「老い」は抑制できるか? 健やかな未来の扉を開く
中西 真

Opinion File

健康な生活を維持するには、自分が心地よいと感じることを実践することが大切だと語る中西さん。

病を引き起こす老化細胞の正体

「最近、疲れが取れにくくなった」、「階段を上ると息が切れる」。そんな日常の小さな変化に、人々は忍び寄る「老い」の気配を感じ取る。老いは誰にとっても抗えない自然の摂理――私たちは、そう考えてきた。しかし、自然界には老化しない、あるいは老化がきわめて遅い生物がいることをご存じだろうか。

例えば、カメやワニは、人間のように年齢とともに死亡率が高まる傾向はほとんど見られない。また、アフリカ大陸の地中に生息するハダカデバネズミ(※1)は、寿命が3年ほどのハツカネズミ(マウス)に比べておよそ10倍も長生きするが、生涯の約8割の期間にわたって老化の兆候を示さず、加齢による死亡率の上昇も確認されていないという。

私たちが「宿命」として受け入れてきた老いは、実は自然界においては絶対的なルールではない、ということだ。老化は必然ではない――そう語るのは、老化研究の第一人者である東京大学医科学研究所教授の中西真さんだ。

「老いというのは、みなさんご存じの通り、年齢を重ねるとともに身体が衰退していく現象です。人間は誰もが老いますが、その表れ方は人それぞれで、決まった形があるわけではありません。ある人は関節が弱り、ある人は呼吸機能が落ち、またある人は認知機能に変化が表れる。非常に多様性に富んだ生命現象と言ってよいでしょう」

これまで、老化は避けることのできない自然現象として捉えられてきた。しかし、近年の研究によって、その常識が大きく揺らぎつつあるという。

「一卵性双生児を対象にした研究から、老化の進行において遺伝が関与する割合は20%程度にすぎないと考えられるようになってきました。残りの80%は、生活習慣や居住環境といった『環境因子』によって左右されているということです。もし老化が遺伝子によって決められているのであれば、外から変えることは困難を極めるでしょう。しかし、環境因子が大きく関わっているのであれば、老化は制御可能な生命現象だと考えることができます。こうした認識の転換が、老化研究を大きく加速させたのです」

では、老化は身体の中でどのようにして起こるのだろうか。ここで注目すべきは「老化細胞」の存在だ。

老化細胞とは、細胞分裂を停止した細胞のことで、本来の役割を終えても体内にとどまり続ける。近年の研究によって、こうした老化細胞が有害な物質を分泌し、慢性的な炎症を引き起こしている可能性が明らかになった。

「人は年を取ると、様々な臓器や組織で慢性的な炎症が起こるようになります。こうした慢性炎症が組織の機能を低下させ、がんや糖尿病、アルツハイマー病といった、いわゆる『老年病(※2)』の引き金となる。その炎症の源泉の1つが、体内に居座り続ける老化細胞だったのです」

老化細胞こそが病を招く要因の一つ――それを決定づけたのが、2011年に発表された米国の研究グループによる実験結果だ。遺伝学的な手法を用いてマウスの体内から一部の老化細胞を取り除いたところ、老化にともなう現象が改善し、病気になりにくくなるという結果が得られたのだ。

「老化細胞を取り除けば、老化そのものを抑えられる可能性がある。この発見を機に、薬の力で老化細胞を除去することはできないかという、新たな研究への道が開かれました」

老化のカギを握るGLS-1酵素

老化細胞を除去する薬を求めて、中西さんの研究チームは、老化細胞に影響を与える遺伝子を一つひとつ丹念に精査していった。その末につきとめたのが、「GLS-1(※3)」という酵素だ。

「人間の細胞には、不良品になったタンパク質を処理する『リソソーム(※4)』と呼ばれる細胞内小器官があります。老化細胞はこの処理機能がうまく働かず、不良品のタンパク質がどんどん蓄積してしまう。すると、その影響で細胞内部が酸性に傾き、本来であれば細胞は死んでしまうはずの状態に陥ります」

ところが老化細胞は、ある方法でこの危機を乗り越えていた。

「老化細胞は、GLS-1という酵素を使ってグルタミンというアミノ酸を分解しますが、その過程でアンモニアが生じます。アルカリ性であるアンモニアには、酸性状態を中和する働きがある。つまり、老化細胞は自らの内部環境を中和することで死を免れていたのです」

GLS-1は、老化細胞にとって、いわば「生命線」だったのだ。そこで、GLS-1を阻害する薬を老齢のマウスに投与する実験を行ったところ、驚くべき変化が表れた(※5)。

まず、マウスを棒につかまらせて、力尽きて落ちるまでの時間を計測したところ、投与後は100秒近くまで記録が延びた。これは、加齢で衰えていた筋力が復活したことを意味する。さらに、加齢によって硬化していた腎臓の糸球体(しきゅうたい)(※6)が減少した。糸球体は、血液中の老廃物や塩分をろ過し尿として体外に排出する働きを持つが、年齢とともに硬くなると腎機能の低下を招く。GLS-1阻害薬の投与により硬化した糸球体が減少したということは、腎臓が「回復した」ということにほかならない。

「この結果を得られるまでに、およそ5年かかりました。生体の内部というのはブラックボックスのようなものです。けれども、老化を改善する薬が体内でどのように効くのかを明らかにしておかなければ、今後、人に応用するにあたって大きな障壁となります。容易な道のりではありませんでしたが、地道な研究の積み重ねが最近の研究結果でようやく一つの形として結びついた。そんな手応えを感じました」

高齢者が生き生きと活躍できる社会へ

チームで研究を進めるにあたり、一人ひとりの興味や希望を尊重し、同じ方向を目指す研究者が集まって力を発揮することで、大きな成果につながると考えている。

マウスで証明された「若返り」の効果。しかし、マウスで成功したからといって、そのまま人間に使えるわけではない。この成果をいかに人へと応用していくのか。中西さんの視線は、すでに次なる高いハードルへと向けられている。

「実用化に向けて何より重要なのは、安全性であることは言うまでもありません。がんのような激烈な病気であれば、多少の副作用を許容してでも延命を優先する場合がありますが、老化や慢性疾患の場合は事情が異なります。強い副作用があるものは受け入れられにくいでしょう」

現在、中西さんはベンチャー企業を立ち上げ、AI技術を持つ企業とも連携。老いの制御を社会実装するための研究を重ねている。

では、この研究は現在、どの段階にあるのだろうか。人への実用化というゴールを「10」とするならば、私たちは今、どこまでたどり着いているのか。その問いに対し、中西さんは慎重に言葉を選ぶ。

「そこは評価が難しいところです。実はもうゴールの目の前かもしれないし、まだまだ遠いのかもしれない。次の扉を開けてみるまでは分からない、というのが正直なところです」

生命科学の研究は、しばしば暗闇の中を手探りで進むようなものだ。仮説を立て、実験を重ねても、期待した結果が得られるとは限らない。一つの発見にたどり着くまでに、何年もの歳月が費やされることも珍しくない。それでもなお、研究へと中西さんを駆り立てるものは何なのだろう。

「やはり、研究そのものが好きだから、ということに尽きると思います。研究ができること自体が幸せで、そこから結果が出れば、なおうれしい。そういった心持ちがなければ、長く地道な研究は続けられないかもしれません」

そう語る中西さんが、老いの研究の礎となる生化学という学問に出合ったのは大学時代のことだ。

「もともとは病理学(※7)を学びたいと思っていたのですが、顕微鏡を覗いていると、ひどく気分が悪くなってしまって(笑)。他の人が操作しているのを見るわけですが、たちまち気持ち悪くなってしまう。私は車酔いがひどい体質なので、これはもう無理だなと確信しました。そこで選んだのが生化学だったのです」

生化学とは、生命のなかで起きている現象を、それらを構成する物質から化学的に解き明かす学問だ。中西さんはこう語る。

「すべてのものは物質でできています。生き物も例外ではありません。その物質を完全に理解することができれば、それを再現することも、壊れた部分を治すこともできる。私たちの身体が何でできていて、どう組み合わさって動いているのか。その仕組みを解明する生化学の奥深さに魅力を感じました」

とりわけ、老化というテーマに関心を持ったのは、臨床の現場で高齢の患者と向き合った経験が大きいという。高齢者の身体は、一つの病気が治れば終わりではなく、次から次へと別の不調が表れる。そうした連鎖反応のような現象を目の当たりにして、その根底にある老化に対する関心が広がったのだという。

老化を制御できる薬が実用化した時、中西さんが見据えるのは、今まさに老化によって苦しむ人たちの救済だ。とくに、老化細胞が深く関わる慢性腎臓病や肺線維症(※8)の治療を最優先に掲げる。人工透析による身体的・精神的な負担や、肺機能の低下による息苦しさから人々を解放したいという思いが強い。目指すのは単なる「若返り」ではなく、高齢者のQOL(生活の質)を改善することが一義的な目的だという。その先にあるのは、最期の時を迎えるまで、誰もが元気で過ごせる社会だ。

「『早くお迎えがきてほしい』と口にされる高齢者の方も少なくありませんが、健康でいられるのなら、少しでも長く生きたいと願うはずです。豊富な経験と知恵を持つ高齢者が、その力を存分に活かして現役世代と支え合う。そんな時代が来れば、世の中は今よりずっと進歩していくのではないでしょうか」

マウスでの実験が成功しても、それだけでは社会に貢献したとは言えない――そう語る中西さんは、人に応用できた時に初めて世の中の役に立てたと感じるのではないかと微笑む。

「老い」を宿命としてただ受け入れるのではなく、自らの手で健やかな未来を選べる時代へ。中西さんの静かな情熱は今、新しい時代の扉を一歩ずつ、着実に開けようとしている。

取材・文/脇 ゆかり(株式会社エスクリプト) 写真/吉田 敬

KEYWORD

  1. ※1ハダカデバネズミ
    実験用マウスよりも寿命が10倍ほど長く、がんになりにくいことで知られている。老化やがん化予防薬の開発に資する新たなモデル動物として注目される。
  2. ※2老年病
    加齢にともない、心身の機能が低下して発症する病気の総称。認知症やうつ、関節痛、歩行障害、骨粗鬆症などの症状があり、複数の症状が出ることも特徴の一つ。
  3. ※3GLS-1
    アミノ酸のグルタミンを分解する酵素。がん細胞の増殖に必要なエネルギー源をつくるほか、老化細胞の生存にも深く関わり、その働きを抑えるGLS-1阻害薬の研究が進められている。
  4. ※4リソソーム
    細胞小器官の一つ。内部の分解酵素によって、不要になったタンパク質や外から取り込まれた細菌などを消化する。
  5. ※5老齢マウスの実験
    中西さんの研究チームは、GLS-1阻害薬を老齢マウスに投与し、加齢にともなう疾患の症状が改善したという研究成果を、2021年1月の米国科学誌『Science』に発表した。
  6. ※6糸球体
    腎臓の皮質にある毛細血管が毬(まり)状に固まった組織。血液をろ過し、老廃物や余分な水分、塩分を尿として排出する働きを担う。
  7. ※7病理学
    病気の原因や発症の仕組み、それらが体に引き起こす変化を研究する医学の一分野。手術や検査で採取した細胞や組織を顕微鏡で観察し、最終的な診断をつける。
  8. ※8肺線維症
    肺組織に炎症が起こり、組織が硬くなって酸素を十分に取り込めなくなる病気。進行すると、息切れや慢性的な咳などの症状が表れる。

PROFILE

中西 真
東京大学医科学研究所 教授

なかにし・まこと
東京大学医科学研究所、教授。1960年、愛知県生まれ。1985年、名古屋市立大学医学部医学科卒業。1989年、同大学大学院医学研究科博士課程修了(医学博士)。自治医科大学医学部助手、米国ベイラー医科大学留学、名古屋市立大学大学院医学研究科基礎医科学講座細胞生化学分野教授などを経て、2016年に東京大学医科学研究所癌防御シグナル分野教授に就任。2023年から現職。主な研究テーマは、老化細胞と個体の老化制御、加齢にともなうがん発症の解明。著書に、『老化は治療できる!』(2021年、宝島社)。