荘川桜を語り継ぐ者たち

語り部(四)湖底に沈んだ「荘川桜の里」への郷愁

林子平さん

profile:昭和2年岐阜県大野郡荘川村(現・高山市荘川町)生まれの林子平(はやししへい)さんは、豊かで美しい飛騨の大自然とともに生きてきた。その故郷が、御母衣ダム建設によって湖底へ沈む計画が持ち上がってからというもの、林さんや村の人々は、激動の日々を送ることになった(取材=2011年1月17日、岐阜市内の林さん宅にて)。

第2回湖底に沈んだ「荘川桜の里」への郷愁(2)

御母衣ダムの建設計画が総理府(現・内閣府)より告示されたのは、昭和27年10月18日であった。
それより約4カ月も先んじた同年6月23日、荘川村(現・高山市荘川町)中野地区の光輪寺境内に、村の人々213人が集まり、「第1回ダム反対地区住民大会(以下、住民大会)」が開かれた。

くしくも、会場となった光輪寺の境内では、まだ移植されることなど知る由もない桜の老木が、村の人々の動向を、ものいわず見守っていた。

ダム建設に反対する村の人々の動きは、極めて迅速であった。
住民大会において、宣言文と決議文を作成、委員長と委員を選出、そして反対者名簿と陳情書を作成するなどした。
林子平さんの叔母・若山芳枝氏も参加し、若山氏の夫である若山仁平氏が委員に選出された。

当時の資料や写真を眺めながら、取材に応じてくれた林子平さん。「故郷を守りたい、その一心で、みんなが必死でした」。

「若山家は荘川村中野地区の名家でしたから、活動では中心的な存在になっていました」。

住民大会で反対の姿勢を表明した人々は、まずは陳情書を、村長や県知事、県選出の各議員、建設大臣(現・国土交通大臣)、通産大臣(現・経済産業大臣)などに提出した。陳情書には、耕地整理組合が中心となって長年の苦労の末に新たに開墾した稲田への思いなども、切実に綴(つづ)られていた。

「巨額の工費を以って延長八キロにわたる用水路を開さく、四十六町歩余りの美田を開墾し、小開墾事業によって五町歩余り開田して耕地を増し、採草地、薪炭をとる山林にも恵まれ、現在、他に比類のない安楽土として住みうる所となったのであります」(『陳情書』)

しかし、陳情が受け入れられずに御母衣ダムの建設計画が告示されると、村の人々は反対姿勢を激化させていくことになる。
昭和28年1月13日の住民大会に参加した174戸にて、「御母衣ダム絶対反対期成同盟死守会(以下、死守会)」を結成。その書記長に、林さんの叔母である若山氏が選出された。
死守会による反対運動が、ここに始まった。
まず、中野地区北端の一ノ宮神社には「水魔退散祈願」と書かれた2メートルほどの木柱が立てられ、雨の日も風の日も、朝早くから住民が輪番で参拝祈願が続けられることが決まった。
当時の様子を林さんは、「徹底的だった」と述懐する。

「困難があるほど、団結力が増していくということですからね。水魔退散祈願をやらないかんと。調査の人とも、いっさい口をきいたらいかんと。山にボーリング調査に来ると、威嚇のために猟銃を撃つんです。それはびっくりして戻りますよね。しかし、発砲行為は罪になるのでやらなくなりましたけど、それくらい徹底的に反対したんです」。

祈願については、若山氏が当時の人々の思いをこう代弁している。

「祈願をすませ、家路に急ぐ人たちの顔には、いくらかの安らぎが見えるのだった。「かならず神の御加護によりダム中止が発表されるだろう」こう考えると、手足の凍る寒さもいつしか忘れ、この鎮守の森で、うま酒を汲みかわす日のことが目に浮かんできた」(『ふるさとはダムの底に』)

さらに、「中野婦人クラブ」の提案で「ダム絶対反対」と文字が書かれた木札を各戸の玄関に掲げたり、バス停留所近くの家々には間口いっぱいの横断幕を張ったりと、反対を訴え続けた。

一方、昭和27年秋の時点で、10戸余りがすでに補償交渉に臨んだという噂が村にひろがっていた。実際には11戸がダム建設に理解を示し、さらに34戸が死守会を退会して補償交渉に臨んだ。

むろん、林さんも、ダム建設には反対だったが、教職に就いていたことで、個人の意見を公にはできなかったという。

「ダム絶対反対 死守会」と文字が書かれた木札が、各戸の玄関に掲げられた(林子平氏所蔵)。

「私はね、ダム反対、ダム促進を、公には出せませんでした。学校には、両方の家の生徒がいました。人権委員会が調べに来たんです。先生のなかで差別している者はいないかと。促進派の子どもが学校に行きたくないといいだしたと。そういう問題がおきました。学校の先生は中立です。しかし、私の腹の中は、絶対反対でした」。

そして、「荘白川村合同陳情団」が組織されると、東京まで赴いての国会議員などへの陳情報告が行われた。林さんも、昭和28年10月27日に上京している。

「みんなで上京したんです。夜行列車で名古屋を通って行くんですが、夜景のネオンが、ものすごく綺麗なんです。これはなんやと、電気の無駄遣いやと。こんな無駄遣いするような電気をつくるために、私たちの村に、絶対にダムをつくらせん!」

不眠の夜行列車の中で、陳情団の人々は決意を新たにしていた。