技術の伝承がもたらす未来 ~至高の技、かく受け継がれし~
渡部 肇史×沈 壽官

新春対談

J-POWER社長

渡部 肇史

薩摩焼 沈壽官窯 十五代当主

沈 壽官

鹿児島市街から西へ車で20分余り、緑深い丘陵地帯に門構えに武家の名残をのこす「沈壽官窯」が静謐としてある。
名にしおう薩摩焼の400有余年の歴史がこの地から始まった事実が、幻でもあるかのように控えめな佇まい。
だが、かぞえて十五代の現当主は、歴代に刻まれた至高の技芸と隼人の気骨で、未知なる未来と過去へ、果敢に切り込む人だ。

上質なローカルを高度なアナログで表す

渡部 今日は「薩摩焼」の創始として名高い窯元をお訪ねし、ご当主直々にご案内いただくという栄誉に浴しました。今まさに職人方の手で作陶が進められる工房から、沈家に代々伝わる名作・逸品が展示された収蔵庫まで、私も目を皿のようにして拝見いたしました。
 遠路、鹿児島までようこそいらっしゃいました。当家の初代がこの地に根をおろして400有余年、私で十五代目になりますが、薩摩というローカルに徹して上質な焼物をつくるという使命を負っている以上、ここを動くに動けませんのでね(笑)。
渡部 私は美しいものを見るのが好きで、絵画や工芸品を鑑賞しに美術館などへも足を運びます。が、ここへ来て感じたのは、一つひとつの作品の目に見える美しさと、その背後にある歴史や風土、つくり手の魂のようなものが、そっくり丸ごと味わえた喜びです。本当に上質な焼物を拝見すると、心が豊かになります。
 随分と深く「沈壽官窯」をご堪能いただけたようで何よりです。ただ、すべてが手仕事の職人たちといい、薪をくべる古式の登り窯といい、あまりのアナログぶりに驚かれたのではないかと……もっとも工房に機械を入れ、電気の窯にすれば作業効率は上がりますが、それでは納得のいく焼物はできません。結局、歴代に刻まれた先人譲りの流儀に倣うのがベストなのです。
渡部 その辺りも含めてお聞きしたい件がいくつかあります。まず薩摩焼の際立った特徴、他の焼物には見られないような点はどこでしょう。
 ここは有田焼や唐津焼、萩焼などとも共通して、16世紀末、豊臣秀吉の朝鮮出兵の際に連れて来られた朝鮮陶工たちにルーツがあります。その一派が薩摩の地にたどりつき、藩主島津家の庇護を受けながら窯場を築いた17氏姓のうちに、当家初代の沈当吉がいました。島津家は名品の誉れ高い「李朝白磁」に伍する焼物を望んだものの、磁器にする原料が領内で調達できず、地産の土や釉薬をやり繰りして「白い陶器」をつくった。実は、それまで地肌の白い陶器は世界的に類例がなく、その独自性にちなんで「薩摩焼」の名が冠されたのです。
渡部 それが「白薩摩」と呼ばれて藩主御用達になったのですね。美術工芸品の趣に満ちて、気高い風をまとった作品が収蔵庫で妍を競うようでした。
 当時は茶の湯が隆盛で、大名や武将たちがこぞって茶道具を求めたため、優美な薩摩焼の茶器は引く手あまたでした。やがて戦国の世が終わると茶の湯も下火になり、今度は庶民の生活に供される地肌の黒い陶器「黒薩摩」に生産の比重が移りました。ですから薩摩焼といえば白、黒、茶器の3通りがあるとお考えください。

名人と謳われた十二代 司馬小説に登場の十四代

渡部 その薩摩焼の中でも、沈壽官窯の作陶で特筆すべきは、姿形の端整さ、細工の丁寧さ、絵付けの華麗さの3つと収蔵庫見学の際にご紹介くださいました。そうした技巧の粋は、この窯元に代々受け継がれ、培われた芸風になっていると……。
 特に白薩摩の系統の焼物で、手捻りなどの技法を駆使して細部まで造形をつくり込んだり、ごく繊細な透し彫りや浮き彫りに挑んだりするのは、お家芸と言えるかもしれません。そういう当家に伝わるDNAをさかのぼると、幕末から明治期にかけて活躍した「十二代沈壽官」に行き当たります。
渡部 稀代の名人と謳われ、以降のご当主が「壽官」を襲名するきっかけになった方ですね。
 ええ。それまで沈家は代々、薩摩藩焼物製造細工人として士分を与えられ、ひたすら薩摩焼の興隆に努めてきました。十二代は藩営焼物工場の工長を務めるかたわら、自ら進んで海外に雄飛。1900年のパリ万博はじめ、米国やアジアの博覧会に自作の薩摩焼を出品しては賞賛を浴び、日本陶器「SATSUMA」の名を世界に知らしめた功績が知られています。
渡部 収蔵庫で拝見した十二代の作品からは、半島や大陸、欧米の名だたる陶磁器を向こうに回して、決して物怖じしない陶工の気概とか技術への自負心が伝わってきました。
 単に技巧を極めただけでなく、日本人の美意識を貫いて、海外の嗜好に決して迎合しない硬骨漢の資質も備えていたようです。その気質を受け継いだ十三代は、戦前から戦後の苦難によく耐えて薩摩陶業を守り抜いた人で、続く十四代、つまり私の父は日本人で初めて大韓民国名誉総領事に就くなど、日韓の文化交流にも尽くしました。
渡部 お父上は作家の司馬遼太郎氏と懇意にされて、小説『故郷忘じがたく候』の主人公として珍しく実名で登場します。私も拝読しましたが、沈壽官窯の来し方がうかがい知れるだけでなく、渡来文化の定着、技術移植の成功という観点からも非常に興味深い作品でした。
 あの小説にも出てきますが、本来、庶民向けの陶器である黒薩摩のうち、例外的に高貴な「御前黒」という焼物があります。沈家に一子相伝されてきたその製法が途絶えてしまい、それをよしとしない十四代が、山野に分け入って特殊な釉薬を探しあて、試行錯誤の末に「御前黒」を再興してみせた。このエピソードには技術の伝承の難しさと、まさに「思う念力岩をも通す」の職人気質がよく見て取れると思います。

 

400年の呪縛を解かれ陶芸家の道を見出す

渡部 そして20年前、沈壽官窯に400年積み上がった家督を、現在のご当主である十五代が引き継がれました。一身に降りかかる重責、有形無形のプレッシャーは常人の想像の遠く及ばぬものと思われますが。
 家業を継ぐにあたっては私自身、大いに悩み、戸惑いました。それは大学を卒業して陶芸の道に進むか否かの選択を迫られた頃から感じていて、自分の行く末があらかじめ決められていることを窮屈に思い、そもそも自分に適性があるのかという猜疑心に苛まれてもいたわけです。
渡部 幼い頃から窯場に働く人々を見て育ち、ご当人以外の誰しもから窯元の跡取りと目されて成長すれば、息苦しさを覚えないほうが不自然でしょう。それに関してお父上からご指導なり助言なりはなかったのですか。
 父はああしろ、こうしろとは一切言わなかった。ただある時、連れだって桜島へ行った折に「人間の生き方には2種類ある。喉が渇いたら水辺へ飲みに行くのが動物的な生き方、雨が降るのをひたすら待ち続けざるをえない植物的な生き方もあるが、君は後者だ」と言われました。その時は何のことかピンと来なかったけれども、おいおい胸の奥で反芻するうちに「この家に生まれついた以上、宿命を受け入れるのも人生か」という考えに傾きました。
渡部 そんなやりとりを経て、親子の距離感が縮まった……。
 父の術中にはまったと言えばそれまでですが、学生だった自分が夢を諦めて実家に戻り、草深い窯場で焼物をつくるのが、そんなに悲観すべきことか……いや、かつて父も祖父も、同じ迷い道をたどったのではないかと思い至ったら、家を継がぬとは言えなくなりました。
渡部 そうした経緯で沈壽官窯での修業が緒について程なく、日本を飛び出してイタリア留学に旅立たれた。どんな思惑からの行動だったのでしょう。
 いざ窯場の仕事に就くと、案に相違して作業に没頭する己が姿に、自分が一番驚きました。その一方、私が手がける焼物の造形や模様が過去の成功例をなぞるばかりで、少しも面白みを見出せない。恐らくは沈家400年の歴史の重みに絡め取られているせいで、一旦その呪縛から解き放たれようと思い立ったのです。
渡部 異国の陶芸学校という新天地で、何か収穫はありましたか。
 作陶の実技面では他の誰よりも私が長じていたのに、焼物の表現については「古い、力がない、研究が足りない」の三重苦……惨めで悔しくて煩悶するうち、私淑する富本憲吉先生の「模様より模様をつくるべからず」という言葉がふと降りてきて、ああ、このことかと。
渡部 天啓にうたれた瞬間ですね。
 あくまで私の解釈ですけど、表現とは深層を表層化させ、内面にあるものに輪郭をつけて可視化させる作業である。つまり、思いを見せることが表現であり、意思を形にしたものが模様なのだと気がつきました。己が内なるものを伝えたい、そのために父祖伝来の技術を活かせばいいのだと、陶芸家として生きていく指針が定まったのが大きかったと思います。

沈壽官窯の工房では、各パートを受け持つ職人たちが、精緻を極める技巧を持ち寄って作陶を進めていく。上の写真はロクロ成形の後、手捻りで細部の造形をつくり込んでいる。中上の写真は絵付け、他の2点は透し彫りの工程で、毛髪ほどの筆づかいやミリ単位以下の彫刻刀さばきが求められる。

「過去」に挑むことは「未来」に挑むのと同じ

渡部 今のお話にあった、自分の思いをしっかり形に表現すること、そのための技能や技術に長けた自分であり続けること……それが大事だというのは、「企業」に置き換えても同じではないかと、私にも腑に落ちるものがありました。そして、電力の安定供給に資するJパワーも技術の集合体として技術力を保持し、次世代に伝えていかなければならないとも思いました。
 確かに似てはいますが、当家に伝わる技能・技術はアナログ中のアナログで、電気をつくる現場などは最新のデジタル技術で満たされているのではないですか。
渡部 実はそうとも限りません。例えば、発電所の運転などは大半をコンピューター制御で賄えますが、プラントの保守となると担当者が現場へ赴き、五感を駆使して異音や異臭、振動などささいな変化を感知するといった作業を伴います。一見デジタル技術で完結しているようでいて、その実、ベテラン社員の名人芸と呼べるようなアナログ的技能が下支えをしている現場が少なくありません。
 感覚的には、登り窯を焚く時の温度管理がそれに近いかもしれません。窯のある部分に温度計が仕込んであり、刻々変わる温度表示を見ながら薪のくべ方などを加減します。ただし表示されるデータは温度計付近に限られたもので、窯全体の温度や圧力の分布などは、目や耳、鼻などのアナログセンサー全開で判断を下さねばならない。ここに職人の熟練が求められるわけです。
渡部 同感です。いかにデジタル技術が進み、設備機器を最新のものに更新したとしても、長い経験に裏打ちされたアナログ的な技能がこの先も不要になるとは思えません。伝統的技芸における師から弟子へ、親から子へという技能継承をお手本に、当社の活動領域でもベテランから若手への技術伝承を円滑に促したい。その課題が四六時中、私の脳裏に貼りついています。
 新式の窯を使いこなそうとする時でも、その元になった古式の窯を知ることが助けになります。未知なる「過去」に挑むことは、未知なる「未来」に挑むことと同じであり、過去からは学ぶチャンスがある。そうと合点がいけば、むやみに古いものを遠ざけ、新しいものに飛びつくことの愚かしさに気づくでしょう。

渡部 かの孔子も、今の世なら「温故知新」を「アナログをたずねてデジタルを知る」と言い直すかもしれません(笑)。

失敗を通して得る理解や身につく技術に本物が

渡部 そうした今日的状況下に、陶芸の永続性を担保し、かつ発展を促すための人材育成には、どう取り組んでおられましょうか。
 工房を支える職人たちは完全分業制で、ロクロ成形、仕立て、透し彫り、絵付け、窯焚き焼成と、各々の持ち場に特化して技能を極めてもらっています。これは沈家400年の伝統で、徒弟制度をベースに、先達から後進へと直に技術を伝えていく方針に何ら変わりはありません。
ただ私の代になってから、持ち場ごとにトレーニングの手順や期間に目安をつける「育成プログラム」を設けて、特に若い世代の成長を促す環境づくりに努めています。
渡部 作業工程の川上から川下まで、非常に繊細で緊張感のいる手仕事が続きますから、どこか1カ所でもミスが起きれば、すべてが水泡に帰しかねないリスクが付きまといますね。
 失敗は誰でもします。私だってする。心が折れそうになっている職人はひたすら励ますほかなく、この失敗がきっと君の成長の糧になる、こんなことで負けるな、また一緒にやり直そうと声をかけ続けます。
渡部 我々の仕事もそこは同じです。失敗を買ってまでせよとは言わないまでも、手痛い失敗を通して初めて理解できたことや、身についた技能や技術の中にこそ本物があるのかもしれませんね。
そんなご当主のもと、沈壽官窯の薩摩焼はこれから500年、600年と伝統を紡いでいこうと歩み続けるに違いありません。十五代として今、胸中にあるのはどんな思いでしょうか。
 焼物づくりにおいては、上質なローカルを高度なアナログで表現したいということ。その前提として、古来この地に息づく島津家独特の美意識や美の世界を重んじ、薩摩焼の陶芸家として絶対に変わらない不動の「芯」を終生、持ち続ける覚悟です。
渡部 沈家代々の継承については、十五代のご子息が沈壽官窯ですでにご活躍と伺いました。いずれ後事を託されることを踏まえて、何か申し送りたいことなどはありますか。
 息子の修業も10年を数えますので、この窯元を前線で牽引してくれるよう望んでいます。かつて、若かりし十四代が前途に迷い、自分は何を目的に生きればいいのかと父親に問うと、十三代は「息子を茶碗屋にせいや」とだけ答えたそうです。そして、私が同じ焦燥にかられた時、十四代は「何をやってもいいし、何をつくってもいい。ただ品格だけは落とすな」と言いました。どう解釈するかは受け手しだい、それでいて心に沁みて、それこそ「忘じがたい」言葉です。
渡部 同じ思いが、きっとリレーされていきます。最後に、バトンを託されて新時代へ向かう若い世代へのメッセージをちょうだいできますでしょうか。
 「回るロクロの動かぬ芯になれ」という言葉を贈りたいと思います。やはり十四代の教えで、現象に振り回されず、自分の足元をよく見定めよということです。
渡部 ご示唆に富んだお話や逸話の数々、本当にありがとうございました。
 こちらこそ、有意義なひとときをご一緒させていただきました。ありがとうございました。

構成・文/内田 孝 写真/吉田 敬

 

PROFILE

沈 壽官(ちん・じゅかん)

薩摩焼 沈壽官窯 十五代当主。本名・大迫一輝。1959年、鹿児島県生まれ。1983年、早稲田大学卒業後、本格的に作陶開始。1988年、イタリア国立美術陶芸学校GAETANO BALLARDINIファエンツァ校専攻科卒業。1990年、韓国でキムチ壺制作を修業。1999年、十五代沈壽官襲名。2001年、ソウルの「世界陶磁器EXPO2001」、2002年、ニューヨークの「ASIA SOCIETY MUSEUM」に出品。2010年、パリで「歴代沈壽官展」開催。2013年、ソウルで「沈壽官展-薩摩で咲いた朝鮮陶工の芸術の魂-」開催。2015年、ソウル大学で「日韓国交正常化50周年記念 十五代沈壽官展」開催。2018年、駐日韓国大使館韓国文化院にて、韓日国交正常化53周年記念特別展「薩摩焼420年沈壽官窯展」開催。鹿児島陶芸家協会会長、高円宮記念日韓交流基金選考委員。