「バスケで日本を元気に!」異色経歴のチェアマンは窮地をどう乗り越えてきたか
坂木 萌子×島田 慎二
Global Vision
フリーアナウンサー
坂木 萌子
Bリーグ チェアマン
島田 慎二
倒産寸前のクラブを託され、瞬く間に常勝チームに成長させた有能な経営者。人生の前半戦はビジネス界で活躍し、若くしてリタイア。その後は旅人となり、後半戦はスポーツ界の発展に利他の心で尽くす若きチェアマンに話を聞いた。
「30代リタイア」へ向けて起業 ビジネス界で掴んだもの
坂木 バスケットボール日本代表のパリオリンピック出場が決まり、今、Bリーグを中心にバスケットボールの人気が沸騰しています。実は、私自身も中学校と高校の部活はバスケットボールだったのですが、先日、初めてBリーグのゲームを家族で観戦しました。
島田 ありがとうございます。白熱するゲーム内容はもちろん、ハーフタイムのチアによるダンスパフォーマンスなども充実させて、女性ファンやファミリー層にも楽しんでいただけるよう工夫を凝らしています。
坂木 スポーツ観戦の臨場感と、ライブステージのような一体感を同時に味わえました。こんなに凄いエンターテインメントをつくり出すBリーグのチェアマンなら、さぞや競技にも演出にも精通された方かと思いましたが、実はバスケットボールともショービジネスともまったく無縁とうかがい、とても驚きました。
島田 スポーツは若い頃にサッカーをかじった程度で、大学を出て職を得たのは旅行会社です。大学では演劇に夢中になり、一時は俳優を目指そうかと思い、遅れて就職活動をして唯一受かったところに潜り込んだというわけです。
坂木 ところが、入社2年目には営業成績でトップに立ったり、社長に直談判してお給料を上げてもらったりと、異色で異才なビジネスマンぶりを発揮されたとか。
島田 人と違ったのは、むやみに数を取りに行かず、顧客の好みやニーズを察知して先回りし、リピーターを増やすことを心掛けたこと。直談判のほうは社長を飲みに誘って、自分はこれだけ稼ぐから給料は幾らほしいと言いました。社長は、そんな駆け出し社員をおもしろがってしばらく付き合ってくれましたが、3年目にこれ以上は無理と突っぱねられたので「それなら辞めます」と退職し、起業の道を選んだわけです。
坂木 たった今「破天荒」という文字が脳裏を横切りました。それにしてもなぜ、そこまで潔く区切りをつけられたのでしょう。
島田 社会人になる時に、「30代でリタイアする」という目標を立てたのです。そこからの逆算で、まず稼げるシチュエーションをつくって経営者として成功するための第一歩を踏み出そうと。すると上司が一緒にやろうと声を掛けてくれ、共同経営の旅行会社を立ち上げたのが25歳の時でした。
その新会社が堅調に業績を伸ばしつつあった矢先、米国で9・11同時多発テロが起き、旅行業界全体が窮地に立たされました。
同業他社が次々に廃業し、我々の会社も経営が傾きましたが、ここで首をもたげたのが私の身上である「逆張り」の精神です。みんなが辞めるなら自分は始めるぞと、10月には会社を辞めて新会社設立の準備を始め、12月には自分だけの旅行会社を立ち上げました。
坂木 それから10年近く、がむしゃらに働いて育て上げたその会社を業績好調のまま売却されています。どういう決断だったのでしょうか。
島田 目標の「30代リタイア」の期限が迫る中、会社の成長プロセスとして株式上場か、企業売却かの二者択一になりました。その最中に今度はリーマンショックが起きて株式市場が大混乱になったため、上場は諦めて売却するしかなくなりました。幸い当時の社員の大半は今も売却先の上場企業に所属しています。私だけが会社を離れて「30代でリタイア」という念願を果たしたわけです。
「千葉ジェッツ」再建を託されリーグ屈指の人気チームに
坂木 旅行会社の経営にピリオドを打った島田さんは、一転、世界を巡り歩く旅人になられました。ビジネス界をダッシュで駆け抜けたあと、一旦、人生をリセットするような心境だったのでしょうか。
島田 人様に勧めるだけでなく、自ら訪ねたい名所旧跡も山ほどあったので、人生後半の自分探しの旅に出たという感じです。海外移住も視野に入れつつ、国内や世界中を巡りながら2年が過ぎた頃――フィレンツェの景色のあまりの美しさに心を奪われ、宿に帰ってから自分の来し方、記憶に残る3歳頃から40歳までを、順を追って文章にしてみたのです。そうすると、あまり良い行いをしてこなかったなと。この先80歳まで生きるとして、後半生では俺が俺がという自分ごとを封印し、求めに応じて力を尽くす生き方がしたいなと。いわば、利他の生き方に徹しようと決めました。そんな時に舞い込んできたのがプロバスケットボールの千葉ジェッツからのオファーです。
坂木 未知のバスケットボール界に足を踏み入れるのに何がフックになったのですか。
島田 2011年に千葉ジェッツを立ち上げたオーナーが、私の旅行会社の株主として支えてくださっていたのです。当時のバスケットボール界はチーム力、集客力ともに脆弱で、クラブ経営は青息吐息なのを私も聞いていました。3・11東日本大震災後の混乱が続く中、クラブ再建に手を貸せと請われて二の足を踏んでいたら、取締役会で「島田が社長に就くか、断られたらクラブを畳む」と方針が決まったと知らされました。
坂木 まさに究極の選択を迫られたわけですね。
島田 誰が見ても倒産まっしぐらの状況で、とはいえ、今以上に落ち込むことはないと思い直して、渋々「1年だけやりましょう」と引き受けたのが2012年の春です。こちらもフィレンツェの誓いを思い起こして、後半生の第一歩がこのお役目だったのかと腹を括りました。
坂木 社長に就いた島田さんの目に、それまでのクラブ経営は、どう映ったのでしょう。
島田 これは私が門外漢ゆえの気付きかもしれませんが、スポーツ業界は特別な業界だと自意識過剰になり、普通の会社ならあたり前にする企業努力を怠ってきたのではないか。よい商品をつくり、よいサービスを提供し、きちんと顧客対応をして、ファンを増やして応援される状況を整えることをシンプルに、愚直にやり続けることが大事だろうと考えたのです。
坂木 スポーツビジネスの高揚感に惑わされず、目の前にある一つひとつを積み上げていくイメージですね。
島田 そうやってファンとの信頼関係を築くのが外向きの改革とすれば、それと同じくらい内向きにも意識改革を促し、私自身が社員やスタッフから信頼される存在にならなければなりません。経営ビジョンを彼らに示し、結果を出せば給料やボーナスで報いると約束しました。足掛け2年、それを有言実行して、社員たちから信頼されていると実感できたタイミングで、初めて「日本一のクラブになろう!」と宣言しました。
エンターテインメントと強さが両立するチームへ
坂木 次々に繰り出す施策が功を奏して、千葉ジェッツは日本で初めてレギュラーシーズン入場者数10万人を達成し、天皇杯で3連覇を果たすなど、人気と実力を兼ね備えたクラブチームに生まれ変わりました。これは想定通りでしたか。
島田 崖っぷちからのスタートで、そこまで勝算があったわけではありません。ひたすら、スポンサー収入を増やそうと、あらゆる人脈を活かして企業経営者を口説いて回ったり、新たなファンを呼び込むために本場米国のNBAから帰国したスター選手と電撃契約を結んだり、本気で勝負に打って出ました。そんなトップの本気度が伝わってスタッフが自律的に動き出すような良い緊張感が生まれたと思います。
坂木 ビジネス界からスポーツ界へ転身された島田さんの行く手に、もう一つの壁が立ちはだかりました。当時の日本のバスケットボール界には2つのリーグが併存していたとのことですが。
島田 競技性を重んじる日本バスケットボールリーグ(NBL)と、エンターテインメント性やファンづくりを大事にするbjリーグに二分されていました。強さも楽しさもプロスポーツの必須要件なのに、なぜ両方を狙いに行かないのかと私には違和感しかなかった。ならば、千葉ジェッツが一挙両得をかなえる最初のクラブになろうと動き出したわけです。
坂木 その境界突破のための策がまた大胆で、bjリーグの千葉ジェッツが相手方のNBLへ移籍するという、バスケットボール界を騒然とさせるものでした。
島田 当初は両リーグからドン引きされましたが、この移籍によってbjリーグの優位点をNBLに移植するという我々の意図が理解されるにつれて、双方が歩み寄れるきっかけや空気感をつくれた気がします。その後、2リーグ併存問題は地元開催の東京オリンピック出場をめぐって一本化への道をたどり、2016年にBリーグが発足。野球、サッカーに次ぐ第3のプロスポーツリーグ誕生へと至りました。
坂木 そのBリーグ発足がトリガーとなって、日本のバスケットボール界に一大ムーブメントが巻き起こった印象があります。その火付け役の一人である島田さんには当然、周囲から卓越した手腕への期待が集まり、今度はリーグ運営の中枢を担う役どころへのオファーが舞い込みます。
島田 リーグの理事会に名を連ねるのはいいが、2年目に副チェアマンのポストを振られた時はさすがに逡巡しました。千葉ジェッツ社長との兼任という前代未聞の二刀流になるので、ならば1年限定の条件付きで引き受けようと。その代わり、自ら日本全国のクラブチームを飛び回って「クラブの成長なくしてリーグの発展はない。リーグの発展なくしてバスケットボール界の繁栄もない」と触れて歩き、個々のクラブ運営を支援するのがBリーグの仕事だと背中で示すために、行く先々で勉強会を開いたり、経営指導をしたり、スポンサーへの営業を一緒にやったりしました。
パンデミックの逆境下でBリーグチェアマンに
坂木 1年間、副チェアマンを務め上げた島田さんは、古巣に戻って千葉ジェッツの経営に専念されることになりました。これまでの島田さんの生き方にやや背く気もします。
島田 らしくないと言えば確かにそうかもしれません。ただ、リーグの中枢にとどまってチェアマンを補佐するよりも、千葉ジェッツを他の追随を許さないチームに育てたほうがバスケットボール界により強いインパクトを残せると判断しました。実際、クラブ経営に戻ったその年から天皇杯3連覇を達成しました。自分で言うのも変ですが、あまりサブキャラ向きではないという自覚もあります。
坂木 根っからのトップキャラというのは衆目の一致するところのようで、3連覇から2年経った2020年の春、ついにBリーグチェアマンへの就任要請が届きます。ちょうどコロナ禍が世間を震え上がらせた時期に重なり、先々の見通しも立たない中でのオファーでしたが……。
島田 なんの因果か、私の人生の節目節目でそうした災難に見舞われるのは巡り合わせでしょうか。今度の節目にも地球規模のコロナ禍が行く手を遮ってはいるものの、それを覚悟の上でやらねばならないと直感して、即座に「お引き受けします」と答えました。今がどん底なら、これから浮かびこそすれ、沈むことはないという気持ちもあって、割と気は楽でしたね。コロナ禍の中で最大の懸念材料は何かといえば、全国各地に根を張るクラブチームの経営が大打撃を被りかねないこと。それはクラブ経営者の一人として身の丈で理解できたし、副チェアマン時代と同じくクラブ運営の徹底サポートを前面に打ち出すことで、チェアマンの職責をまっとうしようと心に決めました。
クラブチーム全県制覇で地方創生に貢献したい
坂木 それ以降、Bリーグは逆境をものともせず、右肩上がりに活況を呈しています。そうした中で、リーグの構造改革を促す「2026ニューBリーグ構想」をチェアマン主導で打ち出されたそうですが。
島田 これは通称「B・革新」と呼んでいて、リーグ発足10周年を迎える2026年に向けてビジネスモデルを大転換しようという計画です。「バスケで日本を元気に」という共通理念のもと、全国に56あるクラブチームとアリーナ施設とで地方創生に貢献しようと目標を明文化しました。その達成へ向けて、各クラブとファンの皆さんがともに地域を盛り立てていくためのビジネスモデルの最適化に取り組んでいます。
坂木 もう一つ、日本バスケットボール界の近未来を見据えた「ジャパン・バスケットボール・スタンダード」という構想とは?
島田 こちらはBリーグ発足以来の悲願である、バスケットボールを野球、サッカーに次ぐ第3のプロスポーツとして確立する年限を、日本バスケットボール協会が100周年を迎える2030年に定めたものです。男子・女子のバスケットボールだけでなく、車いすバスケットボールや3×3などの競技種目も含めて総力を結集し、目標達成に立ち向かっています。
坂木 今のお話にあった、バスケで地方創生を、という考えに深く共感します。実は私の出身県である高知にまだBリーグのチームがなくて、とても残念なのですが。
島田 四国では徳島、愛媛、香川にチームができ、あとは高知だけなので、私が自ら出張ってでも立ち上げたいと考えています。2028年までに全県制覇を達成すると、すでに対外発表もしているんです。
坂木 高知にチームができたら家族で応援します。最後に、体現者の言として「境界を越えて新たな可能性を拓く」ための秘訣をお聞かせください。
島田 私の信条は「明けない夜はない」で、どんな窮地に陥っても視野を広くとって前を向くことです。逆にうまく回っている時こそ気を引き締めなければならないと自戒しています。そして常に、今できることに全力を尽くすこと。言い換えるなら「メンタルの安定が、よきジャッジメントを生む」と信じて我が道を行くことでしょうか。
(2023年11月24日実施)
構成・文/内田 孝 写真/吉田 敬
PROFILE
島田 慎二(しまだ・しんじ)
Bリーグ チェアマン。1970年、新潟県生まれ。日本大学法学部卒業後の1992年、株式会社マップインターナショナル(現エイチ・アイ・エス)入社。1995年に法人向け海外旅行を扱う株式会社ウエストシップを共同設立。2001年に同社を辞し、株式会社ハルインターナショナルを設立。2010年に全株式を売却し、コンサルティング会社リカオンを設立。2012年に株式会社ジェッツ・インターナショナル代表取締役社長に就任。公益社団法人ジャパン・プロフェッショナル・バスケットボールリーグ(Bリーグ)理事などを歴任し、2020年にBリーグ理事長(チェアマン)に就任、現在に至る。著書に『最強のスポーツクラブ経営バイブル』(集英社)など。
PROFILE
坂木 萌子(さかき・もえこ)
フリーアナウンサー。1987年、高知県生まれ。中学・高校ではバスケットボール部に所属。早稲田大学商学部卒業後の2009年、さくらんぼテレビジョン入社。翌年フリーアナウンサーに転身し、主に日本テレビ系列各局の多くの番組でキャスターやコメンテーターとして活躍。2020年3月に第2子を出産。現在はBS日テレ「コーポレートファイル」インタビュアーなどを務めている。