荘川桜を語り継ぐ者たち

語り部(四)湖底に沈んだ「荘川桜の里」への郷愁

林子平さん

profile:昭和2年岐阜県大野郡荘川村(現・高山市荘川町)生まれの林子平(はやししへい)さんは、豊かで美しい飛騨の大自然とともに生きてきた。その故郷が、御母衣ダム建設によって湖底へ沈む計画が持ち上がってからというもの、林さんや村の人々は、激動の日々を送ることになった(取材=2011年1月17日、岐阜市内の林さん宅にて)。

第6回湖底に沈んだ「荘川桜の里」への郷愁(6)

昭和37年6月12日、御母衣湖畔にて、水没記念碑除幕式が行われた。

式には、元総裁の高碕達之助、総裁の藤井崇治、そして、桜の移植にたずさわった笹部新太郎氏や丹羽政光氏らも列席した。

昭和38年の御母衣湖。すっかり湖底へ沈んでしまった故郷を偲び、林子平さんは、思わず涙を溢れさせたという(林子平氏所蔵)。

「国づくりという大きな仕事の前に父祖伝来の故郷を捨てた方々の犠牲は今、立派に生かされています」

そう挨拶した高碕と、それを聞いていた元村民たちは、ともに目頭を押さえたという。

「その後、私が不思議に思うのは、移植された照蓮寺の桜の前に立って湖面を見てると、沈んでしまった故郷が、見えてくるように思われたんです。あの高台から下りてゆくと、私の家がすぐなんです。あそこに家があって、あのへんが居間で、あのへんがトイレで、なんてね。あそこには叔母の家があって、稲の脱穀やったなと。あの道を通って、毎日学校へかよったなと。あそこに田んぼがあって、畑があったなと。この湖底には、自分の生活の場があったんだと。そういうことを思いながら、じっと湖面を見ておるとね、涙が出てくるんです。不思議でしょう」

湖面を見つめながら、林さんは、涙を止められなかったという。

「別に悲しいこともないのに、涙が出てくる。おかしいなあと。なんの涙かわからんね。これが故郷に対する惜別の気持ちかなあ。みんな友達が、林先生が泣いとる泣いとる、っていいよりました」

この頃、岐阜市内の中学校へ異動していた林さんは、叔母の若山氏とともに、同市内へと移り住んでいた。
郷愁の思いは、村を離れた人々、すべての胸にあったのではないかと林さんはいう。

「岐阜市内へ来て、ときどき村の人に出会うと、やっぱり田舎の生活がいいと。特にご老人は、故郷に対する郷愁を強く感じると。柳ケ瀬あたりで同郷のご婦人同士がばったり会ったとき、田舎弁で、『おりょりょりょりょりょりょ』というらしいんです。するともう一方も、『おりょりょりょりょりょりょ』という。『ありゃ、生きとったかよ』『わりゃ、元気だったかよ』と。そして喫茶店に入って話す話題が、全部、村の話だったらしいです。あのとき山で栗を拾っただとか、そういう他愛ない話でしょうね」

光輪寺と照蓮寺の桜は、総裁の藤井によって「荘川桜」と命名された。
そして、2本の荘川桜は、やがて、満開に花を咲かせるようになった。
現在では、ゴールデンウィークあたりの開花時期ともなると、大勢の観光客が訪れ、桜を愛でるとともに、移植の背景にあった物語を追想している。

現在の荘川桜の写真を手にする林子平さん。「残念なことですが、移植当時の荘川桜を知る人が本当に少なくなりました」。

「立派な方々に桜を移植していただいて、本当によかったと。あの桜は大事です。だから、みなさんに見ていただきたいと、そう思っています」

今でも荘川桜が、J-POWERによって手入れされていることにも、林さんは感銘を受けているという。

「ふつう顕彰碑なんかは一時的に騒がれても、その後は忘れ去られてゆきます。しかし、あの桜の、近くに歌碑なんかもありますけども、本当にいい言葉が書いてあります。あれは廃(すた)らんですね。素晴らしいです」

《ふるさとは 湖底となりつ うつし来し この老桜 咲けとこしへに》

歌碑には、高碕が詠み、藤井が筆をとった歌が、刻まれている。

「発電所の所長さんが、『この桜を枯らしたら私はクビや』と、そういうくらい大事にしてくれているらしいです。ありがたいことですよね」

林さんは、今でも毎年のように、故郷を訪れている。

「年によっては鷽鳥(うそどり)というのが大群で来ると、花実を食べてしまって、花が咲かないんですよ。でも、たとえ花があまり咲かなくても、毎年のように桜を見に行っています」

荘川桜と、今は湖底にある村に暮らしていた自分たちの物語を、林さんは、後世の人々にまで永(なが)く語り継いでいってもらいたいと願っている。

「あの桜が、どれだけ大事な桜かってことを、今の若い人に、教えたり、伝えたりする機会は少ないですね。私は教員でしたけど、自分の子供に話しても、あまり興味もないみたいだし、伝承することは難しいです。特に若い人にはね、インターネットのホームページなどを通じて、関心持ってもらえるようにしたいです。そうして、いつまでも、語り継いでいってほしいですね」