荘川桜を語り継ぐ者たち

語り部(参)伝説の庭師を祖父に持つ3代目の「桜守」

丹羽英之さん

profile:昭和36年愛知県生まれの丹羽英之(にわひでゆき)さんは、豊橋市の造園会社「庭正造園(以下「庭正」)」の植木職人・丹羽政光氏を祖父に持つ。昭和35年に荘川桜の移植に携わった祖父だったが、その4年後に不治の病で帰らぬ人に。それから時は流れ、現在、J-POWERの依頼を受けて荘川桜の手入れを担当しているのが、「庭正」を継いだ英之さんである。(取材=2010年12月9日、「庭正」にて)

第2回伝説の庭師を祖父に持つ3代目の「桜守」(2)

丹羽英之さんが大学での卒業論文のテーマに選んだのは、植木職人だった祖父・丹羽政光氏と、父・丹羽克己氏が移植に携わった、『荘川桜について』だった。
昭和35年の植樹時から、英之さんが調査を始めた当時まで、およそ四半世紀の間、荘川桜がどのように成長を遂げていったのか。また、御母衣の周辺環境、土壌、風通し、降雪などの分析や、枝の腐食部分についても精細に調べていった。

荘川桜の移植工程について、英之さんが最も驚いたのが、枝のほとんどを伐(き)ってしまったことだった。

「あそこまで枝を伐った祖父の決断には、とても驚きました。通常の樹木でしたら、根を伐るならば枝も伐らなければならないというのは常識でしょうが、移植したのは、2本とも桜ですから。桜の場合、枝を伐るとそこから樹木全体が腐ってしまうというのは、私も大学で学んだことでした」

現在の英之さんが移植に携わるとしたら、と質問すると、かぶりを振りながらこう答えてくれた。

祖父と父の会社でもあった「庭正造園」を継ぐことを決意した丹羽英之さん。祖父の弟子や、父の同僚だった人々から多くを学んだという。

「いくらなんでも、あそこまで伐るという発想は、出てこないんじゃないかと思いますね」

荘川桜についての卒業論文をまとめてゆく過程で、まったく記憶にない祖父や、その祖父を追うようにして亡くなってしまった父が、より身近に感じられるようになった。

「祖父は、自分の持っている知識や経験を、荘川桜の移植に、すべて注ぎこんだのではないかと感じました。移植の仕事をしているときに発病したのかどうかはわかりませんが、もし自分の体が駄目になっても、自分は死んでもいい、この荘川桜だけは生かしたい、きっと祖父は、そんな意気込みでやっていたんだろうなと。父は祖父を手伝い、その後も造園業をしていましたが、荘川桜移植ほどの仕事には巡りあっていなかったと思います」

論文をまとめあげて大学を卒業した英之さんは、公園や街路樹を管理する仕事を請け負っている東京の会社へと就職した。その後、京都の庭園でも学びたいと思いながらも、故郷の豊橋へと帰り、祖父と父の会社でもあった「庭正造園(以下「庭正」)」を継ぐことを決意した。

「もっといろんなことを学びたかったんですが、「庭正」では兄が経理をしていて、母がその補助をしていて、大変だから戻ってこいといわれていましたので、24歳のときに帰郷しました。そこで私は、主に官庁関係の仕事をしはじめました」

祖父の頃とは、時代が違った。
大規模ダムの周辺の植樹や芝植えなどの仕事はほとんどなく、都市部の公園の造林や街路樹の管理が主だった。それらの現場で職人たちに指示しながら、写真を撮影して官庁への提出書類を作ったりする現場監督を英之さんは務めていた。

「祖父はもちろんのこと、父が現場で働いている姿も見たことがなかったものですから、当時から「庭正」で働いていた方々や、祖母などから祖父や父の話をしてもらっても、なんかピンときませんでした。「庭正」から独立された方々が、たまに仕事がないときにうちへ来て一緒に働いてくれたことで、祖父の弟子であり、父の同僚だったその方々から、多くを学ぶことができました」

卒業論文執筆のために御母衣を訪れた丹羽英之さんは、移植当時とは比べものにならないほど成長した荘川桜に驚いたという。そして後々、自身がその手入れを担当することになる。

ところで、荘川桜の移植は、現在の場所へと引き上げて植樹しただけでは終わっていない。

荘川桜移植の発案者である、J-POWER初代総裁の高碕達之助は、水没記念碑除幕式で荘川桜の活着を眼にした2年後の昭和39年、79歳にしてこの世を去っている。
その高碕の依頼により荘川桜移植を指導した笹部新太郎氏に宛てた書状が、高碕の絶筆となった。
2通あったとされる書状のうち、最後のものには、2本の桜の愛称を笹部氏と協議して取り決めておきたいと記されていた。それより以前の書状の内容は、下記のようなものであった。

「御母衣の桜はおかげにて三年目を迎えへし由此際永久に面倒を見てもらう篤志家を選定いたし置き度く何れ不日帰阪の節御面会の機を得度くとりあへず御挨拶し候」(『櫻男行状』より)

病床でまで、高碕が2本の桜のことを心配していたことがうかがえる。

しかし、あれほどまでに巨大な2本の桜を、篤志家といった個人の力で守ってゆくのは難しい。
移植以降今日まで、J-POWERが御母衣発電所の運転・保守とともに荘川桜の日常の手入れを続けている。
そして、実作業の一部を「庭正」が担当している。

「不安もありましたけど、荘川桜は、祖父と父だけでなく、多くの方々が残してくださった宝みたいなもの。自分の代で、それを枯らしちゃいけないなと」

祖父と父が移植に携わった荘川桜を、英之さん自身が、昭和61年より手入れしているのだ。