半世紀後の未来へ 科学者からの贈り物
香取 秀俊

Opinion File

「物理定数は本当に定数なのか。光格子時計による検証で、そんな物理学の基本にも踏み込みたい」(香取さん)。

物理学の歴史を変える「光格子時計」の発明

「300億年で1秒も狂わない“光格子時計”」の出現が、物理学の基礎理論に、そして我々の生活や社会に大きな変革をもたらすに違いないと世界中から注目を浴びている。「光格子時計」と呼ばれる次世代原子時計を開発したのは、東京大学教授(工学系研究科物理工学専攻)で理化学研究所主任研究員の香取秀俊さん。2001年にその仕組みを考案し、2003年に基礎実験に成功。それから11年もの研究を経て目指す精度の実現を果たし、2015年に英国科学誌に研究成果を発表して世界を沸かせた。その後も小型化・可搬化などの進化を加えつつ、実証実験を繰り返す。2021年9月、実用化も視野に入る研究成果を挙げてきたことが評価され、基礎物理学ブレイクスルー賞(※1)を授与された。

「そんなに正確な時計がなぜ必要なのかと、疑問に思われる方が多いかもしれませんね。でも、半世紀先の未来を考えるなら、まだ誰も使い方がわからないような過剰スペックを持つくらいがちょうどいいんです」

ゆくゆくはノーベル賞受賞の声も聞かれる香取さんはそう言って、笑顔を見せた。確かに、「数千万年に1秒の誤差」レベルの時計ならすでにあり、発明から半世紀以上を経ていつの間にか生活の一部に組み込まれている。1955年に英国の物理学者ルイ・エッセンが開発したセシウム原子時計(※2)がそれだ。1967年に国際度量衡総会(※3)が「1秒の定義」を決める時計に採用して以来、今も各国が定める標準時の基準となっている。その精度は15桁の精度、すなわち10のマイナス15乗まで測れるところまで進化した。

「測位衛星にも使われていますし、それを利用するGNSS(全地球航法衛星システム)や、Googleマップなどの位置情報アプリ、家庭にある電波時計にも不可欠な存在です。でもほとんど誰も、セシウム原子時計のことは意識していないし、こうなることを60年前には予想していなかった。それと同じようなことが、未来に起こると思っていいでしょう」

香取さんが発明した光格子時計は、セシウム原子時計の1,000倍に当たる18桁の精度を実現し、2030年に見込まれる「秒の再定義」に向けた有力候補と目されている。宇宙の年齢(138億年、※4)の2倍よりも長い間、正しく時を刻み続ける時計は何を変えるのか。それを予見するには、人類がたどった「時計の歴史」から知る必要がありそうだ。

香取さんが発明した光格子時計の模式図。卵パックのような微小空間に100万個の原子を並べていく。

社会の進化を支えてきた正確な時計、精緻な計測

時計の進化の歴史は、社会の進化の歴史に等しいと香取さんは言う。遡れば古代エジプト時代、人々は太陽や星の動きから暦を知り、ナイル川の氾濫時期を予測した。16世紀後半、ガリレオ・ガリレイが振り子の法則(※5)を見つけると、これを応用してクリスチャン・ホイヘンスが振り子時計を発明。1日に誤差数分の正確さが大航海時代を支えるが、船上で揺れても測れる時計が求められ、時計職人のジョン・ハリソンがゼンマイ式航海時計(マリンクロノメーター)を開発。経度測定に生かして海難事故防止に貢献した。

近代では1927年、電圧によって正確に振動する水晶の特質からクオーツ時計が誕生。鉄道などの交通網が発達するのに伴い、より正確な時刻を求める競争はどんどん過熱。時間計測は産業社会の進展に欠かせない基幹技術となり、「精密な時計」があらゆる社会活動を支えるインフラとなっていく。

「時間計測の技術革新をリードすることは、国家の覇権に関わる大命題と言っていいでしょう。実際、大英帝国は海運を制して軍事支配を広げましたし、90年代に米国防総省がGPS衛星の民生運用を認めたことが、今のスマホのナビゲーションにつながりました。自動運転の時代が来れば、なおさらですね」

時計の精度が上がるにつれて、「時間の定義」も変わってきた。つまり、何を基準に時間の長さを決めるのか。最初は地球が1回転する時間をもとにした。これだと1日の長さの8万6,400分の1が1秒となる。しかし、潮の満ち引きなどが影響し、自転の速度は一定しない。それがわかると、より誤差の小さい公転周期を基準として、1年の3,155万6925.9747分の1が国際的な1秒の定義となった。それが1956年のこと。

「ここで登場したのがセシウム原子時計です。物質を構成する原子は、ある決まった周波数で光や電波を吸収したり放出したりしています。この周波数を振り子と見なして時を刻んでいるのが原子時計。正確に時間を測るということは、不変な周期現象の繰り返しの回数を数えることです」

セシウム原子が発するマイクロ波の周波数は、91億9,263万1,770ヘルツ。これだけ膨大な回数を数えて1秒とする。だが、香取さんの光格子時計は、その4万倍もの周波数(約430兆ヘルツ)を持つストロンチウム原子(※6)が出す可視光を振り子として使うのだ。まさに桁違いである。

地図なき道の先を拓く 若き物理学者の決意

「実は、可視光を用いる光原子時計の研究は、80年代から欧米で進んでいました。ドイツのハンス・デーメルト博士(※7)が考案した単一イオン光時計がその先鋒で、理論上18桁の精度が出せることもわかっていた。ただ、その精度で1秒の周波数を読み取るには、原子の揺らぎに起因する雑音(量子雑音)を平均化しなければならず、それには100万回の計測が必要でした。1回1秒として100万秒、およそ10日間も要する測定です」

それでも、セシウム原子時計の次はこれだと世界中の研究者がなびく中、まだ無名の若手研究者だった香取さんは逆転の発想で新境地を拓く。

原子1個の計測で100万秒なら、100万個の原子を一度に使えば1秒ですむ――。

それを可能にするために香取さんが編み出したのが、特殊なレーザー光でつくった格子状の微小空間に原子を一つずつ並べる手法。それはあたかも卵パックのような形をとり、原子をすっぽり包み込んでつかまえることにより、100万個の原子が出す光の振り子が互いに影響し合うのを防ぐことができる。

2001年、原子時計の国際会議でこのアイデアを発表。若手の自由な発想は歓迎されたが、それで世界の研究の潮流が変わるほど先達の蓄積は軽くない。

「デーメルト博士をはじめ、それまで光原子時計を牽引してきた著名な学者たちがノーベル賞を受けています。若者一人の提案ですぐに流れが変わるものではありません。ですが、誰もやっていないからこそ研究する価値がある。ロードマップのないところに新たな道を拓くのが、科学者の役割だと思うのです」

理化学研究所の香取量子計測研究室に置かれた光格子時計。小型化・可搬化・堅牢化を目指す改良を重ね、冷蔵庫ほどの大きさを実現した。

未来の社会インフラへ 時空のゆがみを測る時計

2019年4月、香取さんの研究チームは東京スカイツリーに2台の光格子時計を持ち込み、世界をあっと言わせる実験を成功させた。地上450mの展望台に1台を置き、もう1台を1階に置いて同時に時刻を計測。半年ほどの試行により、展望台の時計が地上よりも、1日に10億分の4秒速く進むことを実証した。これは何を意味するのか。

「重力の強いところでは時間がゆっくり流れるという、アインシュタインの一般相対性理論の実証の一つです。今までは宇宙から人工衛星を使って計測する方法が採られていましたが、地上実験で、それも宇宙との距離とは比較にならないほど小さな高低差で同精度の結果を得られたことが話題になりました。そして重装備の研究室から抜け出し、電車の振動も気温の影響もある一般の生活空間で実証できたことが、小型化・可搬化・堅牢化を課題とする実用化への一歩を記すという意味で、大きなポイントだったと思います」

相対性理論に従えば、標高が異なる2つの場所で、同じ時間を共有することは難しい。なぜなら、高低差の分だけ時間の進み方が違うから。逆にいえば、時間の差を測ることで高低差が割り出せる。光格子時計ほどの精度があれば、理論的には1cmの差さえ計測できると香取さんは言う。

「同じように、光格子時計を自動車や列車に乗せて計測すれば、速く動くほど時間が遅れていく特殊相対性理論の効果も観測できる。原子時計はもはや、時間合わせの道具から、重力や運動による時空のゆがみを読み取るセンサーへと変わろうとしているわけです」

それが何に役立つか想像できるだろうか。GPSを遙かに凌駕する高精度の測位システムの出現により、重力によって刻々と変化する地球上の様々な自然現象、例えば地殻変動の精緻な監視と探査が可能になる。したがって、地震や津波の到来、火山の噴火を予知する防災システム、地底に眠る未利用資源の探索などに応用できるはずだ。

香取さんらはすでにその実証に動き出し、岩手県の国立天文台水沢VLBI観測所と理化学研究所に光格子時計を設置。東日本大震災を起点に今も続く年に約3cmの地盤隆起の観測を進めている。そうした研究からわかるのは、「地球は意外にやわらかい」という事実。太陽や月の引力が起こす潮汐効果は海水だけでなく陸地にも及び、6時間で最大5cmの高さ変化をもたらすという。

「これらはすべて精緻な時間差から解き明かされるもの。正確な時計を使って相対性理論をリアルに認識できる世界では、時間の進み方は場所によって違うのが常識となる。そうならば、一つの時計で時間を測ることに意味はなく、何台もの時計を結んでつくるネットワーク時計こそが新たな社会基盤となるでしょう。光格子時計の生かし方はそこにあると私は見ています」

さて、そのインフラをどう使い、新しい社会サービスやビジネスを起こすのか。それは香取さんから若い世代に手渡されるバトンである。サイエンスが生まれた遙か昔から今に至るまで、科学者は純粋な好奇心に駆られて基礎理論を構築し、後に続く人々がそのアプリケーションを開発することで人類社会は発展を遂げてきた。香取さんが思う「進化に伴う変容」とはそういうことだ。

ぐにゃりとゆがんだ時計を描いたサルバドール・ダリの『記憶の固執』。一説によると、あれは相対性理論の影響ではないかといわれている。世界的物理学者のジョージ・ガモフもまた、自転車をこぐと風景がゆがんで見える世界を舞台に『不思議の国のトムキンス』と題する物語を書いた。その世界観がもう現実のものになろうとしているようだ。

「誰もが予想しない光格子時計の新しい使い方を考えてください。ダリやガモフを超えるほどの想像力を膨らませて」


取材・文/松岡 一郎(エスクリプト) 写真/竹見 脩吾

KEYWORD

  1. ※1ブレイクスルー賞
    Google創業者らが2012年に創設した国際的な学術賞。基礎物理学、生命科学、数学の3部門で優れた科学者を毎年表彰。
  2. ※2セシウム原子時計
    アルカリ金属元素の一つであるセシウム(Cs)の同位体のうち、放射能を出さずに安定して存在するセシウム133原子を用いてつくるマイクロ波時計。
  3. ※3国際度量衡総会
    時間や長さ、質量など国際的な単位(国際単位系:SI)の定義を決めている国際会議。加盟国により約4年に一度開催。
  4. ※4宇宙の年齢
    諸説あり。
  5. ※5振り子の法則
    イタリアの天文学者ガリレオが1583年に発見した振り子の等時性。長さが一定の振り子は重さや振れ幅に関係なく、同じ時間で往復する。
  6. ※6ストロンチウム原子
    アルカリ土類金属元素の一つ。元素記号Sr。
  7. ※7ハンス・デーメルト
    ドイツ出身の物理学者。電気を帯びた原子を捕捉するイオントラップ法の開発などで、ヴォルフガング・パウルとともに1989年度ノーベル物理学賞を受賞。

PROFILE

香取 秀俊
東京大学大学院工学系研究科
物理工学専攻教授
理化学研究所主任研究員

かとり・ひでとし
東京大学大学院工学系研究科物理工学専攻教授、理化学研究所香取量子計測研究室 主任研究員/時空間エンジニアリング研究チーム チームリーダー。工学博士。1964年生まれ。東京大学工学部物理工学科卒業、同大学院工学系研究科物理工学専攻修士課程修了。同大学工学部助手、独マックス・プランク量子光学研究所客員研究員などを経て、2005年東京大学大学院工学系研究科助教授。2010年より教授。2018年から科学技術振興機構(JST)の未来社会創造事業大規模プロジェクト「クラウド光格子時計による時空間情報基盤の構築」でプログラムマネージャーを務める。2015年日本学士院賞、2017年江崎玲於奈賞、2021年ブレイクスルー賞、2022年本田賞など受賞歴多数。