伝統の帆前掛け文化を未来へ
有限会社エニシング

匠の新世紀

有限会社エニシング
東京都港区・愛知県豊橋市

エニシングの帆前掛けを付けた西村和弘さん。太い糸で柔らかく丈夫に織られた前垂れに紅白の腰紐が伝統の形。社名は「縁(えにし)」+「ing(イング)」で「エニシング」。

米屋や酒屋の従業員が腰に締める帆前掛けは、愛知県豊橋市の特産品。高度成長期には100軒以上の工場があったが、平成には数軒を残すのみに。この帆前掛けを復活させたのが有限会社エニシングだ。豊橋市にある工場を訪ねた。

消えかかっていた帆前掛け文化を守りたい

写真右は映画「007/ノー・タイム・トゥ・ダイ」に登場したエニシングオリジナル、中央、左はそれぞれスズキ、トヨタの特注品。スズキとトヨタはともに織機メーカーとして豊橋に近い静岡県浜松市や湖西市で創業。その織機がエニシングで使われている。
有限会社エニシング
代表取締役社長 西村和弘さん

有限会社エニシングは、日本伝統の「帆前掛け」の専業メーカーだ。本社は東京都港区にあるが、愛知県豊橋市に2019年に建設された「前掛けファクトリー」を訪ね、代表取締役社長の西村和弘さんにお話を聞いた。

前掛けのうち、太く丈夫な糸でつくった厚手の布を使用したものを帆前掛けというが、西村さんが帆前掛けに出合ったのは、創業5年目、2004年のこと。「日本の隠れた魅力を世界に発信したい」という思いから起業した漢字Tシャツの企画販売会社で、品揃えとして帆前掛けを扱ったことがきっかけだった。

帆前掛けは、米屋や酒屋など商店の人たちが腰に巻く、日本伝統の仕事着だ。その起源は15世紀にさかのぼると言われ、厚手の布によって衣類の破れやけがを防止することから重宝されてきた。西村さんによると、帆前掛けを腰に巻くことにより、骨盤が締まり、背筋が伸びるので、働く人たちの腰を守る効果もあるという。米穀店などでは、帆前掛けを締めないと米袋が持てないという人もいるほどだ。

当時は、東京・日本橋の問屋で既製品の帆前掛けを購入し、オリジナルの絵柄をプリントしたり、場合によっては特注品を小ロットで注文したりして販売していた。

2005年のある日、200枚の大口の注文が入り、いつもの問屋に無地の既製品を仕入れにいくと、そんな大口には対応できないと断られた。産地を聞いても教えてくれない。自分で探すしかないと半年間探し続け、京都で染め物をしている知人から「帆前掛けは豊橋でつくっているらしい」という情報を得る。西村さんは教えてもらった番号に電話し、職人を訪ねていった。

「私の親世代の職人さんたちは、久しぶりに若いのが来たというので歓迎してくれたのですが、親心から『帆前掛けなんてやめたほうがいい』と言われました」

注文は年々少なくなるし、自分たちも年だからもうすぐ引退する。だから帆前掛けを売ることなど考えないほうがいいというのだ。

豊橋では、昭和の最盛期には100軒以上の帆前掛け工場があったが、すでに数軒しか残っていなかった。最後に行った染めの職人のところで「東京にはおもしろい注文をするヤツがいるから、型紙を見てみるか」と言われ、見せてもらった型紙は、すべて西村さんが注文した型紙だった。

消えかかっている帆前掛け文化を守らなければならない……。職人との出会いを通じ、東京に帰る新幹線の中で、西村さんは帆前掛け一本で勝負することを決意する。

専用ハンガーに吊るされた各種帆前掛け。
米袋を使ったパッケージもおしゃれ。

ニューヨークでの展示会で職人たちの目の色が変わった

1920~30年代につくられた10台(トヨタ製4台、スズキ製2台、遠州製4台)の織機が並ぶ工場。9台が1個のモーターで動いている。
タテ糸をセットする整経の工程。
ヨコ糸を通すためのシャトル。タテ糸が上下に交差する間を高速で左右に行き来する。シャトルは1丁、2丁……と数える。
前掛けファクトリーには、工場とショールームの2つの建屋がある。

エニシングは、Tシャツ販売から帆前掛け専門店に転身したが、最初から好調だったわけではない。当初は月に10枚程度の売り上げだったが、2007年、テレビの情報番組でエニシングの帆前掛けが取り上げられると、1日で200万円ほど売り上げ、さらに1カ月後にも別のテレビ番組で取り上げられ、100万円ほど売れた。西村さんはうれしさよりも居心地の悪さを感じたという。

「このお金は“あぶく銭”ですよね。そんなもので喜んではいけない。これを元に何かやらなければいけない、何かやるなら一番怖いことに使おうと思いました」

そこで西村さんはニューヨークに帆前掛けを売り込みに行くことにした。

「日本の文化を世界に広めることを目標に起業したのに、この7年間、日々の稼ぎに翻弄され、何もできていなかった。今こそ初心に返ろうと思いました」

ニューヨークの人気日本食レストランに飛び込み営業を行った。その時に知り合った人の紹介で、西村さんは2009年にも商談のために渡米。その際に、日系の大手書店を訪ねた西村さん。支配人室に通され、「ここのギャラリーで展示会をやりませんか」と逆に提案された。しかも料金は無料でいいという。

「日本文化を広める活動には無料で場所を提供しているというんです」

展示会は2カ月後の9月。西村さんは帰国するとすぐに豊橋の職人たちに相談に行った。すると、職人たちは自分たちもニューヨークに行きたいという。テーマを「前掛けの歴史」に決め、帆前掛けを展示するだけでなく、歴史も紹介。さらに、通訳を付けて3人の職人に会場で話してもらうことになった。

2009年9月にニューヨークの書店で行われた帆前掛けの展示会。職人による週末のトークショーは盛況に終わり、持っていった40枚の帆前掛けは完売した。だが、何よりも西村さんを喜ばせたのは、それを現場で見ていた3人の帆前掛け職人の反応だった。

「『西村君、これまで君を、少ないロットしか注文しない面倒くさい人だと思っていたけれど、君のやりたいことがよくわかった。これからは協力するよ』と言ってくれました」

タテ糸がセットされた織機。
タテ糸の間隔を決める作業。間隔の違いで、布の硬さが決まる。
帆前掛けの布で作成したバッグ類なども販売している。
インテリアなどへの商品展開も模索中。

製造するだけではなく情報発信する工場をつくる

職人たちは協力的になってくれたが、だからといって売り上げがすぐに上がるわけではない。テレビでの紹介で、認知度が高まったこともあり、西村さんの地道な営業活動が効果を上げ始める。全国的な雑貨専門店での取り扱いが始まり、月に100枚以上売れるようになっていた。さらに企業とのコラボ、アウトドアブーム、外国人観光客の増加、プロ野球球団の応援グッズ採用などにより販売数が伸び、エニシングは月に1,000万~2,000万円を売るまでになっていた。

だが、職人たちの老齢化を防ぐことはできない。2013年、織機を譲ってくれるという織りの職人から「そろそろ引退したいから準備してくれ」と告げられた。そこでまず、職人になりたい人を募集、埼玉県の織物メーカーに見習いとして受け入れてもらい、基礎を身に付けた上で、豊橋の職人のもとで修業してもらうことにした。結局、5年間で4人の職人を育てることができた。

一方、西村さんは工場の建設にも乗り出す。機械を譲ってくれる職人の工場と同じスペースなら数千万円で済むはずだったが、「自分がやるべきことは単なる製造ではない」と気がついたという。工場は「人が集まって何かが生まれる」をコンセプトとし、技術を継承し、情報を発信していく、ものづくりのループを生み出すような場所でなければいけない。そのためにはもっと広いスペースが必要だった。結局、西村さんは、1億円以上の借金をして理想の工場をつくることを決断した。

先輩職人から譲り受けた織機は、100年以上前につくられた「シャトル織機」と呼ばれる機械。帆前掛け用の柔らかく丈夫な布はこの機械でしかつくれない。そんな機械を設置して新工場を建てたことが地元のニュースで報じられると、予想だにしないことが起こった。引退していた元織物職人たちが次々に西村さんの工場を訪ねてくるようになったのだ。そして、孫のような若い職人にシャトル織機の使い方やコツを伝授してくれ、織機の部品を提供してくれる元職人もいた。

今や年間10万枚を製造、60カ国に帆前掛けを出荷するようになったエニシング。海外進出の第一歩として、フランスに拠点を設置。「帆前掛けの文化を世界に広げる」という西村さんの目標は着実に歩みを進めている。

2009年にニューヨークで展示会を行った西村さん(左から3人目)と3人の職人(写真:エニシング提供)。

取材・文/豊岡 昭彦 写真/斎藤 泉

PROFILE

有限会社エニシング

2000年創業の帆前掛け専門メーカー。約100年前の織機10台を譲り受け、年間10万枚の帆前掛けを生産販売。世界60カ国に出荷している。社員数7名。