日本企業を強くするウェルビーイングな働き方
山本 勲
Opinion File
コロナ禍を経て格差拡大 二極化する働き方
コロナ禍は我々の社会・生活に様々な影響を及ぼし、新しいルールやスタイルをもたらした。働き方もその一つ。例えば、在宅勤務など、職場とは離れた場所で仕事をするテレワーク(またはリモートワーク)が一挙に普及した。国土交通省が昨年3月に発表した「テレワーク人口実態調査」の結果によると、就業者に占める雇用型テレワーカー(※1)の割合は、コロナ禍前の2019年度が14.8%だったのに対し、22年度には26.1%に上昇。また、勤務先でテレワークを認めている、またはその制度がある人は37.6%で、同じくコロナ禍前の19.6%を大きく上回っている。
一方、テレワークの生産性を疑問視する声も根強くあり、在宅勤務を減らして通勤勤務に戻したという企業や就業者の例はよく耳にする。どちらが望ましいのだろう。計量経済学を用いて労働市場の実証分析を行う慶應義塾大学商学部教授の山本勲さん(パネルデータ設計・解析センター長)に聞いた。
「柔軟な働き方が広がりつつあるという意味では、企業と就業者の双方にとってテレワークはメリットがあるし、いい方向に進んでいると思います。10年ほど前から働き方改革の議論が活発になり、残業上限規制が法律で強化されるなどして、大企業を中心に長時間労働の是正や待遇改善といった取り組みが進んできました。そこにコロナ禍が来て、在宅勤務をはじめとする多様な働き方の広まりが一気に加速したわけです。
ただ、気になるのは、そのまま柔軟な働き方が定着した企業と、コロナ禍が明けて元に戻った感のある企業との格差が広がり、二極化の様相を呈していることです。先行する大企業にならって全体的に取り組みが進み、徐々に格差が解消すればいいですが、そうではないとすると、働き方改革の足かせとなり、日本経済の成長にも影響が及ぶでしょう」
そもそもテレワークの定着度合いに差が生じているのはなぜか。山本さんの研究によれば、定着度の高い企業ほど、コロナ禍前から柔軟な働き方に前向きだったり、DX(デジタルトランスフォーメーション)を進めるなどして導入に適した環境があったりと、テレワークの利点を享受しやすい状況にあったことがわかっている。また、そうした企業ほど、生産性が高い場合がほとんど。コロナ禍後は、その新しい働き方に価値を認め、通常の勤務と組み合わせたハイブリッドの格好で定着が進んだとみられる。
半面、テレワークが定着しなかった企業の多くはもとから適した環境がなく、メリットを実感できないまま原状に戻ったようだ。利点がないなら無理に合わせなくてもいいとも思えるが、どうやらそれは早計である。
「例えば、在宅勤務について言えば、コロナ禍の初期段階でその実施率が高かった企業のほうが、人員の稼働率低下を小さく抑え、利益率の低下幅を軽減することができました。つまり、テレワークは組織や個人のレジリエンス(回復力)を高めるのに有効であり、BCP(事業継続計画)の観点からも意味がある。
また、テレワークを取り入れて働いている人ほど、仕事に対する熱意や活力といったワークエンゲージメント(※2)が上昇する傾向にあることも、私たちの研究で明らかになっています。したがってテレワークは、従業員の健康や幸福感に関わるウェルビーイング(※3)を高めながら企業の生産性も上げていくという、人的資本経営の考え方からしても無視できないものといえるのです」
個人の就業や健康に着目した「日本家計パネル調査(※4)」を用いた山本さんらの検証でも、そのことは裏づけられている(図)。在宅勤務(テレワーク)の実施率は高所得者になるほど顕著に上がり、同時にワークエンゲージメントも増加しているのがわかる。すなわち、より満足した暮らしに近づいていく。大事なのはテレワークそれ自体ではなく、その先にあるウェルビーイングと生産性の向上を同時に満たすことである。
幸福感が原動力になるウェルビーイング経営
「ウェルビーイング」を辞書で引くと、「幸福、健康(な状態)」といった訳語が示される。だが、「先進的な企業が今、経営の考え方に取り入れるなどして注目しているのは、もっと広い意味でのウェルビーイングだ」と山本さんは言う。
「WHO(世界保健機関)では身体的・精神的・社会的に満たされた状態が健康であると定義していますが、これよりさらに広く捉えるべきでしょう。例えば、所得が増えることや生活水準が上向くこと、楽しく働けることなども、ウェルビーイングの度合いを測る指標になり得ます」
その多面性については、OECD(経済協力開発機構)が2011年に策定した「よりよい暮らし指標(Better Life Index)」(※5)が参考になる。雇用、教育、環境などに関する11の分野で構成され、さらに細かく20を超える項目を設定。それぞれのスコアが高いほど幸福度が高い、すなわちウェルビーイングの度合いが上がることになる。要はそれだけ多角的に見なければ、幸福の本質はわからないということだろう。
この指標はOECD加盟国など40カ国で作成され、各国の幸福度が比較できるようになっている。日本の幸福度は後図のとおり。平均寿命や安全性、就業率は高いが、ワークライフバランスはいま一つだ。
「日本では以前、昇進・昇給といった金銭的価値観が重視され、それが労働者の幸せに直結するものと考えられていました。だから、経営者はその制度さえうまく管理できていればよかったのだと思います。
ですが、現在では人々の価値観が多様化し、非金銭的な側面まで重視しなければ経営にも悪影響が及ぶ状況となっています。出世よりも健康が大事、給料より時間がほしい、そんな声にも耳を傾けて、従業員の様々な価値観に向き合いモチベーションを高めることで、仕事の生産性を上げていく。そうしたウェルビーイング経営が求められています」
とはいえ、何を大事にするかは人によってあまりに違う。多様な指標を設け、従業員に向けて定期的に意識調査を行い、個別にウェルビーイングの到達度合いを測る必要がある。度合いが落ちた人がいれば、そのつど面談などを通じて原因を探り、解決策を講じて引き上げていく。その結果、個々の調整で総じて全体が底上げされ、会社としてのウェルビーイングも高まることになる。
「企業としては、このように多元的な価値観を一元的なものに変換するための尺度として、ウェルビーイングを捉えるといいでしょう。従業員のウェルビーイングを高めることは、単に福利厚生を充実させて社会的責任を果たすといった面だけでなく、経営的な側面でのプラス効果にもつながるのですから」
睡眠の質にも表れる 伸びる企業のチカラ
ウェルビーイングの指標は様々に考えられるが、「睡眠」もその一つになると山本さんは指摘する。働き方と睡眠時間・睡眠の質は明らかに相関する関係にあるという。
「よく睡眠不足で仕事をすると効率が落ちるといいますよね。一睡もしないまま17時間も続けて作業をするのは、酔っ払いが同じ作業をするのに等しいなどという実験報告もあるくらいです。
実際、私が行った研究でも、従業員の睡眠状態が悪い企業ほど、利益率が下がる傾向にあることがわかりました。平均睡眠時間の長さで見た時に、上位20%の企業と下位20%の企業の間には利益率で平均約4%の差が生じていて、下位の企業はその2年後に、利益率が約2%落ちていたのです」
これは山本さんが参画する日経スマートワーク経営研究会(※6)での実証結果。上場企業約450社と、従業員約7,000人に対する調査データを掛け合わせて分析したもので、睡眠時間の上位10%と下位10%の企業の間には、平日で約1時間の差があることも明らかになった(後図)。
「さらに、勤務先の平均労働時間が長く、また本人の残業時間や通勤時間も長い人ほど、そして有給休暇や在宅勤務の少ない人ほど、睡眠の状態は悪かった。仕事の目的や役割が明確かどうか、社員数に占める女性の比率なども関係してきます」
分析結果から推計すると、残業時間を月に10時間ほど短縮すれば、睡眠時間は月に約4時間延びるという。こうした改善が収益につながる以上、経営者としては看過できない。にもかかわらず、日本人の睡眠時間は先進国で最も短く、1日平均約7時間20分と欧米より1時間以上も少ない(OECD統計)。
米国シンクタンクのランド研究所は2016年、日本では睡眠不足によってGDPの約3%に相当する経済損失(当時で約15兆円)が生じていると発表した。「日本企業は今すぐにでも睡眠を経営課題に位置づけるべき」(山本さん)なのである。
誰もが活躍できる環境へ DE&Iの時代
睡眠も含めてウェルビーイングの環境を整え、企業と従業員の双方に利益をもたらそうとする動きは世界的な潮流だ。そのような、誰にとっても幸福感の得られやすい職場づくりを進めることは、企業が多様性を獲得するプロセスでもあると山本さんは見る。
「ここでいう多様性はもちろん、性別や年齢や国籍といった属性だけを指すものではありません。人それぞれに異なる考え方や価値観、行動の違い。この『認知的多様性』を認め合える環境をつくることが重要です」
かつて企業がこぞって注目した「ダイバーシティ(多様性)」は今、「ダイバーシティ・エクイティ(公平性)&インクルージョン(包括性):DE&I」へと進化を遂げつつある。多様な人材を包み込んで尊重し合い、公平に力を発揮できる環境を実現できた企業こそが伸びていく。今こそ、ウェルビーイング経営が求められている。
取材・文/松岡 一郎(エスクリプト) 写真/竹見 脩吾
KEYWORD
- ※1雇用型テレワーカー
自営などではない、企業等に雇用される就業者のうち、テレワークを実施している人。 - ※2ワークエンゲージメント
活力・熱意・没頭の3つの観点から見て、仕事に対するポジティブな心理状態にあること。 - ※3ウェルビーイング
well-being。幸福感や生活の質を表す言葉。健康や精神の状態、経済的な状況、社会的なつながりなどが関係している。 - ※4日本家計パネル調査
全国の個人を対象とする、就業、所得、健康、教育、資産などの広範囲にわたる項目に関する調査。慶應義塾大学で実施。 - ※5Better Life Index:BLI
生活の豊かさを測るGDP以外の新しい指標として、OECDが2011年に発表。加盟37カ国とブラジル、ロシア、南アフリカを加えた40カ国の幸福度を比較できる。 - ※6日経スマートワーク経営研究会
生産性向上のキーとなる要因を実証的に分析、発信する学識経験者らによる研究会。日本経済新聞社と日本経済研究センターの共同運営。
PROFILE
山本 勲
慶應義塾大学商学部教授
パネルデータ設計・解析センター長
やまもと・いさむ
慶應義塾大学商学部教授、同パネルデータ設計・解析センター長。1970年、神奈川県生まれ。慶應義塾大学商学部卒業、同大学院商学研究科修士課程修了。1995年、日本銀行に入行し、調査統計局、金融研究所などに勤務。この間、米国ブラウン大学大学院で博士号取得(経済学)。2007年、慶應義塾大学商学部准教授、2014年より同教授。専門は応用ミクロ・マクロ経済学、労働経済学、計量経済学。『労働時間の経済分析:超高齢社会の働き方を展望する』(共著、2014年、日本経済新聞出版社)で第57回日経・経済図書文化賞受賞。近著に『人工知能と経済』(編著、2019年、勁草書房)。