荘川桜を語り継ぐ者たち

語り部(伍)願いを託された「桜博士」の功績

柴橋明子さん

profile:笹部新太郎氏による、桜に関する膨大な収集物「笹部さくらコレクション」を、西宮市からの寄託を受けて管理保存しているのが、白鹿記念酒造博物館。そこで柴橋明子(しばはしあきこ)さんは、担当学芸員としてこのコレクションの調査研究に携っている。今回は、膨大な資料から読み解く、荘川桜移植当時における笹部氏の「思い」を、柴橋さんにうかがった。(取材=2011年5月27日、白鹿記念酒造博物館にて)。

第2回願いを託された「桜博士」の功績(2)

昭和35年早春、高碕達之助の訪問を受けた笹部新太郎氏は、水底に沈められてしまう桜を、なんとかして活かして遺してやりたいと相談された。移植、そして活着の見込みを訊かれた笹部氏は、こう応じている。

「そんな老木をよしんばあなたがどこの大学や府県の技術者などにご相談になったとしてもおそらく自信をもって活着可能といい切れる人はまず無いでしょう」(『櫻男行状』笹部新太郎著)

しかし、その会見からまもなく、笹部氏は、桜を実見するために岐阜を訪れている。

檜垣順造に連れられ、車で光輪寺へと直行すると、桜を目にし、驚きの声を発したという。

高齢で、高血圧の注意も医師から受けていたにもかかわらず、「私でよろしくばやってみましょう」と困難に立ちむかった笹部新太郎氏。 (写真=西宮市笹部さくらコレクション─白鹿記念酒造博物館寄託─)

「よくこれだけの巨櫻樹が世に識られずに残っていたものだ」(『「荘川桜」について』檜垣順造筆)

さらに笹部氏は、こうも檜垣に語ったという。

「移植の可否は私にも速断しかねる。これだけの老樹を動かすことは、丁度病気の老人に大手術をするようなもの、手術しなければ死ぬし、しても予後がいいとの保証はない。」(『「荘川桜」について』)

笹部氏が桜を目にした頃の日本は、終戦から15年が経ち、高度経済成長期に突入していた。桜をはじめとした自然を愛でることよりも、経済的発展が優先されるこの国に、70代になった笹部氏は、なにを感じていたのだろうか。それこそが、笹部氏がこの移植を引き受けた理由にも直結しているように思われる。白鹿記念酒造博物館の学芸員・柴橋明子さんに訊いた。

「同じ頃の昭和36年には、笹部先生が本格的な桜の演習地として手塩にかけた、京都向日町の苗圃が、名神高速道路建設の盛り土の採取地として日本道路公団に買い取られるという残念な出来事がありました。道路公団側は別の土地を用意したのですが、土質等の面から桜には適さず、移転は実現しませんでした。また周辺の土を取り除いたため苗圃としては使用できなくなり、結果としてこの土地を失うこととなりました。一方は、日本を発展させるために自然を潰(つぶ)す。しかしもう一方は、発展に尽力するけれども、残せるものは残したいという、高碕総裁の考え方がありました。笹部先生の心に、高碕総裁の自然を愛する心、真摯な姿勢が、伝わったのだと思います」

しかし、「病気の老人に大手術をする」困難を、もし失敗すれば、長年の桜研究に不名誉な傷を残すことにもなりかねない。「誰が考えても無理な移植のお手伝い」(『櫻男行状』)で、しかも高齢であり、高血圧の注意も医師から受けていたときのこと、なのになぜ、「私でよろしくばやってみましょう」(『櫻男行状』)、そう返事するに至ったのか。笹部氏の心境を、柴橋さんはこう推察する。

「400年以上も樹齢を重ねた桜を助けることに、無謀さも感じていたとは思いますが、70歳を超え、これまでに培ってきた知識や経験もあり、可能性がゼロでない限り救いたいと思ったのではないのでしょうか。また高碕総裁の根気強い言葉とその思いに後押しされたのではないかと思います。しかしリスクは大きい移植だったので、『櫻男行状』の中で笹部先生は『これによって先人の遺した物を大切に護るべきを訓える示唆ともなれば、それでいいのではないですか。また、これによって電源開発という会社は決して世にいわゆる"殺し屋"ではない、護るものは護る、遺すものは遺すのだと広く世間、とくにこのような世の中には、実物をもって世に知らせられる又とないいい機会ではないですか』と語っています。その反面、自分に対しては、失敗した時には『今後もう桜を語るまい』という決意のもと、自分一人が責任を負うという心づもりだったのではと思います。これまでの桜人生を賭けて受けた笹部先生の器の大きさや潔さのようなものを感じます」

また、水没して故郷を失うことになる御母衣の村人に対する思いやりも深かったのではないかと、笹部氏のある一面を、柴橋さんは紹介してくれた。

「高碕総裁の自然を愛する心、真摯な姿勢が、伝わったのだと思います」と笹部新太郎氏の思いを推察してくれた柴橋明子さん。

「桜の演習林だった「亦楽(えきらく)山荘」に行かれたときの記録に、山兎が捕らえられているのを見て、兎は苗木を噛んで山を荒らすのだけれど小さい生き物の持つ可愛い顔を見てしまったらどうしても飼ってあげないとという気持ちになったり、猪の子が捕まえられて亦楽山荘の小兎用に作った箱に入れられているのを見て、ミルクを与えて飼養を周りへ頼んでおいたりと、人間味にあふれたところもあった方でした。そんな笹部先生ですから、村の人々の気持ちを察したということも、あったのではないでしょうか」

高碕に返答した日、家に帰ってからの思いを、笹部氏はこう記している。

「私も男のはしくれだ、ままよ、どうとでもなれ! やれるだけはやってやろう。こうした機会はまたとは来まいと胸を張るかと思えばまた、不運にもこれに失敗したら、私は今後もう桜を語るまい、としょんぼり肩を落としもした」(『櫻男行状』)

荘川桜移植に関する笹部氏の功績は大きいが、なかでも笹部氏ならではの目のつけどころは、依頼された光輪寺の桜の他にもう一本、同種の桜を救えまいかと発想したことにあった。檜垣に案内されながら、車窓から沿道の土質を観察していた際、大樹を発見した笹部氏は、胸躍らせている。すぐに車を寄せさせると、光輪寺のものと同じ「アズマヒガン」であり、樹高も、樹齢も、ひけをとらないことに喜んだ。それが、照蓮寺の桜であった。

「どうせ移植をするのなら、この木を合わせて都合二本の移植をするよう、高碕さんらに話し込んでもらうことにした。(中略)私の心づもりでは、どうせ移植をするなら一本より二本の方が遙かにいい、二本ともなればけっこう観光資源ともなろうし、また、失敗した場合でも一本ぐらいは活着しようとも思わぬでもなかった」(『櫻男行状』)

こうして昭和35年の春より、笹部氏は2本の桜を移植するにあたっての研究に没頭する。

移植の期限は、「いまの日本の産業は御母衣ダムの十二万五千キロの電力に一日を争う期待をかけている」(『櫻男行状』)と高碕に返答されたことで時間がなかった。

「これでは、とても"根まわし"その他の余裕など、全くないいわば"強制立退き"で、まさに泣きっ面に蜂である」(『櫻男行状』)