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荘川桜とJ-POWER
国家的な使命を担い
J-POWER(電源開発)が設立される
最初の開発計画で豊富な水資源を有効活用するために真っ先に選定された場所が庄川上流の御母衣であった。
当時水没予定地区の大部分を占める荘川村他には1200人以上の住民が生活していた。
174戸の住民により「御母衣ダム絶対反対期成同盟死守会」が結成され猛烈な反対運動が繰り広げられていた。初代総裁・高碕達之助は真摯に住民との対話を続けた。
6年にも及ぶ話し合いの末両者が歩み寄るかたちで死守会は解散に至った。死守会の解散式には高碕も招かれた高碕は村民らと万感こもる握手を交わした両者涙の内に、式は終わった。
その直後のこと
突然「周囲を見てみたい」と高碕がいった
高碕は水没予定地をゆっくりと歩き出した
そして光輪寺の境内にきたとき高碕は樹齢400年あまりの大きな老桜をみつけ歩みを止めた。
「私の脳裡には、この巨樹が、水を満々とたたえた青い湖底に、さみしく揺らいでいる姿が、はっきりと見えた
この桜を救いたいという気持ちが胸の奥のほうから湧き上がってくるのを私は抑えられなかった」
移植を決意した高碕だが大規模な桜の移植は世界にも例がなく
当時無謀と思われた計画にすぐには協力者が得られなかった
そんな折「桜博士」と呼ばれる笹部新太郎に出会う
笹部は最初は拒否するものの、高碕の熱意に遂には協力を約束する
さらに、当時日本一と言われた
植木職人の丹羽政光が参画する
1958年(昭和33年)11月15日前例のない奇跡の移植にむけ
かつてない挑戦が始まった
高さ30メートル 重さ40トン
高低差50メートル 移動距離600メートル
しかも同時に2本の老桜を移植する
桜は外傷にとても弱い樹木である
むやみに切るなという笹部と切らねば運べぬという丹羽
議論を重ねた末必要最低限を残して枝と根は打ち落とされた桜をむしろで巻きクレーンで鋼鉄のソリの上に乗せブルドーザー3台で引きずりあげた
高碕達之助
笹部新太郎
丹羽政光
三者の想いにより1960年(昭和35年)12月24日世紀の移植工事が完了した
しかし老桜が厳しい冬を越えてくれるかどうかは翌年訪れる遅い春まで待たなくてはならなかった
翌年待ち望んだ遅い春2本の老桜は活着した
水没記念碑の除幕式で高碕は裸になった桜を見上げて和歌を詠んだ
ふるさとは
湖底(みなそこ)となりつ
移し来し
この老桜
咲けとこしへに
初代総裁・高碕が残した魂は今もなお引き継がれている
J-POWERの企業理念
環境との調和をはかり、地域の信頼に生きる
その象徴とも言えるこの2本の桜
積雪によって枝が折れないよう
鷽鳥(うそどり)に芽をとられないよう
雨によって幹が腐らないよう
J-POWERは高碕の魂とともに荘川桜を今も守り続けている
そして2002年(平成14年)、J-POWER創立50周年記念として荘川桜の実生の実から新たに育てた苗木は荘川桜二世として全国の小・中学校等へ贈呈されその土地であらたな命を芽吹いている