鯉のぼりで世界を元気に
ワタナベ鯉のぼり株式会社

匠の新世紀

ワタナベ鯉のぼり株式会社
愛知県岡崎市

ワタナベ鯉のぼりのショールームで。手描き本染めの手法の用いた「天」の青鯉を手に持つ渡辺要市さん。

5月5日のこどもの日が近づいてきた。
清々しい初夏の空に鯉のぼりが泳ぐ姿を見ると心が晴ればれとする人も多いことだろう。
伝統の染色技術を守りながら、時代に合わせた新しいチャレンジを続ける老舗の鯉のぼりメーカーを愛知県に訪ねた。

江戸時代から続く伝統の染色技術を守る

ワタナベ鯉のぼりのフラッグシップ「天」5色・吹流セット。手描き本染めの伝統工芸品(写真:ワタナベ鯉のぼり提供)。
ワタナベ鯉のぼり株式会社
代表取締役社長 渡辺要市さん

端午の節句に鯉のぼりを揚げる行事の起源は江戸時代に遡る。武士の家で男児の出世を願って馬印や幟(のぼり)を揚げていたのを真似て、町人たちが鯉を描いた幟を揚げるようになったのが鯉のぼりの始まりという。鯉は中国の登龍門伝説「鯉が滝を登りきると龍になる」から、立身出世の象徴。初めは和紙でつくられたが、大正時代には木綿の布でつくられるようになり、それが現代まで伝わっている。

「時代によって、鯉のぼりのあり方も変わってきました」

そう語るのは、愛知県岡崎市にあるワタナベ鯉のぼり株式会社代表取締役社長の渡辺要市さん。同社は1904年(明治37年)創業、今年で創業120周年を迎える老舗の鯉のぼりメーカーだ。

「初期の鯉のぼりは真鯉を1匹だけ揚げるものでしたが、今では真鯉だけでなく、母親を表す緋鯉や、子どもたちを表す青鯉、緑鯉など、家族の人数分を揚げる方もいます。江戸時代のように男児の出世を願うだけでなく、戦後は男女を問わず子どもの成長を願うようになり、さらに最近は家族全員の健康や仲の良さ、家族愛を祈るようになったのだと思います」

渡辺さんはワタナベ鯉のぼりの3代目。同社は、渡辺さんの祖父が名古屋市で幟旗の工房として創業、1912年(大正元年)に生まれ故郷である岡崎市に移転してきた。岡崎市周辺は江戸時代からの木綿産地で、この当時木綿でつくられるようになった鯉のぼりの製造業者がこの地に集まっていたという。

同社が創業から受け継いできた伝統の染色技法が「かなめ染」。友禅染めの流れを汲む染色技術で、以下のような手順で行われる。

① 筒引き 米粉とぬかを混ぜた“のり”を用いて、木綿の生地に下絵を描く。のりを付けたところが完成時に白く残る。

② 色付け 顔料を決まった場所に置いて布を染める。

③ ぼかし 2つの色を使い、濃淡を出しながら、きれいなグラデーションをつける。職人の技がもっとも発揮される工程。

④ 水洗い 生地を水に入れて、のりを落とす。昔は岡崎市内を流れる砂川で行っていたが、現在は工場内の水槽で行う。

⑤ 乾燥 洗った布を天日干しにする。「紫外線に当てると色が輝く」と渡辺さんは言う。

⑥ 縫製 布を縫い合わせ、鯉のぼりの形につくりあげる。このあと、部品などを取り付けて完成。

この手法でつくられる“手描き本染め”の鯉のぼりは年間300本ほど。武将の姿を描いた武者絵幟も300本で、どちらも限定生産だ。同社の生産量の中では1割にも満たないが、渡辺さんは「この伝統をこれからも守っていきたい」と語る。

2021年には、人形・幟旗類・雪洞(ぼんぼり)などの「名古屋節句飾」が国の伝統的工芸品に指定され、ワタナベ鯉のぼりの鯉のぼりや武者絵幟も晴れて伝統的工芸品と認められ、さらに同社の3名の職人が伝統工芸士に認定された。

ポールが不要な「イージー鯉のぼりセット」(写真:ワタナベ鯉のぼり提供)。
お座敷セットやオリジナルの名前が入れられる命名旗なども。

伝統を守るためにはチャレンジを続けること

夏の晴れた日に天日干しに(写真:ワタナベ鯉のぼり提供)。
のりで下絵を描く「筒引き」。職人がフリーハンドで伝統の絵柄を描く(写真:ワタナベ鯉のぼり提供)。
下絵の線からはみ出さないように染料を塗る「色付け」(写真:ワタナベ鯉のぼり提供)。
2色の染料できれいなグラデーションをつける「ぼかし」(写真:ワタナベ鯉のぼり提供)。
染め終わった布を縫い合わせる「縫製」。

ワタナベ鯉のぼりでは、伝統技法の「かなめ染」を活かしたインテリア雑貨などコンパクトな製品も揃える一方、リーズナブルな製品を求める顧客用に、ポリエステルやナイロンなどの合成繊維製の鯉のぼりも揃えている。こうした製品には、大量生産に適した型(かた)を使って手捺染(てなせん)でプリントする染色を行っている。実際にはこうした製品が同社の売り上げの7~8割を占める。

渡辺さんは「伝統を守るには、従来と同じことをやっていては守れない」と語る。

「常に新しいことに挑戦していくことが伝統を守ることにつながります」

マンション住まいが増えたことや、一軒家でも鯉のぼりが揚げにくい状況が増えていることに対応し、同社では多様な製品を開発、販売している。

例えば、軒先からロープを張って飾れるお手軽な鯉のぼりや小さな庭やベランダでも楽しめるコンパクトタイプ、室内に飾れる置物タイプなどバリエーションは豊富だ。天井からつり下げ、ブラブラ揺れるのが楽しい「モビール鯉のぼり」も発売するなど、毎年のように新製品を提案している。

同社のイノベーションは、商品開発だけではなく、製造や販売でも行われている。例えば、鯉のぼりや武者絵幟のデザインをパソコンに読み込み、絵柄を布に直接プリントしたり、パソコン上の文字をミシンで刺繍したりするなど、小ロット生産に対応した手法も取り入れている。これにより個別のオーダーメイドにも対応できる。さらに、一昨年はホームページを大幅にリニューアルし、ECサイト(ネット通販)も充実させた。

「昔は問屋を通して、日本各地の人形店に商品を卸していましたが、現在は人形店への直販やネット販売が主流になってきました」

顧客の要望がダイレクトに伝わることで、それに適応した丁寧な個別対応が求められているのだ。

ピンクの鯉は女児用。
武者絵幟は江戸時代から続く伝統工芸品(写真:ワタナベ鯉のぼり提供)。
同社の武者絵幟はすべて手描き本染めの伝統技法で作成される(写真:ワタナベ鯉のぼり提供)。

子どもの数が減る中 様々な要望に対応して進化

第2次世界大戦後の鯉のぼりの需要は、子どもの数によって左右されてきた。

終戦後ベビーブームが起こり、子どもの数が急増、戦時中は休業していたワタナベ鯉のぼりも「子どもや孫のために鯉のぼりをつくってほしい」という客の要望に応え、製造を再開した。1948年には国民の祝日が制定され、5月5日が「こどもの日」と定められたことで男児だけでなく女児も鯉のぼりでお祝いすることになり、その需要は高度経済成長期に急激に増加していく。

1960年代後半には雨に濡れても平気な合成繊維の鯉のぼりが登場、同社もいち早くこれに対応した。渡辺さんが大学を卒業して同社に入社したのは1972年。まだまだ鯉のぼり業界が元気な頃だった。

1990年代になると、少子化が顕著になり、鯉のぼりの需要も減り始めた。ちょうどその頃、渡辺さんは日本鯉のぼり協会の会長になる。最初にやったのは、鯉のぼりの規格を統一することだったという。

「それまではメーカーによって矢車や回転球、ポールなど部品の規格が違っていたので、お客さんは、違うメーカーのものを買うときちんとはまらないということが起きていました」

そこで、各社の規格を統一、どのメーカーのものを購入してもぴったりはまるようにした。それは需要が減る中、協会で協力しあい、鯉のぼりの文化を守っていこうという意思表示でもあった。

2011年3月に起こった東日本大震災に際し、日本鯉のぼり協会は被災地に鯉のぼり235セットを贈り、多くの被災者が元気づけられた。

「鯉のぼりには人々を元気にする力がある」と渡辺さんは語る。

世界的にも珍しい鯉のぼりは海外からの観光客にも好評だ。昨年12月には海外向けに英語のwebページも作成した。

「これからは海外にも鯉のぼりを売って世界を元気にしていきたい」と渡辺さんは意気軒昂だ。

小学生に手軽に染色を体験してもらうための「ミニ手ぬぐいキット」(写真:ワタナベ鯉のぼり提供)。

取材・文/豊岡 昭彦 写真/斎藤 泉

PROFILE

ワタナベ鯉のぼり株式会社

愛知県岡崎市にある1904年創業の鯉のぼりメーカー。江戸時代から伝わる手描き本染めの「かなめ染」の技を守りながら、様々な鯉のぼり、のぼり旗をつくっている。かなめ染は国の伝統的工芸品の指定を受けた名古屋節句飾の一つで、同社には3人の伝統工芸士がいる。