荘川桜を語り継ぐ者たち

語り部(四)湖底に沈んだ「荘川桜の里」への郷愁

林子平さん

profile:昭和2年岐阜県大野郡荘川村(現・高山市荘川町)生まれの林子平(はやししへい)さんは、豊かで美しい飛騨の大自然とともに生きてきた。その故郷が、御母衣ダム建設によって湖底へ沈む計画が持ち上がってからというもの、林さんや村の人々は、激動の日々を送ることになった(取材=2011年1月17日、岐阜市内の林さん宅にて)。

第5回湖底に沈んだ「荘川桜の里」への郷愁(5)

昭和35年の冬、光輪寺と照蓮寺、2本の桜の移植工事を目にした元荘川村の老婆から、林子平さんは、その様子を伝え聞いた。

「私は関心なかったけれども、東京へ引っ越す村の老婆が、用事があったから村へ帰り、桜が移植されるというので、見に行ったらしいんです。ひどいもんや、あれは。桜は体じゅうを荒縄で縛られ、枝も、根も伐(き)られておったと。あんなふうにして移植しても、桜は死んでしまう。雁字搦(がんじがら)めにして道路から見えるところで殺すなんて、可哀想なこっちゃ。この桜に関わった人間には祟(たた)りがくると。湖底でお経でもあげて、ようわしらと生活してくれた、ありがとうと、念仏唱えて往生させてやったほうがよかったと」。

移植当初の元荘川村の人々の冷ややかな反応は、移植事業の顧問だった桜博士の笹部新太郎氏も、こう書き残している。

「移植の結果はともあれ、私のささやかな心を、地元の人ばかりはいくらか買ってくれるものとばかり、ひそかに自惚れていた私の受け取ったものは、ただ、沈黙と嘲罵(ちょうば)の二つだけであった」(『櫻男行状』)

林さんも、移植された桜を見に行った。

昭和38年当時の荘川桜。この頃になると、伐(き)られた枝から、新たな枝が伸び始めているのが目立つようになってきた(林子平氏所蔵)。

「村を離れた1年後に帰ってきました。びっくりしました。あんな巨木を、距離にして約600メートル、高低差約50メートルも上げるのは、前代未聞のことやと思いました。現地へ行って写真を写しました。桜伐る馬鹿、梅伐らぬ馬鹿、昔からそういわれておりますから、驚いたとしかいいようがないです」

林さんが撮影した2本の桜は、ほとんどの枝が伐られ、幹には荒縄が巻かれており、その姿は、痛々しいほどだった。

しかし、桜を仔細に見てみた林さんは、あることに気がついた。

「小さな芽が、大木からちょっと出ていたんです。あの桜の幹ってのは、太いでしょ。その間から、ちょっ、ちょっと、芽が出てるんやね。すごい生命力やなと」

移植されると聞いたときには、自身の転居のことで、桜どころの話ではなく、なんの感慨もわかなかった。

「たしかに、でっかい桜が、光輪寺と照蓮寺にあったなと。その桜が、そんなに偉大な桜で、幹周りが6メートル、高さ20メートルなんて、そんなこと全然考えなくて。いつも見ていると存在感がないんですよ。桜は生活の一部でしたが、目立ってはいなかったということです」

ところが、こうして移植された2本の桜を前にしてみると、脳裡(のうり)には、様々な思い出が去来した。

「私が子供の頃は、照蓮寺の桜になるさくらんぼを、おやつがわりに食べました。紫色のさくらんぼ、小さな実のね。それが熟すと甘いんですね。それを食べて、口の周りを紫色にして。そういうことをやって家で叱られてね、おなかを壊すと言われ。おいしかったですね。今でもその味を覚えております」

今は高台へと移植された2本の桜が、寺の境内にあったときの姿も、まざまざと思い出すことができた。

転居先である岐阜市内の自宅前での林さん。取材の日は珍しく市内にも大雪が降ったが、雪国育ちの林さんは、まったく動じていなかった。

「幼い頃は、兄さん姉さんに背負われ、その背中から桜を見上げました。小学生の頃は、お寺の境内が絶好の遊び場で、桜の木の後ろに、かくれんぼで隠れるんやね。陣取りという遊びもあって、やっぱり桜の後ろが、一番いい隠れ場所でした。思春期になりますと、夕方、デートの場所としては、絶好なんですよ。国道156号線の家並みのちょっと西に入ったところに1本の桜はありました。デートは、あんまり遠いと暗くて怖いしね、ちょっと家の明かりが見えるくらい薄暗くて、みんなに見られないところだっていうことでちょうどよかったんです。デート中に先客があったりしましてね。しばらく待て、先客がおるからと。そんな話の記憶もございます」

また、林さんにとって照蓮寺は祖母の実家でもあり、思いかえせば、桜は故郷の象徴でもあったという。

「朝、草を刈ってそれを背負ったりした人達が、みんなあの桜の下を通ったわけですね。この桜の木陰で一休みしていこうと、疲れを癒す場所でもありました。さらに歳をとった人が、杖をついて、お彼岸などにお寺参りをしていました。石段に腰掛けて桜を見上げていました。花見なんてことをする習慣は私の村にはありませんでしたが、今考えれば、花見には絶好ですよね。アズマヒガンの花びらは白いんです。落花した花びらが敷き詰められていると、まるで絨毯(じゅうたん)のようですからね。あの桜の下で花見をしたら、素晴らしかったと思うんですよ。当時は、花見をして一杯やって歌をうたうなんて、そんな時代じゃありませんでした。毎日毎日、働くだけの生活でした」

そして、活着した桜は、徐々に元気を取りもどしていき、芽を吹き、枝を伸ばし、花を咲かせてゆくことになる。

林さんは、毎年のように、この桜のもとを訪れた。
そして、移植が成功した2本の桜を前に、こう思うようになった。

「この桜こそ、私たちの忘れ形見だと。私たちの故郷を語る生き証人だと」