駅から始まるライフスタイル革命 「Suica」のつなげていく力
渡部 肇史×椎橋 章夫

Global Vision

J-POWER社長

渡部 肇史

JR東日本メカトロニクス株式会社取締役会長

椎橋 章夫

鉄道事業に初めてICカード技術を持ち込み、カード型乗車券を生活インフラの切り札に変身させたJR東日本の「Suica」──生みの親のプロジェクトリーダーは「人」と「心」を重んじ「もの好き」を身上とする、こだわりの人である。

「Suica」誕生の陰に民営化後の意識改革あり

渡部 椎橋さんは「Suica(スイカ)」の開発によって、乗車券だけでなく電子マネー(※1)としても使えるという前例のないビジネスモデルを構築されました。そもそもプロジェクトの発端はどんな様子だったのですか。
椎橋 開発の前段からお話しすると、私は国鉄の分割民営化がなければ「Suica」は誕生しなかったと考えています。1987年4月に官から民へ移り、ものの見方がひっくり返りました。その象徴が利益や予算に関する考え方です。また以前は、一人称で始まる言葉が少なく、私が、私たちが何々をするという発想がありませんでした。民営化後は「私が変われば会社が変わる」を合言葉に、改革の機運が沸き上がり、経営層も含めて意識が激変した感があります。
渡部 そうした会社環境の変化につれて、鉄道事業のハード面だけでなく、顧客サービスなどのソフト面の充実を図る素地が整っていったのでしょう。当時の椎橋さんはJR東日本で先端的な技術開発を一手に引き受けるお立場でしたが……。
椎橋 もともと、JR総研(旧鉄道技術研究所)で鉄道事業へのICカードの応用がすでに検討されていたのですが、民営化を機にJR東日本が研究を引き受けました。私は90年代半ばには「非接触式ICカード乗車券」の原型をこしらえていました。改札機にタッチするだけで通れるのでお客様に便利だし、技術的な課題もほぼクリアできていました。
また、JR東日本は91年から磁気式プリペイド乗車券(※2)の「イオカード」を導入していて、運用10年後に大がかりな設備更新の時期を迎えることになっていました。そのタイミングで磁気カードからICカードへ一気に切り替えたいと思い、私は思い切って経営層に提案しました。以前なら一笑に付されたかもしれないが、民営化後に吹いた進取の風にも後押しされ、ゴーサインが出ました。
渡部 マインドセットが根本から変わったのでしょうね。自分の仕事のことは自分で考えて決めていい。ただし、自分の生業は自分で成り立たせないといけないと。
椎橋 その思いは強かったです。社員たちが誰彼となく、技術屋にも営業経験は必要だからと、駅ナカにテーブルを並べてJR各社で共通で使える「オレンジカード」の販売をやりました。そういう現場を踏んで得たカルチャーショックが、一人ひとりの気持ちをうまく切り替えさせたと思います。

技術のブレークスルーとオープン化戦略が奏功

渡部 そして2001年に「Suica」を実践投入。JRの改札口をスイスイ通れるようになって感心し、磁気カードから一夜にしてICカードに切り替わったことに驚嘆した記憶があります。
椎橋 私の立場で一番大変だったのは、ICカードをタッチするだけで通れる自動改札機に置き換えた後も、従来通りの磁気カードでも通れる機能を保つことでした。磁気カードを使われるお客様にもご不便はかけられませんので、ICと磁気を両立させる設備仕様が求められ、二重の投資も必要になりました。
渡部 磁気式のまま更新という現状維持案もある中で、あえて費用負担と技術的課題の大きい「Suica」案に挑む決断が下されたのですね。
椎橋 とはいえ、投資対効果を踏まえずに決裁は仰げませんから試算表をつくって説得材料にしました。私の計算では、現状維持案の投資額は約330億円、「Suica」導入案では約460億円。差額の約130億円は改札機の摩耗部品の寿命延長などによる経費節減で、運用後10年で回収可能と出たのです。このビジネスモデルを決定づける役員フリーディスカッションで「Suica」の将来像を3つの同心円の広がりで表し、中心円の鉄道事業をやりたいと提案し、「やっていい」と返された時は、さすがに背筋がゾクッとしました。
渡部 その場の情景が目に浮かぶようです。加えて、椎橋さんの本領である技術開発でブレークスルーを促す上でも、ご苦心があったと思いますが。
椎橋 例えば「Suica」のICチップに記録された乗車データを、通過する改札機内蔵のリーダーライターで読み取り、データを書き換える工程があります。このデータのやり取りを0.2秒以内に完了せねばならず、通信機能の精度を高めたり、データ処理を高速化したりするのに長い年月を費やしました。
また、ICカードを駆動させるには電源が必要で、1枚1枚にバッテリーを組み込めば話は早いのですが、それだと電池切れで急に使えなくなる心配がある。結局、リーダーライター側から電波で電源を供給し、バッテリー不要のカードにしたのも成功の一因といえるでしょう。
渡部 そうやってJR東日本がICカード乗車券に先鞭をつけると、その利便性が瞬く間に利用者に広まって、他の鉄道会社やバス会社なども相次いで「IC化」に追随しました。傍目には競争激化というより、むしろ共存共栄の印象が強かったのですが……。
椎橋 鉄道業界には他社線との相互乗り入れなどもあり、自然発生的な「お互いさまルール」が存在します。「Suica」導入の際も、研究開発で得た技術はすべて無償で各社に提供しました。今日、ほぼ全国の都市域にICカード乗車券の相互利用サービスが普及したことに、我々の「技術のオープン化戦略」が少なからず寄与したと自負しています。

KEYWORD

  1. ※1電子マネー
    特定の企業が提供する情報通信技術を介し、商品・サービス購入の支払い決済を行う手段のひとつ。事前チャージするものやクレジット機能付きなど様々なタイプがある。
  2. ※2磁気式プリペイド乗車券
    自動改札機に磁気カードを通して運賃精算を行う方式の乗車券。関西各社共通の「スルッとKANSAI」カードなどがある。

決済機能、モバイル化でサービスの拡張性生む

渡部 今や「Suica」を1枚持てば、出張先などでの鉄道やバスの乗り継ぎもスムーズですし、ちょっとした買い物などの決済にも気軽に使えて便利です。この決済機能を付与したことで、乗車券にとどまらず、「生活インフラ」としての機動性も手に入れたのではないですか。
椎橋 おっしゃる通り、当初私が考えたのは「Suica」にクレジット機能を付けることでした。JR東日本にはすでに乗車券や定期券をキャッシュレス購入できる「ビューカード」があり、それとの一体化でより使い勝手の良いものに進化させたかった。その企てが03年に「ビュー・スイカ」に結実して、後にカードの残額不足をクレジット決済で補う「オートチャージ機能」なども追加する一方、04年からは「Suica電子マネー」のサービスに発展して、駅ナカから街ナカまで幅広いショッピングにご利用いただけるようになりました。
渡部 その後「Suica」は携帯電話とも一体化して、さらなる進化を遂げたのでしたね。
椎橋 これは「Suica」の多彩な機能を、ICカードを介さずとも携帯電話から利用できる「モバイルSuicaサービス」として06年に立ち上げました。例えば、駅の窓口へ行かなくても特急券や指定席券を予約購入でき、改札機に携帯電話をかざせば乗車できるチケットレス化を実現しています。予約の確認や変更、チャージ残高のチェックなどを携帯端末の画面で確かめながらできる安心感も「モバイル版」ならではでしょう。
渡部 今後も進化を重ねるとするなら、どんな方向を目指されるのか……差し障りのない範囲でお聞かせくださいますか。
椎橋 実は「Suicaカード」にはID番号を振ってあり、1枚1枚の利用履歴がセンターサーバーに蓄積される仕組みになっています。お客様がカードをなくされた際の利用停止や再発行に備えてのものですが、累計発行枚数が8000万にも届くとビッグデータとしての価値が出てきますので、そこから新規のサービスを探っていく道があります。むしろ昨今は、先々の進化や拡張性に限りがない、「Suica」は終わりのないプロジェクトである──との思いを強くしています。

企業マインドを育てイノベーションを誘う

渡部 お話を伺ってきて思いましたのは、分割民営化を機に会社組織だけでなく人心も一新、職場の印象や空気感まで変わって、いわば新しいカルチャーが醸成されたのではないか。そして、それと軌を一にして鉄道会社の殻を破る「Suica」プロジェクトが着々と成果を収め、あたかも新生JR東日本を駆動する両輪の役割を担ってきた印象を受けました。
椎橋 的を射たご指摘だと思います。そうした組織と人が一体で醸し出すものを「企業マインド」とするなら、民営化の前と後とで完全にリセットしようとするマインドと、あくまで軸足は鉄道事業に置くべきというマインドが共存していました。そういう中で登場した「Suica」は、世界的にも類例を見ない「鉄道会社が提供する電子マネーサービス」という立ち位置を確立し、両極のマインドをバランスよく融合させたかもしれません。
渡部 その企業マインドをどうやってうまく継続・発展させていくかは、我々の会社にとっても優先度の高い経営課題です。実は、J-POWERのプロフィールにはJR各社と似通ったところが多く、電気と鉄道と分野こそ異なりますが、社会インフラの基盤となる事業者であるのは同じです。また、かつて国の特殊法人だった当社も04年に完全民営化を果たしました。ほかにもJ-POWERグループ全社員の8割方を技術職が占め、優れてテクノ・オリエンテッドな会社である点や、各事業現場を多くの有能なスタッフたちが支えている点なども、JR各社に相通じると思います。
椎橋 であれば、企業マインドの育て方にも共通項が多いでしょうね。ただJR各社は前身の経営破綻という死地をかいくぐった経験をバネに、会社再生へのモチベーションを補強できた面もあったかと思います。
渡部 私が特に注目したいのは、JR東日本の大きな推進力となった「Suica」がまだJR総研で基礎研究の段階にあった頃、作業チームの大半は若い世代の研究者だったというエピソードです。いつ陽の目を見るかわからないICカード技術の研究に、愛着と信念を傾けて没頭できる。そして小さな成果の積み重ねが、やがて会社の業態まで変えかねないほどのイノベーションに実を結ぶ。我々もぜひ見習わなければなりません。
椎橋 それはJ-POWERにも十分に起こり得ることだし、現に社内のあちこちで萌芽が始まっているかもしれませんよ。
渡部 そうですね。若い社員たちが自発的かつ主体的に考えて、中堅どころの社員が「会社の将来を占うビジネスモデルだ」と自信満々で提案してくる、どんなに小さくても挑戦し続ける、そんな企業風土の醸成をめざします。

人からもの好きと言われるまでこだわる

椎橋 そのビジネスモデルに関連して、私は次世代の移動の概念である「MaaS(モビリティー・アズ・ア・サービス)」に着目しています。これまで個別に運営・利用されていた鉄道やバス、タクシーなどの交通手段を1つのプラットフォームに統合。利用者は自分に最適な手段を選び、検索・予約・乗車・決済をスマートフォン1つで済ますという構想です。
渡部 MaaSは公共交通機関の利用を促して交通渋滞を緩和し、駐車場不足や排ガスなどの問題解決につなげるのが本来の趣旨です。都市部では鉄道駅が中核となるケースが多いでしょうから、鉄道会社にはビジネスチャンスになりますね。
椎橋 私が驚いているのは、大手自動車メーカーが、もはや自らは車を製造販売する会社ではなく、スムーズな輸送・移動サービスを提供する会社だとアピールし始めていることです。自動車ですら本体よりも付帯サービスをウリにする時代が来て、鉄道会社が古いビジネスモデルの上にあぐらをかいたままでいい道理がありません。
渡部 それは我々にも耳の痛いところです。電気事業は製品自体やマーケティングなどで差別化を図るのは難しく、電気の安定供給を通じて人々の暮らしや社会に貢献することに経営資源を集中しています。しいて独自性を挙げるなら、J-POWERグループは早くから海外進出して、東南アジアの国々などへの発電事業や技術協力に実績を重ねている点かと思います。
椎橋 JR東日本グループも海外進出に積極的です。英国で鉄道路線を運営したり、インドで高速鉄道の導入支援などをしたりしています。いずれは「Suica」技術の移植などにも手を広げていければと。
渡部 同じインフラ系の会社で、事業への志も似た者同士。いつかどこかで、がっちり協働できたらいいですね。
椎橋 お互いの長所を持ち寄ったコラボ事業を楽しみにしています。

渡部 では最後に椎橋さんの豊かな経験を通じて、これからの若者たちに向けたメッセージを頂戴できますでしょうか。
椎橋 私が「Suica」をつくった際に感じたキーワードが「人」と「心」。つくるのも人、使うのも人であることを意識して、そこに心を込めなければ、いいものづくりはできないと肝に銘じました。そして、ことの帰趨を決するのが「もの好き」。なぜそこまでこだわるのか、お前はもの好きだと人から言われるぐらいになることです。
渡部 ものづくり成功のカギは「人」「心」「もの好き」の三位一体なのですね。
椎橋 そう信じます。「Suica」の研究開発では、顧客目線に徹して「これは便利だ」とお客様に言われ、自分自身も「確かに便利だ」と納得がいくまで、こだわり抜きました。
渡部 そのお言葉を社員一同しっかり心に刻み、真に社会に貢献しうる企業を目指します。
本日はありがとうございました。

構成・文/内田 孝 写真/吉田 敬

ICカードの代名詞となった「Suica」。
写真提供:JR東日本メカトロニクス

自動改札機では、「Suica」だけでなくスマホでも決済することができる。
写真提供:田中庸介/アフロ

PROFILE

椎橋 章夫(しいばし・あきお)

JR東日本メカトロニクス株式会社取締役会長。1953年、埼玉県生まれ。1976年埼玉大学理工学部卒後、日本国有鉄道入社。1987年東日本旅客鉄道株式会社入社。設備部旅客設備課長、鉄道事業本部Suicaシステム推進プロジェクト担当部長、同IT・Suica事業本部副本部長などを歴任、Suicaプロジェクトの指揮を執る。2012年JR東日本メカトロニクス株式会社入社。2019年から現職。2006年東京工業大学大学院修了、工学博士。著書に『ペンギンが空を飛んだ日』 (2013年、交通新聞社新書)など。