華族農場と疏水が語る 那須野が原開拓の歴史
~栃木県那須塩原市と沼原ダム・発電所を訪ねて~
藤岡 陽子

Home of J-POWER

青木周蔵の別荘として建築された旧青木家那須別邸。邸宅前に広がる「ハンナガーデン」には季節の花が咲き誇る。

J-POWER沼原発電所は、那須連山の裾野にある栃木県那須塩原市にある。同市は那須野が原に位置し、一部は水不足で苦しんだ原野。不毛の地が農地に変わるまでの、開拓の歴史を知る旅に出た。

作家 藤岡 陽子/ 写真家 大橋 愛

華族たちが開拓を牽引 歴史を語る瀟洒な別邸

初夏の明るい日差しを浴びながら、板室街道から続く杉並木を歩いていく。
すると、羽を大きく広げた白鳥のような美しい洋館が見えてきた。
屋根の上部が緩い勾配、下部が急な勾配になった二つの傾斜面を持つマンサード屋根、屋根から突き出したドーマウィンド、そして鱗形の白いスレートで飾られた外壁――。道の駅「明治の森・黒磯」に隣接するこの瀟洒(しょうしゃ)な建物は旧青木家那須別邸といい、1888年に建てられたそうだ。
当主の青木周蔵は子爵で、かつドイツ公使や外務大臣を務めた外交官。ドイツの大土地所有貴族の心豊かな生活に憧れ、まだ未開の地であった那須野が原に1881年、青木農場を開設した。
青木だけではなく、当時は多くの華族たちがこの地に夢と理想を求め、次々と農場を開いたという。華族たちが開設した農場は華族農場と呼ばれ、那須野が原の開拓を牽引した。那須塩原市内には青木別邸以外にも大山巌(いわお)や松方正義、矢板市には山縣有朋の別邸がいまも残り、華族農場の歴史を伝えている。

1880年に開拓始まる 那須疏水完成と農場開設

大山巌が建築した大山別邸。大山は1881年に西郷従道とともに加治屋開墾場を起こし、後に分割して大山農場を創設した。
西岩崎の旧取水口。
千本松牧場の側にある疏水の第三分水の水門。

華族たちがなぜ那須野が原に農場を開いたのかを知るため、「那須野が原博物館」を訪れた。出迎えてくださった松本裕之館長に、那須野が原の開拓の歴史をより詳しく教えていただいた。
「那須野が原は木の葉のような形をしていて、東を流れる那珂川(なかがわ)と西を流れる箒川(ほうきがわ)に挟まれた扇状地です。中央部には熊川と蛇尾川(さびがわ)があるのですが、地下が砂礫(されき)層なので水が地下にしみこんでしまい、水が流れておらず、水無し川と呼ばれています」
那須野が原は江戸時代まで、カヤが一面生い茂る原野で、水がないこともあり農作物が育つには厳しい環境だった。
ところが1880年に地元の有力者たちが声を上げ、原野の開拓が始まったという。
「まず最初に立ち上がったのは、矢板武、印南丈作でした。二人は那須開墾社を設立し、後に政府に用水路の造設を懇願したのです」
政府は飲み水と潅漑(かんがい)に使用する用水路をつくることを承諾し、1882年に那須原飲用水路を開削、1885年には那須疏水を造設する工事が始まった。造設工事はわずか5カ月で完成。那珂川上流の西岩崎を取水口とし、千本松までの16.3kmに及ぶ本幹水路が開通。
さらに翌年には分水のため4本の水路も造設され、水を利用できる農場の範囲が広がった。
那須疏水が完備された1887年頃は農場主の半数が華族だったとされ、面積では4分の3を占めたとされる。

那須野が原博物館の松本裕之館長。
蛇尾川の下を横断してきた疏水が地上に湧き出る場所「サイフォン出口」。
五角形の石積みのトンネルの一部。かつてはこのトンネルで川の下に水を通していた。
千本松牧場側の那須疏水とガラガラ水車。
矢板武と印南丈作が提出した「水路費調簿」。
西岩崎頭首工は、現在の那須疏水の取水口。
沢名川にかかる乙女の滝。
明治時代の大日本帝国陸軍大将、乃木希典を祀る乃木神社。
千本松牧場の敷地内に建つ松方別邸。松方家の私有地なので遠目から拝見する。

地下水の利用が普及 水田がいっきに広がる

「那須野が原開拓と自然・文化のいとなみ」をテーマに2004年に開館した那須野が原博物館。
千本松牧場の三野進一さん(右)と筆者。

博物館で松本館長のお話を聴いた後、町に流れる那須疏水を巡ってみた。
那珂川の上流にはいまは使用されていない西岩崎旧取水口が昔のまま残っていて、絶壁にトンネルを掘ってつくられている様子から工事の苦労がしのばれる。
旧青木家那須別邸がある黒磯や西那須野、千本松牧場の側にも水路は流れ、こうして見ると、この地にとって那須疏水がどれほど重要なものかがわかってくる。
木の葉のような形をした扇状地の、まさに葉脈だったのだろう。
松本館長によると政府が減反政策を始める前、1950年代頃からは那須疏水に加えて地下水の利用も始まり、その後いっきに水田が増えていったという。
いまこうして散策していると、町に田んぼが広がっていることに気づく。開拓に懸けた先人たちは、この風景を夢見ていたのだろう。風が吹くたびに田んぼの水面に波が起こり、すくりと伸びた緑の稲がゆらゆら揺れていた。

華族農場が前身 千本松牧場の理念

明治に開設された華族農場を前身とし、いまも経営を続けている農場があると聞き訪ねて行った。
「うちの牧場の始まりは、松方正義が1893年に開場した千本松農場です」
千本松牧場本部長の三野(みの)進一さんから牧場の成り立ちを伺い、825haの敷地を車で案内していただいた。
「松方は公爵であり、内閣総理大臣を2度務めた人です。元々敷地は、今の約2倍あったのですが、1928年に蓬莱殖産(現ホウライ株式会社)が引き継ぎ、大正から第二次世界大戦後にかけ、現在の敷地面積になりました」
いまは多角経営の牧場事業として三野さんたちが運営している。
「千本松牧場では、自分たちのホルスタインからとれた生乳しか使用しません。アイスクリームなどの乳製品もすべて、牧場で生産された生乳でつくっています」
約500頭のホルスタインが過ごす牛舎はフリーストールといって、牛をつながずに自由に歩き回れるスペースを持ったスタイル。広大な畑では牛たちの1年分の飼料となるとうもろこしや牧草が植えられていた。
「私たちは、本州でも珍しい循環型酪農を実践する牧場で、環境に配慮し、安心・安全な製品をつくる『PURE MILK FARM』を目指しています」
と三野さんは語る。
たとえば、牛たちの寝床になる「おが粉」は敷地に生える赤松でつくられているが、使用を終えたものもまた、肥料にして畑で使っている。
自然を大切に無駄遣いはしない。その考えは、「自然と共生する」という松方の理念をそのまま引き継いでいる。
「私は千本松牧場を特別な場所にしたいと思っています。ここに来たらこんなことができる、という非日常の体験をしていただきたいんです。子どもたちには低温殺菌にこだわった、成分無調整の美味しい牛乳を飲んでほしいですね」
いちご園があり、ブルーベリー畑があり、足湯や温泉が楽しめる。レストランや動物たちとのふれあい広場、サイクリングコースまで備わる牧場だが、
「人工物でつくったものを少なくするように心がけています」
というこだわりもある。
できるかぎり木材や土を使ったもので遊べる施設にしたい、と三野さんが微笑む。現在は新しいレストランと売店を建設中で、新施設には太陽光パネルを設置し、温泉を引いて床暖房にする予定だそうだ。
緑あふれる千本松牧場を見学していると、華族たちが求めた心の豊かさがこの場所にあるように思えた。
水無し、不毛の地と呼ばれた地域はいまや米どころであり、日本有数の牛乳生産地になっている。いまから140年以上前、情熱と野心をもってこの地を開拓した先人たちに伝えたい。
夢は途絶えずここに在る、と。

博物館に展示されている疏水を造設するのに使っていた昔の道具、くわなど。
天秤と水桶を使って水の運搬を体験する筆者。とてつもなく重くて、立っているだけでフラフラ。
牧場内で飼育されている乳牛たち。雨降りなので牛舎でのんびり。
千本松牧場で育てた乳牛からとれた生乳を使用し、65℃30分で低温殺菌された牛乳は濃厚で最高に美味でした!

運転開始から51年目 徹底した保守と管理

標高1,240mの高地につくられた沼原ダム。全周1.6km。青空がダム湖面に映り込み、幻想的。

一般の方は立ち入りを禁止されている管理者用のゲートを抜け、車で山道を上り、沼原(ぬまっぱら)ダムにたどり着いた。
案内してくださったのは中岡敬雄所長。標高1,240mの高地で、巨大なすり鉢のようなダムを見た瞬間、壮大な光景に目を奪われた。
「沼原発電所は上池となる沼原ダムに下池の深山ダムの水をポンプ水車で引き揚げ、落差を利用して発電する揚水発電所です。上池と下池の落差は500m以上で、建設当時はここまでの高落差の揚水発電所は世界でもありませんでした」
沼原ダムの工事が着工されたのは1969年。日本が経済成長を遂げていた時代で、電力の需要が増加していた。また1967年に国営事業による「那須野ヶ原総合開発事業」もスタートしていたことも建設の後押しになった。
見学した日はダムの水深が15mほどまで下がっていた。中岡所長に理由を尋ねると、東日本大震災時にクラック(裂け目) が入り、地震以降は毎年5月にダムの水位を15mまで下げて点検をしているという。さらに5年毎に満水位時の水深40mの水をすべて抜いて大規模な点検・補修を行うそうで今年はその年にあたる。
「設備の保守と管理がメインの仕事なので、緊張感を持ってやっています」
大規模な設備を健全に維持していくことの重要さ、大変さが中岡所長の言葉から伝わってくる。
ダムの周囲には百合に似た黄色の花、ニッコウキスゲが植わっていて7月中旬が見頃らしい。
花言葉は、「日々新たに」。
沼原発電所は昨年、運転開始50周年を迎えた。半世紀もの間、健全に稼働している背景には職員の方々の日々の努力があることを知る貴重な見学となった。

中岡敬雄所長と筆者。
発電所内に設置されている発電機。
発電所は地下68m。680mのトンネルを通っていく。
「沼原発電所」と大きく書かれた看板がお出迎え。
発電機の軸にあたる部分。
地下にある沼原発電所に行くためのトンネル入り口。
沼原発電所の地上部分にある開閉所の設備。
発電所への入退場を管理するための入退表示盤。
沼原事務所が管理している展示館「森の発電おはなし館」。
展示館では水力発電や揚水発電の仕組み、森の役割などが学べる。
揚水発電の仕組みを説明するための模型。


沼原発電所

所在地:栃木県那須塩原市板室
運転開始:1973年6月
最大出力:675,000kW

Focus on SCENE 歴史をつなぐ美しきアーチ橋

水面からの高さは約23m、橋長127.8m のアーチ橋として、近代土木遺産や日本の橋100選にも選ばれた晩翠橋(ばんすいきょう)。下を流れる一級河川・那珂川(なかがわ)は、福島県と栃木県の境界に位置する那須岳を水源とし、栃木県内を潤したあと、茨城県で太平洋に注ぐ。水量が豊富な那珂川は、明治時代の疏水事業により、不毛の地と呼ばれた那須野が原で農園経営を可能とし、現在も栃木県の農業や畜産を支えている。1884年(明治17年)に初代の橋が完成。1894年に架けられた2代目から晩翠橋の名が付いた。現在の橋は1932年につくられた5代目。

文/豊岡 昭彦

写真 / 大橋 愛

PROFILE

藤岡 陽子 ふじおか ようこ

報知新聞社にスポーツ記者として勤務した後、タンザニアに留学。帰国後、看護師資格を取得。2009年、『いつまでも白い羽根』で作家に。最新刊の『リラの花咲くけものみち』で第45回(2024年)吉川英治文学新人賞受賞。京都在住。