荘川桜を語り継ぐ者たち

語り部(四)湖底に沈んだ「荘川桜の里」への郷愁

林子平さん

profile:昭和2年岐阜県大野郡荘川村(現・高山市荘川町)生まれの林子平(はやししへい)さんは、豊かで美しい飛騨の大自然とともに生きてきた。その故郷が、御母衣ダム建設によって湖底へ沈む計画が持ち上がってからというもの、林さんや村の人々は、激動の日々を送ることになった(取材=2011年1月17日、岐阜市内の林さん宅にて)。

第4回湖底に沈んだ「荘川桜の里」への郷愁(4)

壇上の藤井崇治副総裁の鬼気迫るような説得に、「御母衣ダム絶対反対期成同盟死守会(以下、死守会)」の面々は沈黙した。
そして、藤井の話が終わると、死守会会長の建石福蔵氏が、「しばらく席を外して別室で休憩してください」と藤井に依頼した。

藤井が退出してしばらく、対話を続けるか、もしくは、いままでどおり決裂させるか、賛否両論飛びだした。
そこで建石氏は、話し合いに入る前に、相手側から「覚書」をもらうという、一つの提案をした。
これにもまた賛否両論あったが、最後には、建石氏に判断を一任するかたちでまとまった。

総会の会場を一時退出した建石氏は、覚書の草案作りのために学校の校長室へと移動した。
書記長の若山芳枝氏とともに、林子平さんも校長室へと入って行ったという。

「我々にとっては、ここに住むのが一番幸福なんだけど、現在以上に幸福になる方策を考えてもらえる、その証が欲しいと。その覚書の草案を、そこにいた校長が作ることになったんです。高山から来ていた校長はおもしろい人で、『書けっていわれれば書きますよ、しかしあんたが直しなさい』と、私を頼るんやね。あんたは地元のことをよく知っておるからと。それで、校長が書いたのが、極めて抽象的な文章でした。こんな抽象的でいいですかと私はいいましたけど、『しょうがない、具体的に書く方法がない』と」。

そうして完成したのが、いわゆる「幸福の覚書」の草案であった。

死守会解散式の日付「昭和34年11月22日」と書かれたアルバムには、「......この長い闘争の歴史を いつの日? 誰か公開の日もあるだろう......」の文字が(林子平氏所蔵)。

《御母衣ダムによって、立退きの余儀ない状況に相成ったときは、貴殿方が現在以上に幸福と考えられる方策を、我社は責任を以って樹立し、之を実行するものであることを約束する》

この「幸福の覚書」提示後、誠意ある交渉が続けられ、頑(かたく)なに対話を拒絶していた死守会も、態度を軟化させていった。

やがて、昭和34年に入ると、補償交渉が成立して新天地へと移ってゆく人々も多くなっていった。
そこで、会員がなお相当数現地に残っているうちに、会員すべての補償交渉が円満に妥結したという証として、死守会の解散式を行おうという運びになった。

昭和34年11月22日、死守会の解散式が行われた。

式には、死守会側から案内状をもらった藤井(総裁に就任)と、元総裁の高碕達之助も列席した。

解散宣言や会長挨拶のあと、ダム建設協力に対する謝辞を、御母衣建設所次長の檜垣順造が述べた。
そして、壇上で、建石氏と檜垣がかたい握手を交わすと、会場を埋めていた村の人々から、堰(せき)を切ったように嗚咽(おえつ)が漏れた。書記長を務めて奮闘してきた若山氏も、その一人だった。

「電源開発株式会社の誠意を信じ、総裁殿をはじめ幹部役員各位の信義に依拠し涙をのんで墳墓の地を湖底に沈めることの不幸や、将来の生活に対する不安が生れるであろうことも、時にはやむなしと覚悟したのでありました」(『ふるさとはダムの底に』)

解散式に出席していた林さんは、ここでの高碕の言葉が、心に残っているという。

「『私の最後の仕事になったけれど、本当に村の人とこれだけのおつきあいができたということは、私にとって大変幸福だ』、そう高碕さんはおっしゃられていました。そして、叔母の送辞を素晴らしかったと褒めてくださっていました。その解散式の直後に、高碕さんが光輪寺へ行って見たのが、あの桜なんです」

光輪寺での、高碕と、一本の老桜との出会い。
くしくも、その寺の境内は、村の人々がダム建設の噂を耳にして、初めて集まった場所でもあった。

「叔母と、光輪寺の住職と、高崎さんと、檜垣さんかな。光輪寺の桜を見られて。そのとき、『私の仕事はこの桜を助けることだ』と、高碕先生がおっしゃったということですね」

光輪寺と照蓮寺の2本の桜が移植されることが決まっても、林子平さんは、最初は感慨がわかなかったという。

そのときの思いを、高碕はこう書き留めている。

「私の脳裏には、この巨桜が、水を満々とたたえた青い湖底に、さみしく揺らいでいる姿が、はっきりと見えた。この桜を救いたいという気持が、胸の奥のほうから湧き上がってくるのを、私は抑えられなかった」(『文藝春秋』第40巻第8号)

しかし、その後、光輪寺と照蓮寺の2本の桜が移植されることが決まっても、林さんは、感慨がわかなかったという。

「移植の話は、私は役場の人から聞いたんだったかな。でも、正直いえば、私は、すぐに学校を変わらなければいかんと、私のような田舎者が生き馬の目を抜く都会に行って先生ができるかと、そういった心配ばかりでね。自分の先行きのことにばかり頭を奪われ、桜どころではなかったんです。私同様、多くの人々が、転居の騒ぎで浮き足立っておったと思いますよ」

新天地で生活を始めるため、村の人々はそれぞれ、湖底に沈むことになる故郷を去っていった。
林さんも、桜の移植工事を見ることもなく、叔母とともに岐阜市へと転居した。
林さんが次に桜と再会したのは、死守会の解散式からおよそ1年が過ぎてからであった。