荘川桜を語り継ぐ者たち

語り部(四)湖底に沈んだ「荘川桜の里」への郷愁

林子平さん

profile:昭和2年岐阜県大野郡荘川村(現・高山市荘川町)生まれの林子平(はやししへい)さんは、豊かで美しい飛騨の大自然とともに生きてきた。その故郷が、御母衣ダム建設によって湖底へ沈む計画が持ち上がってからというもの、林さんや村の人々は、激動の日々を送ることになった(取材=2011年1月17日、岐阜市内の林さん宅にて)。

第1回湖底に沈んだ「荘川桜の里」への郷愁(1)

「五穀豊穣のユートピアでした」

昭和2年に岐阜県大野郡荘川村(現・高山市荘川町)で生まれた林子平さんは、故郷のことをそう称する。

「秋の日に、朝起きて、家の前に流れる川の対岸を見ると和田山は、真っ赤になって満山(まんざん)紅葉しているんです。その景色を見て、校長さんにいってそろそろ今年も写生大会をやるかと。当時は、あれだけの紅葉を眼にしても、それくらいしか感じませんでした。しかし、今、岐阜市内に暮らしてみると、あんなに素晴らしい景色はなかなか見られません。ガソリンを使ってでも見に行く価値があると、今になって、ありがたみを痛感しています」。

子供の頃の林さんは、川でアユやイワナなどの魚を獲ったり、山でクリやクルミなどの木の実を拾ったりして遊んだ。雪に閉ざされる冬は長く厳しいが、その分、草木が芽吹く春が待ち遠しく、実り多き秋が名残惜しく、飛騨の大自然に抱かれるようにして成長していった。

荘川村は、標高約700メートルの高地で、冬は積雪量が多く、平坦な土地が少ない。そんな山あいのこの地域は、とかく不毛で貧困と思われがちだったが、実際は違った。

荘川村には、合掌造りの家々が散在していた。稲作や林業などで潤っていた村は、そこで暮らす人々にとって安住の地のはずであった(林子平氏所蔵)。

「どうしたら収穫量が上がるのか、若山の叔母が中心となり、保温折衷苗代という寒冷地の農法を採用しました。稲の種まきをした後で、昔はビニールなんてなかったですから、土の上に油紙をかぶせ、日光の保温力を用いて育苗をするんです。いまでは多くの場所で見られる農法ですが、最も早く採用したのが、私たちの地域でした。昔、叔母から、収穫量を向上させたことで県から表彰された際の賞状を何枚か見せてもらったことがありましたよ」

「若山の叔母」と林さんがいう人物は、若山芳枝氏、その人である。

のちに結成される「御母衣ダム絶対反対期成同盟死守会」の書記長を務めることになる若山氏は、明治32年、荘川村生まれ。地元の小学校に2年間奉職したのちに神奈川県で看護師となり、神奈川県の県立病院の看護師長を務めるなどした人物である。昭和3年に帰郷してからは農業に従事し、前述のような稲作の研究や実践、さらには「中野婦人クラブ」を結成し、その会長として、農村婦人の生活向上にも尽力した。

その若山氏は、愛する故郷の春を偲ぶ美文を残している。

「やがて山の中腹に春かすみがたなびき、田が田が山の草刈場で春を待ちかねたワラビや沢ゼンマイが土の中から人を招くような小さな手を出すと、近くのササヤブでは熊笹の子が落葉をソッと持上げた。これはまるであたりの気配を気づかっている人なれしない山国の子供たちのようであった。豊富な山菜の味や幼いころ、冷たい雪どけ水の中でセリをつんだふるさとの情景は今でもなつかしい想い出となっている」(『ふるさとはダムの底に』)

都会で看護師長を務め、純粋な郷土愛をもった叔母の影響もあり、林さんは高山市内の旧制中学校を卒業すると、東京の大学へと進学した。将来は故郷の発展のために尽くそうと、卒業後に帰郷するつもりで東京にて学んだ。

「当時、村では中学校を卒業し、山仕事をやれと親からいわれたら、みんな『ハイ』でした。ところがうちでは、叔母も含めて理解がありましたから、村から20年ぶりに私は大学へ行かせてもらえたんです」

大学2年生のときに、林さんは東京で終戦を迎えた。見渡す限り焼野原で、友人とバラックに住みながら大学へ通い、2年後に教員免許を取得した。

「東京にいた当時は、本当の意味での故郷のよさっていうものは、そんなに感じていませんでした。ただ、食糧難の時代でしたから、帰郷すれば、白いご飯も、お餅も食べられるな、田舎はいいな、そんな程度でした」

どこまでも平穏かつ豊潤だった故郷・荘川村(現・高山市荘川町)での思い出を、林子平さんは語ってくれた。

戦時中も比較的豊かだった村は、戦後、さらに豊かになった。
若山氏を中心とした農業振興計画は奏功し、戦前の平均反収1石6斗に対し、4石前後もの収穫を上げる農家もあった。米収の他にも、牛馬の生産地として知られた畜産業、さらには木材加工、薪炭、養蚕なども盛んで、村人たちの生活には潤いがあった。しかも古来より盛んな林業は、戦後の復興期にあって著しく需要が伸び、慢性的に人手が足りないほどだった。

「この地区はまた見事な国有林があってそこの山仕事は住民たちの労働力を絶えず求めてやまなかった。働きさえすれば現金収入は容易に得られる」(『ふるさとはダムの底に』)

林さんが中学校の社会科と英語の教鞭を執っていた当時の荘川村は、人口3,926人、世帯数739戸(昭和25年国勢調査)。空襲によって焦土と化した全国各地の都市部とは別世界の村には、どこまでも平穏かつ豊潤な営みがあった。

そんななか、昭和27年6月、ちょうど光輪寺と照蓮寺の桜が散り、若葉が茂り始めた頃、荘川村に高堰堤(こうえんてい)式の発電所が建設されることが噂となった。

「ひと月遅れの桃の花はことしも桜と同時に咲いて仲よく散っていったある日、この平和郷に思いもよらぬ一大事がおこったのである」(『ふるさとはダムの底に』)

噂を耳にした林さんも、驚きを隠せなかったという。

「国が大きなダムをつくると、そういう噂があったので、こりゃ、アカンと」

長閑(のどか)だった村が、一転、大騒ぎとなった。