荘川桜を語り継ぐ者たち

語り部(四)湖底に沈んだ「荘川桜の里」への郷愁

林子平さん

profile:昭和2年岐阜県大野郡荘川村(現・高山市荘川町)生まれの林子平(はやししへい)さんは、豊かで美しい飛騨の大自然とともに生きてきた。その故郷が、御母衣ダム建設によって湖底へ沈む計画が持ち上がってからというもの、林さんや村の人々は、激動の日々を送ることになった(取材=2011年1月17日、岐阜市内の林さん宅にて)。

第3回湖底に沈んだ「荘川桜の里」への郷愁(3)

昭和28年10月27日の朝、東京駅に到着した「荘白川村合同陳情団(以下、陳情団)」一行は、襷(たすき)をかけて駅から行進していった。
林子平さんも、その中の一人であった。

「高碕達之助総裁に会わせてくれっていってね、『御母衣ダム絶対反対』っていう襷をかけて電源開発(J-POWER)本社へ行きました。そこで会社の人と、総裁に会わせる、会わせないで大変もめて、激しい罵声が飛んだりもしました」。

こうした激しいやり取りの後、総裁の高碕達之助が現れると、その場は静かになった。

「ようやく高碕さんが出てこられたわけね。そしてお会いして、じかに高碕さんからいろいろ聞くと、その言葉は立派でした」。

高碕達之助初代総裁の言葉を「立派だった」という林子平さん。そして、昭和31年5月8日、物語は、一つの転機を迎えることになる。

下記が、林さんの叔母であり、「御母衣ダム絶対反対期成同盟死守会(以下、死守会)」書記長の若山芳枝氏が残した、このときの高碕の言葉である。

「日本の国の資源は雨と高い山である。バケツ一ぱいの水を山の上に持っていくには相当の努力がいる。上から落とすことは容易である。雨を降らせてくれる神様によってその雨を利用して電力をおこし、そのために国の産業が発展する。雨を無駄にすれば河川は洪水となる。雨は利用すればよいもの、捨てておけば悪いものだ」(『ふるさとはダムの底に』)。

さらに、高碕はこう続けている。

このときの言葉には、のちに荘川桜の移植を発案する高碕の、哲学が表れている。

「皆さんの苦痛は金銭のみではかえられない。第一に故郷を失い、すべてを無くされることについてこれをどうしてあげるかということで私も頭を悩ましている。多数の人たちのため感情を殺しなさい、と言えぬところが一番苦しむ点である。私も六十八になりこの仕事は最後の国に対する御奉公だと思っている」(『ふるさとはダムの底に』)

この高碕の言葉を聞いた若山氏は、こう書き残している。

「この総裁のコトバには不思議な力があった。先程とは全く打って変わった何かしら温い空気が死守会員の胸に流れ始めたのである」(『ふるさとはダムの底に』)

林さんも、高碕の言葉に感銘を受けたという。

左から、若山芳枝氏、高碕達之助、建石福蔵氏。写真は、補償交渉成立後の昭和37年撮影(林氏所蔵)。

「ダムってものは、お金儲けのためにつくることも、もちろんある。日本は工業立国であり、外国に負けない立派な国にならなきゃいかんと。電力を起こして、さらに工業が発達するようにと。しかし、それもあるけども、天の恵みである雨の流れを止めて、下流で洪水が起きないようにもできる。神様は、私どもに、水というすごいお宝を与えてくださったということなんです。それでも私たちはまだ、ダム絶対反対、でした。しかし、そののち、和解が成立してダム完成後に高碕さんが亡くなられたあとは、私たちで、7回忌から27回忌まで年忌法要をやっています。立派な人でした、高碕さんは」。

まだ終戦後の復興途上にあった日本の電源確保という目的も、林さんたちは理解できないわけではなかった。
しかし、故郷を守りたいという純然たる思いを、おいそれと放棄してしまうわけにはいかなかった。

こののち死守会は、直接対話すら拒むようになっていった。
そして、歳月が流れ、膠着状態が続いていた昭和31年3月4日、突如、荘川村に、副総裁の藤井崇治が現れ、死守会を訪問したのである。

「皆様に是非とも計画にご協力をお願いしたい」

集まった人々に対し、藤井は極めて丁重に説得をくりかえした。

だが、死守会会長の建石福蔵氏は、こう返答した。

「一言申し上げておくことがある。それは万一、"計画を無理押しされる場合は、窮鼠猫を噛む"というコトワザ通り、死守会としては、あくまでも、玉砕精神で立向うより方策はない」(『ふるさとはダムの底に』)

それでも藤井は粘り強く交渉を続け、同年5月8日、死守会総会での会見の約束をとりつけた。

その当日、藤井の来訪は午後1時半の予定だったが、午前9時から死守会の面々が集まっていた。

「一行が着席するといつの間にか、敵愾(てきがい)心が湧き出て来るのを押さえることが出来ず、大勢の死守会員で埋った会場には、ただならぬ殺気が感じられたほどであった」(『ふるさとはダムの底に』)

この日、壇上に一人で上がった藤井の言葉を、林さんは忘れないという。

「なんとかダムをつくらせてくれと、みなさんから承諾いただくまで、私は1週間でも10日でも動きませんと」

そして、藤井はこう続けた。

「私も命をかけて参りました」

会場は、静まりかえった。
藤井の覚悟を前に、死守会の面々からは罵声も飛ばなかった。

「その説得ぶりは何の飾気もなく、腹の底から一言、一言、吐き出しているように続けられたのである」(『ふるさとはダムの底に』)

藤井の説得を聞いていた林さんは、こう述懐する。

「死守会は、団結が強固になっていました。けれども、秋になったら熟れた柿が落ちますわね。ちょうど、藤井さんが来たそのとき、熟れた状態になっておったのだと思います」。