時代の波を乗り越え蘇った石炭の島
藤岡 陽子
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長崎県西海市と松島火力発電所を訪ねて
J-POWER松島火力発電所は長崎県西海市の炭鉱跡地にある。
江戸時代は捕鯨で栄え、大正から昭和にかけて炭鉱の島として隆盛を極めた西海市周辺の町を旅して歩いた。
作家 藤岡陽子/ 写真家 大橋 愛
捕鯨から炭鉱へ 松島の名所を巡る
日本一小さな公園――。
松島を散策していると、そんなひかえめな看板が目に入った。その名の通り本当に小さな公園には、シュロの木と手作りされたベンチ以外なにもない。
だが目の前には果てしない海が広がり、炎のような夕陽がまっすぐに落ちていく。小さな公園から眺める、大きな世界。
空と海の境が淡く滲むこの時間は、島で迎える最高の瞬間だった。
「いま島の人口は450人ほどですが、炭鉱が最盛期を迎えた昭和の初期には、1万3,000人を超える人たちが暮らしていました」
島の歴史を教えてくださるのは、さいかいガイドの会の渋江一文さん。松島で生まれ育った渋江さんと島内を回りながら、幾つかの名所を訪ねて歩く。
松島のシンボル「らくだ島」はその岩の形がラクダそっくりで、いろいろな角度から眺めたくなってしまう。
「ぜぜヶ浦」は砂浜の色が赤茶色と珍しく、観光に訪れた人たちを驚かせているそうだ。
いまから遥か昔、江戸時代の頃、瀬戸―松島間の松島水道では捕鯨が盛んだったという。
鯨を捕っていた時代はおよそ100年続き、やがて衰退し、大正から昭和にかけては炭鉱の島として名を馳せるようになった。
ところが1929年に島内の第3坑で出水事故が勃発。1934年には第4坑でも同様の事故が発生し、炭鉱の島としての歴史は1938年に幕を閉じる。
炭鉱時代の遺構となる第4坑の跡地では、犠牲になった命に黙とうを捧げてから、渋江さんに当時の様子を伺った。
「第4坑で起きた事故では、炭坑の空洞264万m3に8時間45分で海水が満ちたそうです。つまり1分間に5,000トンの水が入ってきた。エレベーターを何度も上げ下げして中に取り残された作業員を助け出したのですが、54名の方々が逃げ遅れてしまいました」
跡地にある赤レンガの建物は、坑内で働く作業員を昇降させる巻き上げ機が設置されていたと聞く。ほかにも変電所や守衛室が残り、当時の活気を伝えてきた。
「私の父親も炭鉱で働いてたんです。私が生まれた時はすでに松島炭鉱は閉鎖してましたが、ほかの場所にはまだ残っていましてね。私が14歳の時までは、石炭を掘っていましたよ」
だが時代の波にのまれ、残っていたわずかな炭鉱も消えていった。
殺伐とした景色の中に松島火力発電所ができたことは、自分にとって喜びだったと渋江さんは語る。
石炭の島が再び蘇ったのは、渋江さんが31歳の時だった、と。
栄華と衰退の歴史 過去を知る大切さ
崎戸町にある「崎戸歴史民俗資料館」では、捕鯨や炭鉱の知識をより詳しく深めることができた。
資料館の職員、谷口愛さんにご説明いただき、松島で見聞きした当時のことをさらに学んでいく。
「鯨を1頭捕ったら、いまでいう何千万円という収入が得られたようです。松島、江島、平島は鯨組の本拠地としてずいぶん潤っていたんですよ」
館内には銛や網で行っていた昔の捕鯨を描いたパネルや、鯨の骨格標本などが展示されていた。説明を聞いていて気になったのは、なぜ鯨が捕れなくなったかということ。
「鯨にストレスがかかり生殖機能が衰えたことや、子どもの鯨まで捕っていたのが原因ではないかと言われています」
先を見据えた漁をしなかったことが衰退の原因ではないか、と谷口さんは話す。こうした反省は現在の日本の漁業にも生かせると思い、過去を知る大切さを実感した。
炭鉱の資料を展示するコーナーでは、戦後に働いていた方の実際の給料明細を見ることができた。
黄ばんだ用紙に手書きされた給与額をじっと見つめていると、
「当時の給料をいまに換算すれば月50万円くらいになりますよ」
と谷口さん。高給なのは、命を張ったきつい労働だったからで、炭鉱で働く人たちの多くは豊かな暮らしを送っていたと聞く。
炭鉱が日本人の生活を支えてきた大切な産業であったことを、改めて胸に刻んだ。
優良な地場企業を目指し 特色ある船を造り続ける
崎戸町から中戸大橋を渡り大島町に入っていけば、大島造船所の巨大な大型クレーンが見えてくる。
私が造船所を訪れたこの日は完成した船を船主に引き渡す「命名引渡式」が催され、その式典を見学することができた。
造船所内を案内してくださった藤原浩幸さんによれば、この日の船は台湾のセメント会社に引き渡されるということだ。
「銀河鉄道999」の演奏が流れる中、くす玉が割られ、たくさんの白い鳩が空に放たれる。華々しい船の門出を、集まった地元の方々と一緒になって拍手で祝った。
「うちの造船所では年間36隻から40隻ほどの船がつくられています。なので多い時は月に4回ほどの式典が行われるんですよ」
大島造船所が得意とするのは、バルクキャリアと呼ばれる、原料を運ぶ船。石炭やセメントなどを運ぶ「ばら積み専用」で、車両に喩えればトラックのような役割をする船だそうだ。
「専門性を高めることで船の完成度が上がり、無駄も省けるんです」
81万m2もの広大な敷地をうまく活用し、ブロック工法で船をつくっていく。ブロック工法とは小組、中組、大組と船のパーツを段階的にそれぞれの建屋で組んでおき、最後にドックで完成させるという手法だ。組み立てるパーツが建屋ごとに決まっているので、作業能率も上がる。
「いま造船業界は第3次不況と言われています。船が余っていて、安くしか売れないのが現状です。ですが受注を増やし、コスト低減をすれば、利益は出せると私たちは考えております」
船内の装置や荷室の形状など、お客さんの要望に合わせて仕様を変える。そうした企業努力で、より多くの注文がとれるよう努めていると藤原さんは話す。
大島造船所は大島、崎戸の炭鉱が閉鎖した後、1973年に創業された。長崎県や大島町から熱心な誘致と支援を受けてのことだという。所内で働くおよそ2,800人の方々の中には県内や地元出身者も多く、地場企業としての役割は大きい。
「心一つにガンバらんば」
造船所内の空には、そんな言葉を記した横幕が掲げられていた。おそらくその想いは、この土地で暮らすすべての人々が胸に抱いているものなのだろう。
「船はなによりたくさんの荷物を運べます。景気に浮き沈みがあっても、そこを乗り切ればなんとかなる。私はそう思っています」
船はなくならない、と言い切る藤原さんの強い眼差しが、海に向かっていた。
松島炭鉱跡の火力発電所 日本で初めて海外炭を使用
西海市大瀬戸町の瀬戸港から市営船に揺られて、およそ10分。松島火力発電所は、かつて炭鉱で栄えた松島にあった。
海に臨む発電所内を、渡部信也所長に案内してもらった。私が訪れた時期は台風で大雨が続いていたのだが、この日は晴天。空と海が眩いほどに輝いている。
「ここは日本で初めて海外炭を使った発電所として、1981年に運転を開始しました。特徴としては高効率化、大規模化、海外の炭鉱開発、この3点があげられます」
所内にある1、2号の発電機はそれぞれ50万kWのものを採用しているが、当時は石炭火力として日本最大を誇ったという。また同時期にオーストラリアの炭鉱開発に参画し、8万トンクラスの石炭船で運搬するなど、先駆的な試みを成功させてきた。
渡部所長と高さ約70mの、1号機屋上まで足を運んだ。
「海に停泊しているのが石炭船で、年間約260万トンの石炭を運んでいます。黄色いのは石炭を荷揚げする機械、アンローダーです」
船で運ばれてきた石炭がどのような流れで貯炭場まで届き、燃焼、発電をしていくのか。鳥の目になって所内を一望すればよくわかる。
127万m2の敷地には海外炭専用の火力発電所としての設備が、無駄なく配置されていた。
「37年も前にこの発電所を建設された先輩方は本当にすごいと感じます。いまも年間のうちほぼ80%以上の利用率で動いていますよ」
最新の技術を取り入れ設備を維持し、より安全に作業することが自分たちの使命だと話す渡部所長。
先の台風による大雨でも、所員の方々の迅速な対応で被害を防げた。「大切なのは準備、実行、反省の繰り返しです」という所長の言葉が、胸に留まるルポとなった。
松島火力発電所
所在地:長崎県西海市大瀬戸町松島
認可出力:1,000,000kW
運転開始:1981年1月(1号機)/1981年6月(2号機)
Focus on SCENE 長崎に夏を呼ぶペーロン大会
ペーロンは、白龍(パイロン)がその語源という説があり、中国伝来の手こぎ舟で競漕する行事。江戸時代の1655年(明暦元年)に長崎港に停泊中の中国船が嵐で難破。在留の中国人たちが、海神の怒りを鎮めるために競漕したことが始まりと伝わる。長崎県では6月初めから8月中旬まで、各市町村で大小様々な大会が実施される、長崎の夏の風物詩だ。その最大のものが毎年7月最終土日に長崎港で開催される「長崎ペーロン選手権大会」。職域対抗や中学校対抗、女性対抗などのレースが争われ、各チームは仲間の名誉のために熱戦を繰り広げる(写真手前はJ-POWER チーム)。
文/豊岡 昭彦
写真 / 大橋 愛
PROFILE
藤岡 陽子 ふじおか ようこ
報知新聞社にスポーツ記者として勤務した後、タンザニアに留学。帰国後、看護師資格を取得。2009年『いつまでも白い羽根』で作家に。最新作は『海とジイ』。その他の著書に『手のひらの音符』『満天のゴール』がある。京都在住。