ニューロスペースがこれまで培った知見や技術を、社会課題の解決に役立てたいという小林さんの思いは、他業種との協業という形で新たなソリューションを生み出している。航空会社とのコラボレーションで開発を進めている時差ボケ解消アプリなどは、その一例だ。家電メーカーや住宅メーカーとの協業も視野に入れ、ゆくゆくは、睡眠のリテラシーがなくても快眠を得られる環境をつくりたいと考えている。さらにもう1つ、かなえたいことがある。

「教育現場で睡眠の技術を学べる機会がつくれたらと思っています。私たちは睡眠のメカニズムやその大切さを学ばないまま大人になりました。その結果、睡眠の質を下げるような行動を無意識のうちにとってしまっている。睡眠は生きていくうえで欠かせない知恵です。ぜひ教育現場に睡眠教育が普及するよう、自分たちができることを考えていきたいと思います」

スリープテックビジネスが注目を浴びるなか、これを一過性のものとせずに、人々の睡眠の意識を変革させるための挑戦を続けていきたいと語る小林さん。その思いは、着実に実を結びつつある。

取材・文/脇 ゆかり(エスクリプト) 写真/ご本人提供

KEYWORD

  1. ※1睡眠不足による経済損失
    米国のランド研究所はほかにも、睡眠不足により、日本社会全体で年間およそ60万日分の労働時間を失うと指摘している。
  2. ※2スリープテック
    SleepTech。ITやAIなどの技術を活用して眠りを分析し、睡眠を改善させるための製品やサービスのこと。近年、睡眠の質が注目されていることから、スリープテック市場は急拡大中だ。
  3. ※3健康経営
    従業員の健康管理や健康増進のための取り組みを経営的な視点で考え、戦略的に実践すること。労働力人口の減少などを背景に、健康経営への関心が高まっている。
  4. ※4睡眠と企業の利益率
    山本教授は睡眠時間だけでなく、睡眠の質と利益率の相関関係にも言及している。企業単位での睡眠効果のエビデンスはまだ少なく、産学連携で検証を進めているところだ。
  5. ※5勤務間インターバル制度
    「働き方改革関連法」の成立に伴い、2019年4月に努力義務として規定された制度。2021年時点で導入した企業はわずか4.6%。

PROFILE

小林 孝徳
株式会社ニューロスペース
代表取締役社長CEO

こばやし・たかのり
株式会社ニューロスペース代表取締役社長CEO。1987年生まれ。新潟大学理学部素粒子物理学科卒業。2013年、自身の睡眠障害の経験をきっかけに株式会社ニューロスペースを創業。睡眠改善プログラムを提供し、これまで2万人以上のビジネスパーソンの睡眠を改善。眠る会社ほど利益が上がる睡眠資本主義社会の実現を目指す。Forbes Japan Official Columnist『睡眠をアップデート』を執筆、著書に『ハイパフォーマーの睡眠技術 人生100年時代、人と組織の成長を支える眠りの戦略』(2020年、実業之日本社)がある。