荘川桜を語り継ぐ者たち

語り部(伍)願いを託された「桜博士」の功績

柴橋明子さん

profile:笹部新太郎氏による、桜に関する膨大な収集物「笹部さくらコレクション」を、西宮市からの寄託を受けて管理保存しているのが、白鹿記念酒造博物館。そこで柴橋明子(しばはしあきこ)さんは、担当学芸員としてこのコレクションの調査研究に携っている。今回は、膨大な資料から読み解く、荘川桜移植当時における笹部氏の「思い」を、柴橋さんにうかがった。(取材=2011年5月27日、白鹿記念酒造博物館にて)。

第1回願いを託された「桜博士」の功績(1)

昭和34年11月22日、御母衣ダム絶対反対期成同盟死守会解散式の後、集落の様子を見てまわったJ-POWER初代総裁の高碕達之助が、光輪寺の境内で老桜の巨木を目にし、御母衣建設事務所(当時)の次長で補償の責任者であった檜垣順造に、移植の必要性を説諭した。

その後も、「櫻のことが気になって、夜半もよく独り考えていることがある」(『「荘川桜」について』檜垣順造筆)という主旨の高碕直筆の手紙を、檜垣は2度に渡って受けとった。

年が変わってから上京した檜垣は、高碕に会い、社屋が隣(当時)であった岸本商会を訪ねて移植のことを相談する旨、伝えられた。そして、高碕の紹介状を手に岸本商会を訪ねると、そこで初めて、ある人物の存在を知らされる。

「『その櫻の大家というのは、どちらかと云うと私が云うのはおかしいが、気難しい変り者なので、ここで直に請合いかねるけれど、とにかく会って話してみましょう』と笑顔で答えられた」(『「荘川桜」について』)

岸本商会が紹介してくれたその「櫻の大家」というのが、荘川桜移植の指導をすることになる、笹部新太郎氏であった。

笹部氏が御母衣まで来て桜を実見し、移植の検討をしてくれることになった。岐阜駅まで出迎えた檜垣は、そこで初めて、笹部氏と対面した。

さて、「櫻の大家」笹部氏とは、どのような人物であったか。

「桜の神さまになってくれよ」と大学時代に教授から背中を押され、桜の研究に携わることを決意した笹部新太郎氏。(写真=西宮市笹部さくらコレクション─白鹿記念酒造博物館寄託─)

明治20年、大阪市北区堂島の大地主の次男として生まれ、東京帝国大学(現東京大学)の法科大学政治学科に入学した。カメラも趣味だった在学中、東大に植えられていた桜を撮影していたところを和田垣謙三教授に声をかけられ、桜好きであることを告げている。その後、「どうせ生涯をかけてやるのなら日本一になってくれよ。桜の神さまになってくれよ」(『櫻男行状』笹部新太郎著)と、卒業後間もなくに亡くなってしまう教授から背中を押され、桜の研究に携わることを決意する。

笹部氏は全国にある桜の名所、名木を訪ね歩くところから研究を始めた。大戦を挟むにもかかわらず、桜に関する蔵書は4000冊にも及び、100冊を超える覚書をも残している。桜の演習林「亦楽(えきらく)山荘」を自ら造園し、品種保存などを研究しつつ、大阪造幣局「通り抜け」の桜の管理指導を行うなど、彼の桜に関する功績は多々ある。

まずは、そんな笹部氏の「櫻癖(おうへき)」について、白鹿記念酒造博物館の学芸員・柴橋明子さんに訊いた。

「亦楽山荘へ入るたびに、その日行った作業や、訪問者、天気などを記している『亦楽山荘記録』という日誌があります。そこには、桜のことが、わが子の成長のごとく記されています。桜に関する美術工芸品も当館でお預かりしていますが、それを古美術商や古道具屋から求めたときの記録も細かく残されています。桜に関してなら、時には10時間にも及んで話し続けていられたということですし、マニア、という俗っぽいいいかたはご本人はお嫌いで「櫻癖」とおっしゃっておられるほどに、かなり、のめりこんでいたかと思いますね」

なぜ、そこまで桜にこだわり、桜を愛(いつく)しみ、桜に人生を捧げたのか。柴橋さんは、無数の文献から紐解き、こう推察してくれた。

「笹部先生は、とりわけ日本人らしさ、日本人としての誇りを、大切にされていた方だと思います」と語ってくれた柴橋明子さん。

「日本人の心には、多かれ少なかれ、桜に対する思い入れがあると思いますが、笹部先生は、とりわけ日本人らしさ、日本人としての誇りを、大切にされていた方だと思います。また、お子さまもいらっしゃらなかったので、桜を自分の子どものように愛しんでいたのかもしれません」

万葉集にも桜を詠んだ歌は多く、たしかに、日本人と桜のつながりは強い。

笹部氏はしかし、その桜に対する日本人の仕打ちを憂えていたとも、柴橋さんはいう。

「戦時中は、一花咲かせて潔く散るという桜のイメージが利用されたり、防空壕の梁に使うため桜の樹が伐られたり。実際に生きている桜を育てていただけに、笹部先生は、やりきれなさを感じていたかと思います。日清・日露の戦役で凱旋した人達は師団・連隊本部があった城址などに記念として、その頃流行っていて、しかも安く、土地・気候を選ばずに育つソメイヨシノを植樹しました。さらに小学校などにも同じ理由で植樹されていき、ますますソメイヨシノばかり増えていくことにも心を痛めていました。ソメイヨシノに代わるような、素晴らしい桜を自ら開発、育成していきたいという思いもありました」

昭和35年の早春、檜垣との対面の前に笹部氏は、突然の来訪者があったことに驚いた。

高碕達之助が大阪までやってきて、大阪倶楽部で会いたいというのだ。

「高碕さんが、席につくと早々、合版ほどの小さな一枚の写真を見せて『笹部さん、この桜の樹齢はいったいどれくらいのものですか』と訊くので、その写真を手に取って、つくづく見る(後略)」(『櫻男行状』)

それこそが、御母衣の湖底に沈む予定の桜であった。

「四百年を下らぬものと思う」(『櫻男行状』)

そう笹部氏が答えると、高碕が思いも寄らぬことをいいだした。