荘川桜を語り継ぐ者たち

語り部(参)伝説の庭師を祖父に持つ3代目の「桜守」

丹羽英之さん

profile:昭和36年愛知県生まれの丹羽英之(にわひでゆき)さんは、豊橋市の造園会社「庭正造園(以下「庭正」)」の植木職人・丹羽政光氏を祖父に持つ。昭和35年に荘川桜の移植に携わった祖父だったが、その4年後に不治の病で帰らぬ人に。それから時は流れ、現在、J-POWERの依頼を受けて荘川桜の手入れを担当しているのが、「庭正」を継いだ英之さんである。(取材=2010年12月9日、「庭正」にて)

第1回伝説の庭師を祖父に持つ3代目の「桜守」(1)

水没記念碑除幕式に参列した丹羽政光氏(左)。紅白の幕で飾られた荘川桜を、高碕達之助(中)、笹部新太郎氏(右)とともに見守っている。

荘川桜が移植された約1年半後の昭和37年6月12日、活着した桜のすぐ近くに建てられた水没記念碑の除幕式が行われた。

式には、J-POWER初代総裁の高碕達之助、移植を指導した笹部新太郎氏、そして、移植に携わった造園会社「庭正造園(以下「庭正」)」の丹羽政光氏も参列した。紅白の幕で飾られた荘川桜を、政光氏は、感慨深げに見守っていた。

その一年前、一人の男児が、産声を上げた。
政光氏には、植木職人としての弟子でもあった、息子の丹羽克己氏がいた。むろん克己氏も、政光氏の助手として荘川桜移植を助けている。
その克己氏が授かった息子、すなわち政光氏の孫が、丹羽英之さんである。

英之さんに、祖父や父との思い出を訊(き)いてみた。

「父が若い衆たちから『大将』と呼ばれていて、怒鳴ったりはしていないんですけど、結構厳しかったのでしょうか、みんなを泣かせていたことを憶(おぼ)えています。そんな父の記憶はあるんですが、残念ながら、祖父のことは、まったく憶えていません」

祖父の記憶がなく、父の記憶が朧(おぼろ)げなのには、理由がある。
荘川桜の移植を終えた政光氏、克己氏の親子は、ともに急逝している。
まず、政光氏が胃癌を患い、水没記念碑除幕式から3年後の昭和40年に他界してしまう。英之さんがまだ3歳のときのことだった。
さらに5年後の昭和45年、政光氏の後を継いで「庭正」の棟梁となった克己氏が、交通事故に遭って世を去っている。英之さんが説明してくれた。

「豊橋市内の畑に、形のいい松が何十本か植わっているところがあり、それを道路から眺めているときに、自動車にはねられたと聞いています。父亡きあと、私は周囲から頑張っていけといわれたと思うんですけど、まだ9歳のときのことでしたからね」

父を亡くして間もなくの英之さんの作文が、先日、自宅で見つかったという。

「将来は家業を継ぐしかない、そんなようなことを書いていました。そうした責任感が当時からあったのか、自分では記憶にないですが、その頃から漠然と、自分が頑張らなければ、そう思っていたのかもしれないですね。苦労している母の姿も見ていましたからね」

大学を選択するにあたり、作文を書いた頃からの意志を、英之さんは貫いている。
東京農業大学へ進学し、人と自然の環境創成に貢献する専門技術を造園学科で学んだ。
そして、大学卒業を間近に控えた英之さんは、卒業論文をまとめる作業にとりかかった。
テーマは、自分が生まれる少し前に、祖父と父が移植に携わった、『荘川桜について』だった。

「東海一の植木職人」と称された祖父と、その弟子を父にもつ、丹羽英之さん。一徹者で険しい顔をしていることが多かったといわれている2人とは異なり、インタビュー中の英之さんは、柔和な笑顔で応えてくれた。

「荘川桜のことは、祖母など周囲の人からうっすらとしか聞いていませんでした。祖父と父が仕事で移植のお手伝いをしたというぐらいしか知らず、移植についてや、桜そのものについては、ほとんどなにもわからないところから調べることになりました。当時はまだ荘川桜を実際にこの眼で見たこともなく、ほんとうに漠然と、御母衣へ向かったのが始まりでした」

何の知識もないままに、祖父と父にとっての思い出の地、御母衣へと足を向けた。
そして、約四半世紀前に移植された2本の桜を見たとき、英之さんは驚きを隠せなかったという。
移植時にほとんどの枝が伐(き)られていた老桜は、英之さんが初めて見たときには、すっかり枝振りを甦らせていた。

「こんなに巨大な木をどうやって動かしたんだろうと、疑問に思ったのが第一印象でした。現代なら運べる重機があるのかもしれませんが、昭和35年当時ですからね。ほんとうに不思議でした」

植樹について大学で専門的に学んできた英之さんだったが、樹高約20メートル、幹周り約6メートル、重量も光輪寺の桜が35トン、照蓮寺の桜が38トンという荘川桜は、それまで見たこともないほどの桁外れの大きさで、どうやって移植されたのか想像もつかなかったという。

「海外でもまったく前例がないほどの移植でしょう。しかも桜ですから、荘川桜移植というのは、ほんとうに凄い仕事だったんだなと痛感しました」

そして、論文執筆のため、荘川桜移植についてや、その成長過程について調べていった英之さんは、さらに驚愕する事実につきあたった。