「伝統」から「革新」を紡ぎ出す~共生社会へのドアを開く独創と技術力~

Global Vision

J-POWER会長

村山 均

佐藤繊維株式会社代表取締役

佐藤 正樹

長年アパレル業界を下支えし、手堅い商いで順風そのものだった地方の老舗繊維会社。
バブル崩壊で業績が暗転、どん底からの反転攻勢を「誰も見たことのない糸」の創出に賭け、世界が認める存在に駆け昇った4代目社長の「不易流行」と「共生」への思いとは?

負のスパイラルからの反転攻勢を模索

村山 山形県寒河江(さがえ)市で、90年近く続く佐藤繊維株式会社の4代目社長の佐藤さん。地域の産業・文化を受け継ぎながら、革新的な取り組みに挑む経営者は多くいますが、佐藤さんの場合、着想や技法の独創性において一頭地を抜いた存在との評判がもっぱらです。
佐藤 いえいえ、多少毛色は変わっていますけど、片田舎の繊維メーカーに過ぎません。
村山 地方から全国、世界へと一足飛びに事業の翼を広げられて、今や「誰も見たことのない糸」を次々に生み出し、「ニットの歴史を塗り替える」とさえ評されています。どのような経緯で、ここまで来られたのでしょうか。
佐藤 山形には昔から養蚕農家が多く、私の曽祖父が起業した頃も養蚕と絹織物が主力でした。そういう土地柄に西洋伝来のウール(羊毛)が根づいたのには訳があって、明治期から昭和初頭に軍服の素材として羊毛の需要が高まり、第二次世界大戦を前にウールの国産化が急がれたからです。羊毛を得るにはまず羊からと、国策として山形や福島の農家に羊の飼育が課せられました。そこで刈り取った羊毛を曽祖父らが引き受けてウール素材とし、ニット生産も加えて事業の柱に育ててきたわけです。
村山 なるほど。絹、麻、木綿など日本古来の素材は、軍服には不向きであったと。
佐藤 ウールは、水を弾き返し、体温や湿気をよく蓄え、臭いもつきにくいといった特徴があります。これが軍服には不可欠でした。ただ当初は羊毛から糸を紡ぐ技術が未熟で、手袋やマフラー、帽子などを手編みするための毛糸を主につくったようです。
村山 そこから代々家業を営み、4代目が引き継がれた当時の状況はいかがでしたか。
佐藤 私が東京からUターンした約29年前、山形の地場産業に育っていたニット製品の売上高はピークに達し、アパレル業界を牽引する存在でした。ところが直後のバブル崩壊で状況が一変。商品販売の不振からコストダウン競争に陥り、そのために製品の製造拠点を国内から海外に変えるという負のスパイラルが生じた。日本国内の製品をつくる工場には死活問題で、アパレルメーカーなどの顧客を根こそぎ海外工場に奪われかねないと強い危機感を抱きました。
村山 そこで事業再生への反転攻勢を模索されたわけですが、生産設備や工程を刷新して高品質と低価格を両立させ、外国勢に対抗するといった常套手段はあえて避けたそうですね。
佐藤 同じ土俵に立ち、同じものをつくっている限り、価格競争からは逃れようがありません。そうではなく、これまでとまったく違うものづくりに正面から取り組もう。我々の手で従来にない商品を生み出し、日本や世界のマーケットへ発信していくしかないという切迫した思いに駆られました。

本場イタリアで掴んだ闘争心と希望の光

村山 その頃の佐藤さんは、ファッションの発信地である欧州各国を視察し、世界中の羊や山羊の生息地にまで足を運ぶなど、羊毛文化の真髄を見極めようと貪欲に動き回られたそうですね。訪ね歩いた先々での収穫は何だったのでしょうか。
佐藤 私がものづくりを根本から問い直すきっかけになったのは、イタリアのある紡績工場での経験でした。そこで職人たちは、まだ誰もつくったことのない、自分たちにしかつくれない糸を生み出そうと、日々闘っていました。そこの工場長の「私たちの紡ぐ糸が世界のファッションの源流になる」という自信に満ちた一言に、衝撃と感動を覚えました。
村山 糸を紡ぐ仕事という点は共通していても、取り組む姿勢や目的意識に、彼我の差を感じられたということですか。
佐藤 それまで我々が目指したのは、メーカーの求める仕様に寸分違わぬ糸をつくることで、それが商いの鉄則でした。ところがイタリア人たちは、自らの意思で斬新な糸をつくり上げ、展示会で発表して、名だたるデザイナーや有名ブランドからの打診や発注を待つのです。単なる下請けではなく、自分たちで仕掛ける。そういう檜舞台に自分も上がらねばと、闘争心に火がつきました。
村山 そもそもファッション界での商慣習の違いもあるでしょうし、西欧流の創造の文化に対して、日本では長く模倣の文化が主流だったことも関係するかもしれませんね。
佐藤 私が目を見張ったのは、彼らが特殊な糸を生み出す、その製法についてです。どんな最新設備を投入しているかと思いきや、工場にあるのは伝統的な機械ばかりで、うちの工場設備と大差ありませんでした。彼らは古い機械を自分たちで改造し、まったく新しい糸を紡ぎ出していたのです。そういうことなら我々にもできるじゃないかと、希望の光が差し込みました。
村山 それがきっかけとなって、新しいものづくりに邁進され、手本にしたイタリア産をもしのぐ「誰も見たことのない糸」の完成にこぎ着けた……。
佐藤 手探りの連続でしたが、なんとか開発した数種の糸を、2007年のイタリアの展示会に持ち込み、現地で驚きをもって迎えられました。その1つが「極細モヘア糸(アンゴラ山羊の毛でつくった糸)」でした。糸は細く長く伸ばすほど繊細な風合いを引き出せるのですが、従来はモヘア原料1gあたり13mまで伸ばす(紡ぐ)のが限界だったのを、我々は一気に52mまで伸ばしてみせた。余りにも奇抜な糸だったので、同業者から「ニットをわかっていない人間がつくった」と揶揄する声が上がるほどでした。でも、有名デザイナーからは「これは面白い、ぜひ使ってみたい」とオファーが相次いで、佐藤繊維の名がファッションの本場でも知られることになりました。

大統領夫人が見染めたモヘアカーディガン

村山 そうした革新的なものづくりへの意欲と実践により、佐藤繊維は09年度の「ものづくり日本大賞」で経済産業大臣賞を受賞。同時期に米国でも、ファッション界の話題をさらうエポックメーキングな出来事があったとか。
佐藤 同年1月のオバマ大統領(当時)の就任式に、ミシェル夫人が鮮やかなレモンイエローのカーディガンを羽織って臨まれました。実は、そのモヘアカーディガンはある有名ブランドの既製品で、素材には佐藤繊維のモヘア糸が採用されていたのです。我々にとって、この上なく名誉なことでした。
村山 オバマ大統領夫妻が、形式にとらわれない気さくな庶民感覚の持ち主であることを印象づけた場面でもありましたね。あのカーディガンにそんな秘密があったとは……。
佐藤 不思議な巡り合わせを感じたのは、ミシェル夫人が着たあのモヘアは、私が南アフリカで探し当てたアンゴラ山羊の毛から紡いだものである点です。そして、それまで欧米では室内着や防寒着の位置づけだったニットが、あの日を境に公式の場にも通用するエレガントなファッションアイテムとしても認められたのではないか……手前味噌な解釈ですが、山形の小さな会社の挑戦が、世界の歴史を動かしたかもしれないと自負しています。
村山 画期的な出来事で、聞いている私までもが誇らしい気分になります。ただ現実問題として、父祖伝来の会社に大胆にメスを入れ、ものづくりも売り方も変えるには相応の痛みも伴ったと思うのですが。
佐藤 無論とんとん拍子に事が運んだわけではなく、特に私より社歴の長いスタッフに新しい試みを納得してもらうのに骨が折れました。従来のように得意先の指示通りに糸をつくっていれば「トン単位」の商売ですが、今後、自らの創意で糸をつくって売り込むとなると「kg刻み」の商いになります。工場も営業も経理も、誰がそんな手間暇を引き受けるのかと、初めは社員が誰一人として賛同してくれなくて……。
村山 それをどう説き伏せていかれたのですか。
佐藤 私の夢と信念を、皆に辛抱強く伝え続けるしかありませんでした。すると唯一、技術者のトップが「社長がそこまで言うなら1回だけつくる」と折れてくれた。現場のたたき上げで、イタリア視察にも帯同した彼は意図を汲みとり、3カ月かけてやっと仕上げてくれた試作品が、後の「極細モヘア糸」につながったのです。糸をつくり出すことの面白さを知った彼は、それまで何を頼んでも「できない」と言う人だったのが「何でもできる」と言う人に豹変しました。それ以来、社内の士気が見違えるほど高まったのを覚えています。

歴史と伝統を尊びつつ新しさを重ねていく

村山 佐藤さんが引き継いだ時には好調に見えた社業が、先の見通しが立たないことを悟った。そこで、ものづくりの原点に立ち返って、自社に一大変革をもたらすのだと決意し、かつ実行に移された――そういう筋立てになりましょうか。
佐藤 あれやこれや試行錯誤を重ねて、私自身、心が折れそうになった時もありましたが、やりたいことの趣旨はそういうことです。
村山 ご承知のように、私ども電力業界も自由化の流れに沿った抜本的変革の渦中にあります。市場環境がいかに変動しようと、電力安定供給というJ-POWERの使命に揺らぎがあってはならない。何を変えて、何を変えてはならないかを見極めることが非常に重い課題だと考えています。
佐藤 業種も規模もまるで違うので何とも言えませんが、もしも私が、企業資産である人・モノ・技術をすべて新しいものに置き換え、古いものを切り捨てていたら、佐藤繊維は存続すら危うかったと思います。仮に機械設備を最新のものに入れ替え、大型・高速・自動化してコストダウンを図っても、人件費比率の高さから、途上国に太刀打ちできなかったでしょう。逆にイタリアの工場を見習い、古い機械を改良して愛用し続けたからうまくいったのだと思います。
村山 人財の面でも、新規に外部から人を連れてくるのでなく、古くからのスタッフを信頼し、共通の夢や目的意識を持ってくれるのを待たれました。企業経営者として、手っ取り早い改革に走らず、広い視野に立ってあるべき将来像を追い求めること、明確なビジョンを持つことがいかに大事かを思い知らされます。
佐藤 私は折に触れて「トレンドを追うな」と言い続けています。それは、欧州発のファッションを模倣し、売れそうなものだけつくるという我々の業界の旧弊に異を唱えると同時に、自分の足元をよく見て、手の内にある宝物を活用せよとのメッセージでもあります。今にして思えば、うちの会社に歴史と伝統の積み重ねがなければ、決してここまで来られなかったと思います。
村山 今のお話を伺って、ふと「不易流行」の文字が脳裏に浮かびました。もとは松尾芭蕉の俳風を指した言葉で、伝統様式を尊びつつ、ただ保っているだけではいけない。逐次そこに新しさを重ねていくべしという意味ですが、まさに御社にこそふさわしい言葉です。
佐藤 そうご指摘いただくだけで、私の中に何かカーッと熱くなるものがあります。

モヘアを原料に、佐藤繊維の高度な紡績・撚糸技術で紡がれる意匠糸「ファンシーモヘアヤーン」。写真提供/佐藤繊維株式会社

自社紡績工場で稼働する精紡機。その保有数は国内の梳毛紡績工場の中でトップクラスを誇る。写真提供/佐藤繊維株式会社

異業種連携の共生と地域社会との共生が鍵

村山 これからの時代、あらゆる産業の将来像を見据えた時に、決して欠かせないのが「共生」の観点です。電力会社でいえば、CO2対策の徹底や再生可能エネルギーの開発などを通じてカーボンニュートラルや水素社会の実現に寄与することも、共生の一形態になります。今後ファッション業界をリードしていく上で、佐藤さんはどんな共生の形を思い描いておられますか。
佐藤 端的には2つあって、1つは顧客であるアパレルメーカーとの共生です。というのも近年、業界が成熟するにつれて、巨大市場を狙って商品を大量投入するようなビジネスが通用しなくなっています。長く欧州勢の独壇場だった商品開発が途上国でも行えるようになったからで、むしろ市場を絞り込み、マニアックな商品を提供したほうが歓迎される傾向にあります。私が皆に好かれない特殊な糸をつくると、かえって皆が注目してくれるという現象が起きること自体が、その証左であろうと思います。
村山 アパレルメーカーと繊維メーカーが、上下でなく対等にタッグを組んで、個性あふれるものづくりに邁進できるような、共生関係を築きたいということですね。
佐藤 ええ。国内外を問わず、夢を共有し、一緒にものづくりをするパートナーシップが理想でしょう。
そしてもう1つが、ものづくりの環境としてあるべき地域社会との共生です。私は本社・工場を置く寒河江市や山形県との地縁が重要だと考え、山形の魅力を日本全国や世界に発信するセレクトショップ「GEA」を工場に併設しました。ここでは、都会とは違った目線から、山形だからこそできる衣・食・住を提案しています。
村山 ほかにも、地元の中小企業の引き受けや再生にも手を貸しておられるそうですが。
佐藤 若い働き手の流出をくい止めるには、地域の中で夢を持って働ける環境をつくりだす必要があります。同時に、ものづくりに熱中できる幸せを多くの若者に味わってほしい。それにはまず、私の息子が5代目を継ぎたいと思うような会社にするのが先決かもしれませんけども。
村山 すばらしいビジョンですね。ますますのご活躍を期待しています。
佐藤 こちらこそ、このような機会をいただいて感謝しております。

構成・文/内田 孝 写真/吉田 敬

PROFILE

佐藤 正樹(さとう・まさき)

佐藤繊維株式会社代表取締役。1966年、山形県生まれ。文化服装学院卒業後、アパレルメーカー勤務を経て、2005年に家業の繊維会社を継ぐ。世界各地の羊や山羊の生息地を訪ね、個性的で高品質な糸をつくり出して注目を浴びる。2009年、極細モヘア糸と特殊紡績糸の開発で第3回「ものづくり日本大賞」経済産業大臣賞を受賞。糸づくりからニット仕上げまで一貫して自社で生産することを重んじ、オリジナリティ豊かな製品群を産出。拠点を置く山形県寒河江市の地域文化・産業を「共生」の理念のもとに世界へ発信し続けている。