不屈の挑戦が人生を変えた義手のバイオリニスト
伊藤 真波

Opinion File

「バイオリンを練習しようとすると、おかあしゃーんと娘が寄って来るんです」と微笑む伊藤さん。

母を助けたい思いから看護師の道を志す

2021年8月24日、新国立競技場にバイオリンの美しく切実な音色が響いた。東京2020パラリンピック開会式(※1)。競技場を飛行場に見立てたパフォーマンスが繰り広げられ、「片翼の小さな飛行機」が抱える葛藤を繊細なメロディで表現する。演奏者は伊藤真波さん。事故で片腕を失い、多くの葛藤を抱えながら歩み、この舞台に立ったバイオリニストだ。

2歳上の姉、5歳下の弟を持つ次女として育った伊藤さん。3姉弟の誰かが病気になるたびに慌てる母親を見て、幼心に「看護師としてお母さんを助けたい」という思いを抱くようになった。幼い頃の夢をかなえるべく、看護科のある高校に進学。その後、看護専門学校に進み、夢に向かって邁進する日々を過ごしていた。そんなある日、事故は起こった。実習先の病院にバイクで向かう途中にトラックと衝突。右腕がタイヤに絡んでしまう大事故だった。

「その日は実習の最終日で、さあ明日からやっと眠れるぞ、と思いながら出かけたんです。まだ二十歳になったばかりでした」

伊藤さんがバイクに乗り始めたのは18歳の時。バイクが好きだった父親の影響で免許を取ったが、母親は最後まで反対していたという。

「習い事も学校の進路も、私が望むことはすべて応援してくれた母ですが、バイクだけは許してくれませんでした。でも、専門学校に通いながら准看護師(※2)として働いていた当時の私は、自分で稼ぐようになったことで、偉くなったと勘違いしていたのでしょう。反対を押し切ってバイクを乗り回していたわけですが、そのバイクで事故を起こしてしまった。トラックにぶつかった直後、朦朧とする意識の中で電話をかけた相手は母でした。"ごめんなさい"を言わなくちゃいけないという一心で。実際には顔面をひどく打ち付けて、ア行とハ行しか言葉を発することができなかったのですが」

十数時間に及ぶ手術を経て、待っていたのは想像を絶するような治療の日々だった。

「まだ二十歳の女の子です。おしゃれもしたいし旅行にだって行きたい。何より、看護師の夢を完全にかなえたわけじゃない。どんな治療にも耐えるから、腕だけは残してほしいとお願いをしました」

しかし、その願いを成就するための治療はあまりに過酷だった。麻酔が効かないほどの激痛で、暴れて泣き叫ぶ伊藤さんの声は病棟中に響きわたった。ご飯を満足に食べることもできず、熱い味噌汁の入ったお椀を両親に投げつけたこともある。それでも両親は笑顔を絶やさず、毎日病院に来てくれた。

「自業自得だと叱ってくれたらどれだけよかったかと思います。しばらくして母が、お父さんと相談したのだけど、と重い口を開きました。学校にも、仕事にも、お嫁にも行かなくていい。お父さんとお母さんが仕事から帰ってくるのを、毎日家で待っていてくれたら、それだけでいいと」

痛みで眠れず、食事も喉を通らない。感染症も進み危険な状態にあった娘に対して、両親は決断を促したのだった。「腕を切ってください」と自分から先生に伝えなさい、それが責任を取るということなのだと。

「幼い頃からいろいろな習い事をさせてもらいましたが、自分の意思で始めたことは自分で責任を取るよう常に言われてきました。右腕を切断するという決断は、本人がしなければいけない。ここでも母の教えは変わらなかったわけです」

右腕を切断した伊藤さん。もう看護師になる夢を見てはいけない。そう言い聞かせてきたが、見舞いに来た看護学校の先生から、思いがけず復学を進められた。

「一筋の光が差すとはこういうことなのかと思いました。もう一度夢を見たい、ぜひ学校に戻らせてくださいとお願いしました」

復学の条件は、看護師専用の義手をつくることだった。看護現場で使える義手をつくれる病院を探し、たどり着いたのが兵庫県立リハビリテーション中央病院だ。当時、静岡で家族とともに暮らしていた伊藤さんは、単身、神戸で暮らすことになった。

障がいは自分らしさ 新たな人生をリスタート

左は看護師用、中央と右はバイオリン用の義手。演奏用の義手は今も改良を重ねている。
多くの観衆を魅了する伊藤さんのバイオリン演奏。

転院した当初は、寂しくて泣いてばかりいたという伊藤さん。その心を開いてくれたのは、同じ病院に入院していた患者たちだった。

「カーテンの向こうから『ご飯を一緒に食べようよ』と声をかけてくれたんです。そうっと覗いたら、私よりも重度の障がいがある人たちばかり。『どこから来たん?』、『なんで腕がないの?』とズケズケ突っ込んでくるのですが、それが格好いいなと思えてきて。障がいを"自分らしさ"と受けとめてくれる人がいることに感銘を受けました。だから、みなさんの話もぜひ聞かせてください、とカーテンの外に出ていったのです。あれが私の第2の人生のスタートでした」

半年ほどのリハビリを経て復学したのち、伊藤さんは日本で初めての「義手の看護師」として、神戸の病院で働き始めた。仕事を始めた当初は、自分に何ができるのか思い悩んだ。そんな伊藤さんに、看護師としての自信を持たせてくれた出会いがあった。

「その患者さんは、早くしろと受付で怒鳴り声を上げていました。受付のスタッフが萎縮している様子だったので、私は患者さんの隣に座り、お話を聞くことにしたのです。その後も、通院されるたびに世間話のような他愛のない話をしました。そのうちにお土産を持ってきてくれるようになって。ようやく心が通じ合えたのかなと思いました。私はその方に採血をしたわけでも、ガーゼを交換したわけでもありません。ただ隣で話を聞いていただけですが、寄り添うとはこういうことなのだと実感したのです」

自分だからこそできる看護が必ずある。そんな自信が徐々に芽生えていった。

水泳で銀メダルを獲得 パラリンピックの快挙

看護師の仕事とともに、伊藤さんの第2の人生を輝かせたのは水泳(※3)だった。事故後に入院していた病院で、車いすバスケットボール(※4)の試合を見たことがきっかけだ。

「車いす同士が音を立ててぶつかり合い、ボールを奪い合う姿がとにかく格好よかった。倒れてもボールに向かって走る姿を見て、私もスポーツの力を借りて、倒れても起き上がれる強い人間になりたいと思いました」

5歳の頃から水泳を習っていたので泳ぐ自信はあった。でも、水泳を選んだ理由はそれだけではない。右腕の傷跡、自分にとって一番弱い部分を見せることで、さらに強くなれると思ったからだ。

「事故当時、二十歳の私にとっては、この傷跡は絶対に見られたくない部分でした。服を着ていれば一生隠し続けられますが、あえてさらけ出そうじゃないかと」

神戸にある福祉センターのプールを訪れたところ、日の丸の帽子をかぶったパラリンピックの選手たちが颯爽と泳いでいる姿を目にした。その様子を見て、自分もチームの一員となって世界を目指したいと思ったそうだ。

その後、神戸百年記念病院に就職した伊藤さんは、福祉センターの障がい者水泳チームに所属。看護師の仕事の傍ら水泳のトレーニングに励む毎日がスタートした。そこから、世界に挑む伊藤さんの快進撃が始まる。2007年4月に水泳を再開し、同年12月の世界大会で記録を出し日本代表選手に選出。翌年の北京パラリンピックでは、100mバタフライで8位、100m平泳ぎで4位に入賞。2010年のアジアパラ競技大会(※5)では100m平泳ぎで銀メダルを獲得した。

「初めは水着を着るだけで体力を使い切ってしまい、いざ水着になっても、プールサイドへの一歩が踏み出せずに帰ったこともあります。でも、できないことより、できたことを数えるようにしようと思って、徐々にプールサイドに近づいていきました。思い切ってプールに飛び込んだ時は気持ちよかった。水に入れば、もう腕がないことなど誰も気にしません。基礎があったのですぐに泳げるようになりました。自分にできることが増えたのが、すごくうれしかったのを覚えています」

いつか聞かせたかった さだまさしの「精霊流し」

水泳により肩甲骨を鍛えたことが、のちに伊藤さんの財産となる。実は伊藤さんには、神戸で入院していた頃から、もうひとつの野望があった。7歳の頃に始めたバイオリンをもう一度弾いてみたいという夢だ。

「子どもの頃はバイオリンの練習が嫌いで、やめたくて仕方がなかったんです。でも、右腕を失った時に、母がぽつりと『バイオリン、弾けなくなっちゃったね』とつぶやいたんです。母はさだまさしさんが好きで、いつか『精霊流し』(※6)を弾いてほしいと言っていました。どんな姿でもいいから、母のためにもう一度バイオリンを弾きたいと考えるようになりました」

そこで、看護師用の義手が完成したあとで、バイオリン用の義手を製作してもらうことにした。しかし、いざバイオリンを構えてみると、肩甲骨で義手を動かしながら弦を鳴らすのはことのほか難しく、しばらくは家の中でこっそり弾いていたそうだ。

「上手な演奏ではなかったですし、弾いている姿を見せたくありませんでした。看護師用義手は上から白衣を着ますが、バイオリン用は洋服を羽織らず、あえて見せるつもりでつくってもらったもの。にもかかわらず、格好が悪くて恥ずかしいと感じたんです。でも次第に、前例のない義手をつくってくれた先生方に恩返しをしなければと思うようになりました。この手をみんなに見せて、音を聞いてもらわなければと」

現在は病院を退職し、講演活動とともにリサイタルの開催や音楽フェスへの参加などバイオリニストとしての活動が多くなった。気になる『精霊流し』だが、自身の結婚披露宴で演奏したそうだ。

家に帰れば、小学校1年生、4歳、1歳の3姉妹の育児に奮闘するママの顔になる。

「もう、バタバタの毎日です。家族に助けてもらいながら何とかやっている感じですね。娘たちにとっては、片腕がない母親が"当たり前"。どの家にもそれぞれの当たり前があって、それでいいんだよと教えています」

子どもたちの髪は足を使って結ぶ。まだ三つ編みができず、娘に文句を言われると笑う伊藤さんだが、その愛情は伝わっているはずだ。今は理解できなくても、母親が教えてくれたことの大きさに、いつか気がつく日が訪れるだろう。かつての伊藤さんのように。

「入院している時、私は両親に八つ当たりばかりしていました。父がバイクに乗っていなければ事故に遭わなかったと責めたこともあります。でも、父は何も言わずに、事故の後すぐに愛車を処分しました。ツーリング仲間には、自分が娘の人生をぐしゃぐしゃにした、だからバイクにはもう乗れないと話したそうです。それを聞いて、自分は何てことを言ってしまったのだろうと後悔しました。毎日当たってばかりの私を、両親は責めることなくそばにいてくれた。そんな2人に、いつか自分の幸せな顔を見てもらいたいと思うようになりました。私が挑戦を続けてこられたのは、そんな願いがあったからかもしれません」

今、伊藤さんの表情はあたたかな幸せに満ちあふれている。そこには、多くの人を勇気づけるとてつもないパワーが秘められている。


取材・文/脇 ゆかり(エスクリプト) 写真/竹見 脩吾

※J-POWERは日本パラスポーツ協会に協賛しています。

KEYWORD

  1. ※1東京2020パラリンピック開会式
    コンセプトは「WE HAVE WINGS(=私たちには翼がある)」。滑走路をイメージした競技場で、大空を飛ぶことを夢見る「片翼の小さな飛行機」のストーリーが展開された。
  2. ※2准看護師
    医師や看護師の指示のもと看護や診療を行う。都道府県知事が発行する資格で、正看護師は厚生労働大臣が発行する国家資格。准看護師として実務経験を積みながら正看護師を目指す人も。
  3. ※3水泳
    パラリンピックでは、肢体不自由、視覚障がい、知的障がいの選手が対象。障害の程度により補助具の使用や、コーチによるスタートの補助などが認められている。義手などの装具は身に着けない。
  4. ※4車いすバスケットボール
    競技用の車いすを操作しながらプレーするバスケットボール。コートの広さやバスケットの高さは一般のバスケットボールと同じ。その迫力やスピード感あふれるプレーが魅力。
  5. ※5アジアパラ競技大会
    アジア地域の障がい者スポーツの総合大会。前身のフェスピックから引き継がれ、2010年からアジアパラ競技大会を開催。伊藤さんが出場した第1回大会は中国・広州で開催された。
  6. ※6精霊流し
    さだまさしをボーカルとするフォークグループ・グレープが1974年にリリースした楽曲。さだまさしの故郷である長崎市で行われる精霊流しを題材にしている。

PROFILE

伊藤 真波
バイオリニスト
元パラリンピック水泳日本代表

いとう・まなみ
バイオリニスト、元パラリンピック水泳日本代表。1984年、静岡県生まれ。5歳から水泳、7歳からバイオリンを始める。幼い頃から看護師に憧れ、静岡県立清水西高等学校衛生看護科に入学。その後、静岡県医師会看護専門学校で学んでいた20歳の時に交通事故に遭い、右腕を切断する。看護師用の義手を製作し、神戸百年記念病院に入職。看護師として働く傍ら、水泳選手としても活躍し、2008年北京パラリンピック、2010年アジアパラ競技大会などで好成績を収める。2015年に神戸百年記念病院を退職。東京2020パラリンピックでは、静岡県の聖火ランナー、開会式でのバイオリン演奏を務めた。