ダイバーシティとともに成長しよう Grow with our differences
北村 雅良×ウスビ サコ

Global Vision

J-POWER会長

北村 雅良

京都精華大学学長

ウスビ サコ

設立から半世紀、多様な個性や価値観を認め合うことを旗印に掲げる大学でサコさんが学長に就くや、ダイバーシティが目に見えて前進したと評判を呼んだ。
一体どんな来歴で、どんな信念を持った教育者か、興味は尽きない。

祖国の未来を背負う覚悟で臨んだ中国留学

北村 日本の大学では外国出身の学長自体が珍しく、昨年4月に京都精華大学の学長に就かれたサコさんは、アフリカ系の出身では本邦初のケースだそうですが。
サコ そのようですね。私はアフリカ北西部にあるマリ共和国の首都バマコで生まれ、高校卒業後に、まず中国の大学に留学して、そこから縁あって日本へ渡り、京都に長いこと根を下すことになりました。
北村 日本語を何不自由なく操られ、京言葉も自然に出るくらいお達者です。ほかに英語、フランス語、中国語にも堪能でいらっしゃるとか。
サコ マリの家庭では民族ごとの言語を話しますが、学校では公用語のフランス語で勉強するので、言語感覚は鍛えられるかもしれません。マリの教育制度は独特で、小学校から大学まで学費は国の全額負担である代わりに、進級・進学のハードルが非常に高い。成績が悪ければ小学生でも留年させられ、3度留年したら退学処分。中学、高校への進学時には国家試験があります。だから、年齢の離れた同級生は珍しくなく、日本では「同学年=同い年」が常識と聞いて耳を疑いました。
北村 激しい競争にもまれて最高学府へ上り詰めるのも大変でしょうに、サコさんの場合は国の未来を背負う覚悟で、さらに険しい留学の道を選ばれた。最初、中国の大学に進まれたのは、どんな経緯でしたか。
サコ 高校卒業時の成績上位者を国の奨学生として派遣する制度があり、運よくそれに選ばれたのですが、どこの国へ行くかは国が決めます。たまたま中国に決まり、当時建設ラッシュにわいていた中国で建築学を修めれば、帰国して祖国の発展に寄与できるだろうと思いました。
北村 なるほど。実際、サコさんが留学された1985年当時の中国は、改革開放政策で経済が活気づく一方、民主化運動が台頭して世情が騒然とした時期に重なります。平穏無事に勉学に勤しむのは難しくなかったですか。
サコ 身の危険を感じる出来事もありましたが、それより建築学や建築デザインの研究という所期の目的を果たせず歯がゆく思いました。学生の身ながら、建築ブームに乗って実際の詳細設計や各種図面起こしなどに追われる日々で、これでいいのかと疑心暗鬼に苛まれましたが、ちょうどその頃、マリにも債務危機や民主化運動の波が押し寄せて、帰国を先送りしたほうがいい状況でした。それならと腹をくくり、中国で大学院まで進み、その後91年に、確たる伝手もないまま日本での学究生活に飛び込んだのです。

研究室仲間が受けたベトナムとマリの衝撃

北村 来日後は京都大学の大学院に進まれたとか……。
サコ 最初の半年間は大阪の日本語学校に通い、自分がやりたい研究分野の受け入れ先を探しました。京都大学の先生を見つけて直談判をしたら、半年以内に大学院入試に通ることを条件に受け入れてくださったのです。研究室の教授や院生はいい人たちばかりで、研究を進める環境も申し分ありませんでした。
ただその中で、私たち留学生がややもすると「お客さん」扱いされるのが残念でした。日本語が不十分な私は皆さんと対等に渡り合って共同研究もしたいし、研究成果の競い合いもしたい。そのために日本語能力に磨きをかけて、日本文化への理解も深めなければと、人の何倍も勉強したつもりです。
北村 お客さん扱いというと、遠い国からようこそ、まあ存分に研究なさいと、少し距離を感じる歓待でしょうか。それは本望ではない、あくまで対等でいたいからとの一心で日々精進されたと。
サコ 加えて対等という意味には、外国人の私が京都大学へやって来て多くを学ぶ機会を得たのと同様に、研究室の仲間たちも大学に通うだけで完結せずに、もっと広い世界を見て学んだほうがいいのではということも含まれています。それで、後に私が研究リーダーを務めた時、院生たちを引き連れてベトナムへ行きました。そしたら、皆さん大変なショックを受けていました。経済発展で後れをとってはいても、社会を突き動かすダイナミズムとか、人々が未来志向でどれほどエネルギッシュに生きているか、身の丈で感じ取れたのだと思います。この顛末に味をしめ、次には教授やOBまで動員して、いよいよ故国マリへ連れて行ったら、一同さらに衝撃を受けていました。
北村 それはそうでしょう。同じアジアのベトナムで仰天するぐらいだから、アフリカの大地にはさらに肝を潰しただろうと思います。
サコ 正直、どこが衝撃的か私にはピンと来なかったのですが、現地の人々の感覚とか、空間に対する向き合い方とか、いわゆる近代合理主義の立場では説明のつかない何かを、研究者の嗅覚で察知したのでしょう。うちの教授が「マリの人たちは論理構造を学んでもいないのに、実に巧みに空間を有効活用している。それは多分、人間の本能に根ざしたものだ」と感服されて、ついには「君は日本の研究よりもマリの研究をしなさい」と助言をくれました。

京町家の打ち水で測るコミュニティの変遷

北村 研究者としてのサコさんの立ち位置が、今のエピソードから垣間見えます。建築といっても大きなビルなどではなく、人が住むところ、空間にフォーカスされているのですね。
サコ そうです。住まいを単に「箱」と捉えずに、人がどんな行為をするか、どんな道具を持ち込むかと、人の動きを中心に空間を考えていく。その発想の原点は、実はマリの伝統的家屋(*1)にあります。大きな家の中心に中庭があって、幾つもの部屋がそれを囲み、大家族が中庭を上手にシェアしながら暮らしてきたのです。
北村 中庭で暮らすとは、つまり日中は中庭で食事をしたり、家族で団欒したりして、陽が落ちて涼しくなったら部屋の中に入ると……。
サコ はい。この「中庭の領域研究」は私の論文テーマになり、研究室の一行でマリを訪れてから毎年、現地調査に通いました。近年では大家族に限らず、他人同士で中庭をシェアする共同住宅も増えて、中庭で調理から食事、団欒など、いろんな用途に使い分けています。これは空間の有効活用という点で、日本の「茶の間」に近いと思いませんか?
北村 確かに畳敷きの茶の間は変幻自在で、卓袱台を置いたら茶の間ですが、布団を敷けば寝室に早変わりします。マリの中庭と日本の茶の間に共通点を見出した、その感性に感心します。
サコ マリの中庭のある共同住宅と、非常によく似た形態のものが中国の「四合院」(*2)ですが、近代化政策の中でほぼ消滅してしまったのが惜しまれます。いずれにせよ、単機能の部屋をどんどん継ぎ足していく西洋建築とは一線を画して、アジアやアフリカの建築様式にはとても共通点が多いと感じています。
北村 伝統的建築に関連して、サコさんは地元・京都の「町家」を熱心に調べたとも伺いました。これはどういったご研究ですか。
サコ マリでの調査研究の流れで、研究室の研究や先輩たちの研究でも日本人の空間の捉え方や地域の共存関係を調べてみようと。ご存知のように、京都では玄関の掃除の最後に、玄関前の道に水を撒く「打ち水」をするでしょう。特に町家では、道地を挟んだ家々がコミュニティを形成しているのですが、近年町家に他所からの転入者が増えるにつれて住民間の不協和音が聞かれ出した。そういう町家の変遷について、打ち水をする範囲を実際に計測することで、詳しく分析しました。
北村 また突飛なことを思いつかれましたね。で、どんなことが判明しましたか。
サコ 研究室の聞き取り調査では、お互いに水を撒き合う家同士は「うちらは」とか「うっところは」と呼び合っていて、水を撒かない家を「あそこは」と呼んで他人行儀なんです。つまり、打ち水の範囲の実測値と住民への聞き取り調査によって、打ち水の重なりが大きいほど地域の人間関係が濃密だとわかったのです。

ダイバーシティが次代の大きなテーマに

北村 打ち水とは違いますけども、私の住まいは東京の郊外にあり、たまに雪が積もると家の前の道の雪かきをします。それをどの範囲までやればいいか、悩みどころでしてね(笑)。
サコ よくわかります。結局、建築を学ぶとは、建物や構造物などのハード面に限らず、人間関係とかコミュニティ、文化といったソフト面まで見極めていくことです。だから、建築のあり方や目的は時代とともに変わって当然なのです。
北村 コミュニティ重視、人間性回帰の建築という思いを込めて、サコさんは「空間人類学」というものを提唱されています。現代社会の近代化を担ってきたのは西洋建築ですが、それが行き過ぎて人間本来の生活にそぐわない面も出ている。その反省に立って伝統的な建築様式を再評価し、価値観の転換を促すための研究と考えてよいでしょうか。
サコ その通りです。私が注目しているのは、そうした変化の潮流が日本やマリばかりでなく、欧米先進諸国も含めてグローバルに起こりつつあることです。近代の建築様式が効率化を追い求めてきたのと対照的に、各国各様の独自文化に根ざした多様化する建築様式が見直される可能性が高い。その意味で、建築や建築学においてもダイバーシティ(多様性)が次代の大きなテーマになるだろうと思います。
北村 ダイバーシティといえば、サコさんが学長をされている京都精華大学は半世紀も前の創立時から、なによりも多様性を重視してきたそうですね。
サコ 私たちの大学の先人たちがその点で開明的だったのは事実で、私が本学に身を投じた理由もそこにあります。
この理念を確かな実践につなげるために、私は学長就任にあたって「ダイバーシティ推進宣言2018」を策定し、その定義を「多様なバックグラウンドや属性を持つ人々が違いを受容し合い、対等に機会が開かれること」として、活動方針や具体的な取り組みも示しました。
北村 サコさんが学長に就任されたという一事をもってしても例証済みと思いますけど、京都精華大学にダイバーシティがまだ足りないとお考えなのですか。
サコ 未だ道半ばです。例えば、アフリカ系初の学長を珍しがって本学に興味を持ってくださるのはありがたいことですが、私にすれば「アフリカ出身」という型枠に自分を嵌め込みたくはありません。
違いにあぐらをかいて、ただ仕事を割り振っているようなリーダーではつまらないですから、誰よりも仕事をして金輪際手を抜かない。違いとともに成長していく「Grow with our differences」を、学生も教員も含め、すべての大学構成員に励行してほしいのです。

違いを認め合い、ともに成長する先に未来が

北村 今の標語で思い出しましたが、私がJ-POWERの社長として新入社員に訓示を垂れていた頃、必ず持ち出したのが「諸君、金太郎飴にはなるな!」という言葉でした。生まれも経歴も違う若者たちが、電気をつくりたい一心で集まった会社なのだから、自分を自分たらしめている違い、個性を持ち続けて、さらに磨きをかけなさいと。だって、社員の顔つきが皆同じ会社なんて面白いはずがないじゃないですか。
サコ いろんな個性が混在する、価値観が複層化している組織はむしろ健全で、その違いを武器にして、互いに認め合いながら協働することで成長していくことができます。大学も会社も、どんなに多様な個性でも包み込めるような土台や環境をつくる努力を惜しむべきではありません。
北村 会社でいうと、若手社員とベテランでは経験や価値観に相当なギャップが生じてきますから、互いに認め合って協働するのが容易でなくなる。上意下達式のお仕着せはもっての外として、年代的な多様性にどう対処すべきとお考えですか。
サコ ダイバーシティにありがちなのは、マイノリティ(社会的少数派)を優遇することで穴埋めをする対処法で、実はそれが逆に彼らを孤立させる諸刃の剣なのです。私の考えでは、マジョリティ(多数派)の認識を変えることのほうが重要です。会社でいえば、社歴の長い人がおちいりがちな固定観念をほぐすような働きかけが有効だと思います。
北村 少数派を押し込めているのが多数派の無意識だとすると、それに気づきを与えない限り、何も変わらないわけですね。当社でもぜひ参考にさせていただきます。
最後に、サコさんの人生訓のようなものがあれば、ご紹介いただけませんか。
サコ 私自身が仕事に向き合うモットーをご紹介すると、人として向上心を持ち続け、仕事を人生の手段として捉えて、自分を成長させたいと常に願っています。つまり仕事は手段であって目的ではない。仕事を通じて誰を幸せにしたいか……自分か、家族か、世の中の人か。そのように目的がきっちり定まれば、仕事が無性に楽しくなるのではないでしょうか。

北村 「日本と世界の人々を幸せにするために働こう!」も私の口癖の1つです。違いを認め合い、ともに成長する先に、輝く未来が待っている……そうありたいものです。
本日はありがとうございました。

構成・文/内田 孝 写真/吉田 敬 撮影協力/京都ホテルオークラ

京都精華大学は芸術・デザイン・マンガ・ポピュラーカルチャー・人文の5学部と大学院からなる。

京都でフィールドワーク中のウスビ サコ学長。人文学部総合人文学科や大学院デザイン研究科などで教鞭も執る。
写真提供:京都精華大学

KEYWORD

  1. ※1マリの伝統的家屋
    方形の敷地の中央に中庭(共用庭)があり、住民は場所を融通し合って炊事、洗濯などをする。日中の大半を中庭で過ごし、夜間は周囲に配された10~20の個室に分かれて就寝する。
  2. ※2中国の「四合院」
    北方中国の伝統的家屋で、方形の中庭を囲んで東西南北に建物4棟(各3室)が配される。北棟に主人、東西棟にその子弟、南棟に使用人が住むなど居住形態はマリと異なる。

PROFILE

ウスビ サコ(Oussouby SACKO)

1966年、マリ共和国の首都バマコ生まれ。高校卒業後の1985年中国へ留学、南京東南大学で建築学、同大学院で建築デザインを専攻。1991年来日し、京都大学大学院建築学専攻博士課程修了。2001年、京都精華大学人文学部講師に就き、同学部教授、学部長を経て2018年学長に就任。住宅と生活様式の相関を様々な国で調査、行動観察から良好な人間関係を築く環境を研究。人の動きやコミュニティの特徴から空間を考察する「空間人類学」や、多様な価値観を認め合う社会のあり方を提唱している。