荘川桜物語

岐阜県高山市荘川町。ここに、二本の老いた桜が生きている。
樹高、約二十メートル
幹周、約六メートル。
樹齢、四百五十余年。

四方を山に囲まれた御母衣湖畔にたたずむこの桜には、
奇跡のものがたりがある。
御母衣ダム建設にともない、
光輪寺と照蓮寺が、湖底に沈むことになった
そこで春になると村人の眼を楽しませていたのが、
二本の老桜であった。

美しい桜が水没することを憂えた男が一人、
移植のために奔走した。
そのひたむきな思いに
「桜男」と呼ばれた人物が共鳴した。
世界の植樹史上、いまだかつて例のない巨桜の大移植。
多くの人々の気持ちが、奇跡を生んだ。

この「荘川桜」の運命が語るもの
それは、自然のちからづよさと、
そして、自然をいとおしむ人間の真心。

桜は現在もいにしえと変わらず壮大に、
咲き誇っている。

高碕達之助について

村の各所でダム反対の幕や看板がかけられた。村人は故郷を失うまいと必死だった。

それは、長い交渉が終わった日のことであった。

1959年(昭和34年)11月22日、「御母衣(みぼろ)ダム絶対反対期成同盟死守会」の解散式が行われた。死守会は1953年(昭和28年)、御母衣ダム建設計画が持ち上がったときに結成された。郷土をダムの底に沈めまいと、174世帯の住民が決起し、猛烈な反対運動を繰り広げてきた。

しかし、戦後の荒廃した産業を復興させるには、まず電力の確保こそが急務であった。1952年(昭和27年)に成立した「電源開発促進法」により、J-POWER(電源開発)が設立された。そして日本の豊富な水資源活用のために真っ先に選定された場所が、庄川上流の御母衣であった。J-POWER(電源開発)の初代総裁に任命されたのは、高碕達之助であった。彼は真摯に住民との対話を続けた。

高碕の回顧録から抜粋する。

『電源開発側でも、泣きの涙であった。
人々の心の裡(うら)は、痛いほど判っていた。
しかし、国全体の進歩のためには、
目をつむってでもやりとげなければならぬ大事業である』

(『文藝春秋』1959年8月号)

高碕達之助について

高碕達之助は1885年(明治18)、大阪府高槻市で生まれた。旧茨木中学を卒業後、農商務省水産講習所、メキシコ万博漁業(株)水産技師を経て、1917年(大正6年)、東洋製罐株式会社を創立。1942年(昭和17年)、満州重工業開発株式会社総裁に就任。終戦後、抑留邦人の引揚げに尽力した。1952年(昭和27年)、J-POWER(電源開発)初代総裁に就任。佐久間ダム建設において外国からの技術と資本を導入し、日本における土木技術を飛躍的に発展させた。1954年(昭和29)からは鳩山内閣の経済審議庁長官、通商産業大臣を歴任。優れた判断力と的確な直感力で難題を切り抜ける反面、人情味あふれる人柄であった。まだJ-POWER(電源開発)の総裁であった頃、訪れた野口英世記念館で英世の母の手紙を目にして涙を流し、しばらくその場を動かなかったこともあったという。また動植物好きは有名で、自宅の池にはワニやダチョウが飼われていた時期もある。共産圏に行っても自由主義国でも、どちらにも好感を持たれ、虚心坦懐な態度は常に尊敬と信頼を集めた。

荘川桜のあった村について

1958年(昭和33年)春、湖底に沈む以前の荘川村遠景。稲田や合掌造りの民家が見られる

御母衣地区は、下流の白川村と合わせ白川郷と呼ばれ、じつに豊かな農村だった。標高約700メートル、しかも寒冷地でありながら、稲作の研究と村人の努力により、平野部にも劣らぬ米の収穫率を誇っていた。
また田植が終わった夏場の農閑期には、山菜や牧草がふんだんに収穫できた。さらに積雪が固まる冬場には、山から木材を伐り出すことで、村は大いに潤った。
世界遺産の白川郷などで見られる合掌造りの民家も多かった。

村の各所でダム反対の幕や看板がかけられた。村人は故郷を失うまいと必死だった。

ところが1952年(昭和27年)、政府によりこの地にダムが建設されることが公表された。
白川村の一部と荘川村、中野地区の他5つの集落が水没予定地になった。240もの家々が、新たに造られるダムの底に沈むことになった。
もちろん、村人は大反対した。174世帯が郷土を失うまいと、"御母衣(みぼろ)ダム絶対反対期成同盟死守会"を結成。反対運動がくりひろげられた。

御母衣ダム建設に伴う、集落水没への経緯について

復興期の日本にあって就任した、J-POWER(電源開発)初代総裁・高碕達之助

第2次世界大戦後の経済復興に、水力による電力開発は急務だった。電力の需要が伸びる一方、石炭などの燃料不足から、供給が追いつかない電力不足が慢性化していた。
工場などの業務停止や、一般家庭での停電も珍しいことではなかった。電力不足は深刻で、“空前の電力危機”といわれた。
そして1952年(昭和27年)、電源開発促進法が制定され、電源開発株式会社が設立された。その初代総裁が高碕達之助(たかさきたつのすけ)だった。

工事の進む中野地区遠景

積雪量や降雨量の多さで、貴重な国産資源である、豊富な水量に恵まれた岐阜県庄川(しょうかわ)上流部は、水力発電に最適の開発地点だった。さらに、年間を通じた流量調整を行い、下流のダムの利用水量を増加させることができる大貯水池建設を可能にする唯一の地点が、荘川村中野地区だった。

国家発展のためとはいえ、1,200人もの住民にふるさとを去る決断をしてもらうことは、電源開発総裁の高碕達之助にとっても苦渋の選択だった。
1959年(昭和34年)11月、7年にも及ぶ話し合いの末、ついに住民との合意に達した。
そして東洋一といわれたロックフィルダム"御母衣ダム"が建設され、白川村の一部と荘川村の1/3が湖底に沈むことになった。

2本の老桜

住民との合意後の、“死守会”の解散式にて
右から2番目が高碕達之助。左隣が若山女史

死守会の書記長を務めていた若山芳枝は、高碕と幾度となく交渉してきた人物である。一時は、白鉢巻に身を固めた会のメンバーの先頭に立ち、郷土を水没させまいと抵抗した。しかし、補償交渉を進めるにおよび、彼女と死守会は、高碕の誠実さと人柄に触れる。

以下、若山談。

『先生(高碕)は私たちにお話になる時、
かわいそうだと同情されお泣きになりました。
私たちも泣きますし、先生も涙を拭いてお話になる、
そういう間柄でございました。
本当に細やかな情をお持ちでしたから』

(『東罐』1993年4月号)

そして7年間の交渉の末、両者が歩み寄るかたちで、死守会は解散に至った。住民は思い思いの土地へと、新たな生活を求めて旅立つことになった。死守会の解散式には、高碕も招かれた。このとき高碕は、74歳。高齢のため、すでにJ-POWER(電源開発)総裁の職を辞していた。しかし、荘川村へと足を運んだ。
高碕は、若山らと万感こもる握手を交わした。
両者涙のうちに、式は終わった。

その直後のこと、突然「周囲を見てみたい」と、高碕が若山にいった。
高碕は、水没予定地をゆっくりと歩き出した。
沈みゆく学校や、鉄橋や、家々を見てまわった。

そして学校のとなりにあった光輪寺の境内にきたとき、ふと、歩みを止めた。

光輪寺にそびえたつ樹齢四百五十余年の老桜

『境内の片隅に、幹周一丈数尺はあろうと思われる桜の古木がそびえていた。葉はすっかり落ちていたが、それはヒガン桜に違いなかった。私の脳裡には、この巨樹が、水を満々とたたえた青い湖底に、さみしく揺らいでいる姿が、はっきりと見えた。この桜を救いたいという気持(きもち)が、胸の奥のほうから湧き上がってくるのを、私は抑えられなかった』。

高碕は、木の幹に手を遣りながら、「助けたい」といった。
それを聞いた若山は、不思議に思ったという。

『先生の助けたいというお言葉に、私は内心なんでこんな古木を? 生きるかどうか分からないのに変なことをおっしゃるものだとその時は思いました。これほど立派な方がお歳でぼけられてしまわれたのかと。本当に変なことをおっしゃる先生だなと思って、お顔を見つめたほどなんです』。

高碕は、自宅に植物研究室を設けるほどの自然愛好家であった。そして彼は、村人たちとの長い交渉を経て、その桜の、老いた幹や枝以外のものまで見つめられるようになっていた。古木は、村人にとり、その一生を通して生活のなかに存在した村の象徴であることを想(おも)ったに違いなかった。若山は、古木のことをこう回顧する。

『赤ちゃんのころは背負われて見上げたもので、小学生ぐらいになればガキ大将を中心とした格好の遊び場となりました。若いカップルにはデートの場所でもありましたし、歳とってからはお彼岸や大事なお参りで憩う場といった感じだったんです』

高碕は、その場にいたJ-POWER(電源開発)社員に桜を救ってくれるよう、頼み込んだ。
さらに帰京後、高碕はある人物のもとを訪れた。

桜男との出会い

桜の研究第一人者だった「桜男」こと笹部新太郎

1960年(昭和35年)の早春、大阪倶楽部のホールの一隅で、高碕達之助はある人物と対座した。

「笹部さん、この桜の樹齢はいったいどれくらいのものですか」

高碕は、一葉の写真を差し出しながらそういった。

笹部とは、日本随一の桜研究家として知られ、自らを「桜男」と名乗る笹部新太郎であった。突然、初対面の男からそう訊(き)かれ、笹部は戸惑った。しかも写真は、笹部の言葉を借りれば、「義理にも今どきいい写真とはいえそうもないピンボケのしたみすぼらしいもの」であった。

『まず400年を下らぬものと思う』

笹部が答えると、その顔をじっと見つめながら高碕がいった。

「この桜が、いま、私のやっている御母衣の電源開発の工事のためにダムの水底に埋められてしまうことになる。それが余りに惜しいので、できることなら何とかして活かして遺したい」

そして続けた。

「活着の見込みはありますか」

笹部は無愛想に答えた。

「そんな老木をよしんばあなたがどこの大学や府県の技術者などにご相談になったとしてもおそらく自信をもって活着可能といい切れる人はまず無いでしょう」

「あなたはどうです」

高碕は間髪入れずに訊きなおした。それは、通商産業大臣や経済審議庁長官を歴任した高碕の得意とする筆法に違いなかった。

笹部新太郎について

笹部新太郎氏は1887年(明治20年)、大阪市北区堂島の大地主の次男として生まれた。東京帝国大学の法科を卒業してからは生涯職に就かず、日々桜の研究と指導に携わった人物である。そのほとんどは独学による地道な作業であった。主なものでは、大阪造幣局「通り抜け」の桜の管理指導、江若鉄道近江舞子の「千本桜」の植樹、高槻「金龍寺」の桜植樹、三重県湯ノ山温泉の桜植樹、奈良県橿原街道沿いの15kmへの山桜植樹、吉野山の桜の管理指導、ポーランドのショパン生家への八重桜の苗寄贈などがある。桜に関して収集した資料は膨大な数に及び、花譜、書画、名勝の古文献、絵図等から、桜に関する鳥や虫の事、接ぎ木用の切り出し刀、鋸に至るまで多種多様である。研究所にいたっては4000冊を数え、100冊を超える覚書が残されている。現在このコレクションを、兵庫県西宮市の白鹿記念酒造博物館で見ることができる。水上勉の小説「桜守」のモデルにもなっている。

御母衣ダム建設は国家の急務であり、桜の移植も急がれた

「私だとてそんなことに自信は持てませんナ」

にべもない笹部に、高碕は食い下がった。

「絶対に駄目ですか」

詰め寄られた笹部は反駁した。

「絶対などという言葉は、こと活き物に関する限りいやしくも私は使いたくありません」

そう答えながら、知らず知らずのうちに言葉を継いでいた。

「やればいいのでしょう」

そういった次の瞬間、笹部は「とんでもないことになった」と思った。というのも、老桜の移植を、高碕が本気で考えていることを知ったからである。高碕は笹部にこう迫った。

「万事あなたにお委せしますから早々に移植にかかってください。一万人の労働力と、機械器具の類は何でもありますから」

以下、笹部の回想。

「私の顔を見ながら、私の答えを待っている。私はハッとして今更ながら取り返しのつかない軽はずみな放言を悔いてみたが、事ここに到っては、もはやどうなるものでもない。思わず『私でよろしくばやってみましょう』と答えるほかなかった。ものの勢いである。(中略)私も男のはしくれだ、ままよ、どうとでもなれ!やれるだけはやってやろう。こうした機会はまたとは来まいと胸を張るかと思えば、不運にもこれに失敗したら、私は今後はもう桜を語るまい、としょんぼり肩を落としもした」

(『櫻男行状』)

荘川桜の春

枝葉を失い無残な格好で移植された二本の桜

数多くの人による尽力の末、老桜はダムの水面より上の丘へと引き上げられた。しかも、笹部が現地に赴いた際に発見した照蓮寺の、やはり樹齢450年以上の桜と、2本同時に移植された。

それは、世界植樹史上例のない移植工事であった。重量合わせて73トン。移動距離600メートル。高低差50メートル。

俗に「桜伐(き)る馬鹿、梅伐らぬ馬鹿」といわれるように、梅と異なり、桜はむやみに枝を伐採すると、たちまち立ち枯れしてしまう外傷に弱い植物として知られている。しかしこの2本ほどの巨木の移植は、枝や根を伐らずには、数メートルを移動させることすら困難であった。

移植はされたが、丸裸になってしまった老桜を見た周囲の声は冷たかった。

「全く意外だったのは係わりをもつらしい村人から伝わってくる悪口であった。中にはこんな手紙を受け取って目の前が真っ暗くなったのも憶えている」

手紙にはこう書かれていた。

「(前略)おれたち年寄りの手や足をけずりとって生きてゆけるかいの むごいことしてしまったわい 金までかけて殺さなくともよさそうなもんじゃがなぁ(中略)だるまみたいにしてあら縄のホータイぐるぐるまいて がんじがらめにしてわざわざ山へつれだし殺すなんてひどいことだ たましいがあれば罰があたってかまった人にさわりがあるよ おらあうたててうたてて見とれんわい」

地元の人々ばかりでなく、笹部は植物関係の学究や、技術者からも非難を受け、マスコミにも叩かれた。

笹部は、無言で春を待った。

「私はひたむきに新しい春にあうて出てくるであろうこの老桜の嫩芽(どんが)を待ちつづけたが、雪国のおそい春にじれじれした」

高碕の詠は「荘川桜」と名付けられた桜の横で石碑となった。

嫩芽とは、「わかい芽」という意味である。
遅い春が訪れ、待ちに待ったそれが出た。
そして1962年(昭和37年)、水没記念碑が完成し、その除幕式に、桜の移植の指揮を執った笹部と、その発起人である高碕達之助が招かれた。

式には、他の土地へ移住した約500人もの村人が、大型観光バスに分乗してかけつけていた。

村人は、老若分かたず、すべてが水没した水面を見つめて泣いた。そして、わずかに生き残った2本の老桜にすがりつくように集った。高碕が挨拶を始めた。

「昭和二十七年十月十八日基本計画の発表をみたときから、皆さんの幸福をひたすらねがいながら交渉をすすめた。国づくりという大きな仕事の前に父祖伝来の故郷を捨てた方々の犠牲は今、立派に生かされています」

挨拶の途中で、高碕は涙をこらえきれず、泣いた。そんな高碕を見て、笹部も泣いた。笹部の回想。

「温情をこめて語る一語一語は、日ソ漁業交渉の立役者として、今、全世界の脚光を浴びている世紀の人とは思えない。それは、謙譲と誠実にあふれる一個の好々爺のようであった」

川風は冷たかったが、村人たちは、いつまでも桜の下の輪を解こうとはしなかった。
そして高碕が、裸になった桜を見上げながら、詠んだ。

ふるさとは 湖底(みなそこ)となりつ 移し来し
この老桜 咲けとこしへに

それから3年経った1964年(昭和39年)、高碕から笹部のもとへ、手紙が届いた。あの桜の愛称を取り決めておきたいとの旨がしたためられていた。それが、高碕の絶筆であった。1978年(昭和53年)には、笹部も天寿をまっとうした。2人はこの世にはない。

しかし、「荘川桜」と名付けられた2本の老桜は、いまもなお、ダムの水面(みなも)をのぞみながら、新たな枝葉を天へとひろげている。(了)

碑文は初代総裁・高碕達之助作、第四代総裁・藤井崇治書。尚、「みなそこ」は高碕の詠んだ原文では「湖底」であるが、藤井の書では「水底」となっている。

※文中の敬称は省略させていただきました。

荘川桜の移植作業の様子について

境内にそそり立つ荘川桜の前で相談する笹部氏(左)と丹羽氏(右)

世界の植樹史上例のない巨桜の大移植は、J-POWER(電源開発)が発注し、作業は、建設会社の間組(はざまぐみ)、造園業社の庭正造園(にわまさぞうえん)との、共同作業で推進した。
光輪寺(こうりんじ)の桜が約35トン。照蓮寺(しょうれんじ)の桜が約38トン。その2本を、高低差50メートルも引き上げ、距離にして約600メートルも運搬しなければならず、当初は作業を見守る村の住民ですら成功を不安視していた。

電源開発総裁の高碕達之助の発案で動き出した桜救出プロジェクト。それに共感し、尽力したのは、『桜博士』こと笹部新太郎(ささべしんたろう)氏。
笹部氏は独自に移植の研究を重ね、庭正造園の丹羽政光氏の助けを得て、不可能といわれた大移植に挑戦した。
移植の費用はJ-POWER(電源開発)が持つことになった。ダム建設に際し、桜を救う工事を行うことは、開発優先の当時としては異例中の異例だった。

枝下ろしの作業で、桜は丸裸にされていった。100メートルほどあった根も寸断された

自然を思いやる気持ちが一つになり作業は開始された。梅とは異なり、桜は外傷に弱い樹木。それを熟知する笹部氏は、根や枝をむやみに伐らない運搬を提唱した。
ところが丹羽氏は、伐らねば運べぬと主張。根は100メートルも伸びており、伐採せずに運ぶことは、実際に困難だったが、根を掘り起こしてみて無数の新根をみとめた丹羽氏は、長年の経験と職人の直感により、伐採を断行した。

ブルドーザーで引きずられ、坂道を上ってゆく荘川桜。その無惨な姿は、まるで原型をとどめていなかった

根や枝の伐採は、笹部氏不在の間に行われ、枝というより、幹といっていいものまで伐られた桜を見た笹部氏は、あまりの無惨さに愕然とした。
しかし作業は続けられ、防虫薬や肥料が施され、根から枝まで幾重にもむしろが巻かれ、クレーンでつり上げられた。まるで姿を変えられた2本の桜は、鋼鉄製のソリに載せられ、ブルドーザー3台で、慎重に、少しずつ、運搬のために整備された道を引きずられていった。そして1960年(昭和35年)12月24日、大移植が完了した。

大移植後の、荘川桜に対する村の人々の思いについて

高台に、クレーン車によって引き上げられた荘川桜。御母衣湖を見下ろすように植えられた

枝のほとんどを失った2本の桜は、湖底に沈んだ村を見下ろすように植えられた。一葉のゆらめきさえなくし、寒風にさらされた無惨な姿からは、移植が完了しても、桜がもとのように美しい花を咲かせるとは、村人さえも思えなかった。
世間の反応も冷ややかだった。地元の人々の喜ぶ顔を想像していた笹部氏は、がっくりと肩を落とした。

ところが、多くの人々がこの桜に注ぎ込んだ情熱は、決して無駄ではなかった。日を追うごとに若芽が伸び、老桜は元気をとりもどし、そして、奇蹟が起きた。

深緑の荘川桜を取り囲んで、盛大に行われた“ふるさと友の会”

1970年(昭和45年)、故郷がダムの底に沈んでから10年、荘川村にやってきた遅い遅い春のこと。2本の老桜は、もとのように大きな枝を天へとひろげ、そこに、鮮やかな花を咲かせた。
老桜のまわりには、県内外に散在していた400人もの人々が、『ふるさと友の会』結成を機に戻ってきた。この時、高碕総裁と丹羽氏、2人はすでに世を去っていたが、笹部氏が、満開の桜と、村人の笑顔を見届けた。