江戸情緒溢れる町に脈々と続く商いの才気
藤岡 陽子
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埼玉県川越市と南川越変電所を訪ねて
大江戸(東京)に対し、小江戸と呼ばれた埼玉県川越市。
江戸の文化が色濃く残るこの地に、J-POWER東日本支店と東地域流通システムセンターがある。今も昔も地方経済の中心として栄える気概の町を、旅して歩いた。
作家 藤岡陽子/ 写真家 竹本 りか
川越のメインストリート 蔵造りが建ち並ぶ一番街
本川越駅から10分ほど歩き、川越一番街にたどり着いた。
ここは「蔵造りの町並み」と呼ばれる一画で、通りの両側には江戸様式の蔵が軒を連ね、当時の姿そのままに客人を出迎えていた。
重厚な屋根瓦、観音開き扉の窓、江戸黒といわれる黒漆喰仕上げの壁──。どの店も独自の風合いで、江戸の情緒を醸し出している。
この町並みが造られた背景には、大火事という不運なできごとがあったと聞く。
時は明治26年(1893年)。町の約4割を焼き尽くす大火が起こり、この通りにあった商店はほぼ壊滅。その際にたった1軒だけ焼け残った建物があり、それが江戸時代に建てられた蔵造りだった。これを知った豪商たちは自分たちの店も蔵造りを用いて再建し、それが現代に残ったといわれる。
「できたてホカホカの芋まんじゅう、いかがですか──」
と昔ながらの商店は、今なお活気に溢れ、商いを営んでいる。
通りの中心に、人の往来の中でそびえ立つ「時の鐘」を見つけた。この鐘楼はおよそ400年前から受け継がれてきたもので、大火の後、明治27年(1894年)に再建された。現在も6時、12時、15時、18時に鐘は鳴り、小江戸の町に時刻を告げていた。
徳川家に守られた寺院 喜多院の重要文化財
一番街を通り抜け南東の方角に向かっていくと、喜多院という広大な敷地を持つ寺が見えてきた。
川越と江戸が強く結びついた理由のひとつに、この寺の存在があるといわれ、その史実を確かめに行ってみる。
「江戸時代に入寺した天海僧正は、徳川家康公と深い親交があったのです」
喜多院と江戸幕府との繋がりについて教えてくださったのは、59代目住職の、塩入秀知さん。もともとは無量寿寺北院と称されていた院号を喜多院と改称したのも天海僧正だったという。
「天海僧正は家康公の政策アドバイザーのような存在でした。家康公が崩御された時にはご遺体がいったん喜多院に運ばれ、天海僧正が供養した後に日光東照宮に移されたとも伝えられています」
江戸時代に喜多院が火事で焼失した際には3代将軍の家光公が、「天海のお寺を再建しなさい」との命を出し、江戸城の一部が移築されたのだそうだ。
塩入さんに寺の奥にある「徳川家光公誕生の間」や「春日局化粧の間」など国の重要文化財となった部屋を見せていただき、歴史の一端に触れた喜びに浸る。
縁結びの神さま 川越の鎮守氷川神社
かつて川越と江戸を舟運で繋げていた新河岸川を橋の上からのぞいたり、江戸好みの菓子を売る菓子屋横丁を散策したり。スタンプラリーをするように江戸の名残をたどっていけば、その奥深さに惹きこまれていく。町には華やかな着物を身につけた娘さんの姿もあり、なにやら楽し気なのが気になり、後ろをついて歩いてみる。
娘さんたちが向かっていたのは、縁結びで有名な鎮守氷川神社。こちらの神社では恋愛成就に効果がある「縁結び玉」という巫女の手づくりお守りが手に入るらしく、それがお目当てなのかもしれない。
神社に奉納されている絵馬にも恋愛成就の願掛けが多く、恋愛戦線からはとっくに退いているはずの私なのだが、華やいだ気分をおすそ分けしてもらった。
関東三大祭りのひとつ「川越まつり」は、氷川神社の神幸祭が起源で、元々はこちらの神様が神輿に乗せられ、川越の町を巡り歩いたとされる。
蔵造りの店内でいただく江戸時代の大ヒット菓子
江戸時代から続く老舗の和菓子屋があると聞き、散策の行先は再び一番街へ。1783年(天明3年)に創業されたとされる株式会社龜屋を訪ねた。
「いらっしゃいませ」
丁寧なお辞儀で迎えてくださった松津哲夫さんは、3世代の社長とともに店を支えてきた大ベテラン。店の奥にある歴史ギャラリーに通していただき、龜屋の成り立ちを教えていただいた。
「龜屋が川越藩の御用商人になったのは、3代目山崎嘉七の時でした。当時は川越藩に納める高級和菓子をつくっていたんですよ」
跡を継いだ当主たちはそれぞれ才気を放ち、4代目山崎嘉七は他の豪商たちと協力して埼玉初の銀行「国立八十五銀行」を設立。頭取に就任したという。現在も店頭に並ぶ芋せんべい「初雁焼」を発案したのは5代目で、この地でサツマイモの菓子づくりを始めた第一人者である。
「当時も川越はサツマイモが有名でしてね。だからサツマイモを使ったお菓子がなんとかできないかと考えたんでしょう」
当時、砂糖は輸入でしか手に入らず、人々は甘味に飢えていた。サツマイモ菓子はたちまち話題を呼び、大ヒット商品に成長した。
松津さんが出してくださった5代目発案の初雁焼を、お茶と一緒にいただいた。素朴な甘味が鼻を抜け、旅の疲れがいっきに癒えた。
川越発のCOEDOビール 目標は「定番の埼玉土産」
株式会社協同商事コエドブルワリーは、川越発のクラフトビールを製造している。その名も「COEDOビール」。会社にビール事業部が創設されてからまだ22年目という新鋭だが、ワールドビアカップ、ヨーロピアンビアスターなどの世界的なビール品評会において数多くの賞を受賞し、その実力は国内外で認められている。
「わが社は約40年前に、野菜の商社として設立されました。先代の朝霧幸嘉社長が、農家とのつき合いの中で『規格外のサツマイモをなんとかしたい』と思ったのがきっかけだそうです。サツマイモを使った『紅赤』というビールは、うちで最初にできたものです」
COEDOビールについて教えてくださるのは原田康平さん。白、毬花、瑠璃、伽羅、漆黒、そして紅赤──。
これらはビールの名前で、「ビールに詳しくない人でも選びやすいように」と色を基準に名づけているのだそうだ。
2代目の朝霧重治社長は営業の場を国内外に広げ、香港など海外を含めたおよそ15カ国と取引しているという。
「今の目標はCOEDOビールが定番の埼玉土産になることです。川越はもちろん、埼玉にも愛され、全国に発信したいんです」
と語る原田さん。自慢の「紅赤」を試飲させていただき、あまりの美味しさに、その目標が必ず達成するだろうことを確信した。
大きな歴史のうねりの中に身を置くような、小江戸の旅も終わりに近づこうとしている。時の鐘が18時を告げる頃、江戸時代を散策していた私の意識は、平成の時へと還っていく。
消費者に近い立場から電力の安定供給を目指す
これまで発電所や送電設備を見学させていただいたが、変電所を訪れるのは初めてのことだ。正直なところ変電所に関する知識がまったくなく、そんな丸腰の状態のまま南川越変電所を訪れた。
「うちの変電所では、奥只見発電所などから送られてきた27万5,000Vの電圧を、15万4,000Vの電圧に下げています。そしてその15万4,000Vの電気を、顧客となる電力会社の依頼に従って、必要な箇所に振り分けているんです」
変電所の役割をわかりやすく教えてくださったのは、清水雅幸センター長。ちなみに発電所から高い電圧で電気を送る理由は、電力の損失を少なくするため。でもその高い電圧のままでは工場や住宅などでは使えないので、変圧する必要があるのだという。
雪がうっすら積もる敷地内を、変電グループリーダーの若林哲夫さんの説明を聞きながら歩いた。5台の変圧器を中心に据えた大規模な設備に、圧倒される。見学をした日はちょうどメンテナンスの最中で、所員の方々が細心の注意を払って作業をされていた。
「変電所は発電所に比べると、消費者により近いですよね。だから電気が止まって迷惑をかけないように、点検も補修もなるべく迅速に終わらせる必要があるんです」
落雷や鳥獣の被害で、送電がストップすることもあるそうだ。だがそれらの状況は保護制御装置が速やかに感知し、不具合が起こった設備を電気回路から切り離して修復していくのだという。
今回の見学を経て、自分の手元に届くまでの電気の流れがようやく理解できたように思える。
「常に健全性を見ていきたい」
という若林さんの言葉が、心に残る見学となった。
南川越変電所
所在地:埼玉県川越市むさし野
認可出力:1,542,000kVA
運転開始:1959年5月
Focus on SCENE 川越氷川神社の吊り灯籠
埼玉県川越市にある氷川神社は、古墳時代の創建といわれ、江戸時代からは川越の総鎮守とされてきた。2016年にユネスコの無形文化遺産に登録された「川越まつり」は、同神社の例大祭で、豪華絢爛な山車が練り歩く秋のまつりだ。境内の吊り灯籠には、氷川神社の社紋(神紋)である「雲菱」と皇室の紋章「菊」があしらわれている。「雲菱」は、吉兆を表す瑞雲を菱形に整えたもの。祭神である素すさのおのみこと戔嗚尊の歌「八雲たつ 出雲八重垣 妻籠(つまご) みに 八重垣作る その八重垣を」にちなんだ。
文/豊岡 昭彦
写真 / 竹本 りか
PROFILE
藤岡 陽子 ふじおか ようこ
報知新聞社にスポーツ記者として勤務した後、タンザニアに留学。帰国後、看護師資格を取得。2009年、作家デビュー。最新作は『満天のゴール』。デビュー作が原作のTVドラマ『いつまでも白い羽根』がフジテレビ系列で放送された。