荘川桜を語り継ぐ者たち

語り部(弐)職人魂で奇跡の大移植を成しとげた庭師たち

内藤重明さん

profile:昭和6年愛知県生まれの内藤重明(ないとうしげあき)さんは、昭和20年代半ばに豊橋市の造園会社「庭正造園(以下「庭正」)」に入社。「東海一の植木職人」と呼ばれた丹羽政光氏に弟子入りした。昭和35年、親方とともに、根を掘り起こす作業から活着させるまで、荘川桜の「奇跡の大移植」に携わった。(取材=2010年12月9日、庭正にて)

第2回職人魂で奇跡の大移植を成しとげた庭師たち(2)

親方の性分を、一番弟子は知り抜いていた。
荘川桜の移植作業を引き受けるという、丹羽政光氏の決断を耳にした内藤重明さんは、「やっぱり」と思ったという。

親方の性分を、一番弟子は知り抜いていた。
荘川桜の移植作業を引き受けるという、丹羽政光氏の決断を耳にした内藤重明さんは、「やっぱり」と思ったという。

「どんな仕事でも、『無理だ』という言葉を、親方から一度も聞いたことがなかったんです。頼まれたら、お客さんの希望に添うように、必ず受けていました。1反も2反もある広い庭をやったこともあったし、10トンもある庭石を運んだこともありました。親方は、なにも恐れなかったです。誰もが無理だと思う荘川桜の移植も、断るような気持はなかったと思います。それくらい侠気(きょうき)のある親方でした」

そうして、昭和35年11月15日、J-POWER、庭正造園(以下「庭正」)と、間組とで、前代未聞の大移植が開始された。

まずは根を掘り起こす作業からだが、現場にはパワーショベルが用意されていた。だが内藤さんらは、重機を用いることなく、鶴嘴(つるはし)とスコップとで根周りの掘削作業を進めていった。
100メートルは張っていると推測される根のうち、「少なくとも径五間の円形にする」(『櫻男行状』)と桜博士の笹部新太郎氏は指示していたが、現場では問題が発生した。

庭正造園の庭園での内藤重明さん。親方から引き継いだ植木職人の心意気で、荘川桜の移植後も、数々の大仕事をしてきた。

「5間(約9メートル)も掘ってしまったのでは運べなくなるだろうと私らは判断しました。根の状態を見ると、伐(き)っても大丈夫だと思えたからです。でも、植物は生き物であるから根を叩き伐ってはいけないという、親方に教えてもらったとおりの慎重さで、掘り進めていきました。根の際にくると、スコップで叩き伐るのではなく、手掘りでね。伐るときには、必ず刃物をあてたんです。6人の職人で、掘るだけで1週間もかかったことを憶えています。10畳間に入らんような根周りでしたよ。根を傷つけないように、全体に縄を巻いて荷造りさせていただきました」

縄は一般的に使われる荒縄ではなく、酒樽に使用される太くて頑丈な縄を豊橋で調達した。

「トラック1台分の酒樽の縄を桜1本で使っちゃったんですよ。1尺もあったのに、桜1本で使っちゃったから、2本目の分の縄は、また豊橋へトラックを戻して運んだので、よく憶えているんですわ。いかに、根そのものが大きかったかってことなんですよ」

1週間かかって2本の桜は掘り起こされたが、まだ問題は解決していなかった。
丹羽氏が2週間歩き続けてようやく見つけた、適した土質の移植場所までは、直線距離で約600メートル、高低差が約50メートルもあった。2本の桜の重量は、38トンと35トンもある。

当初ヘリコプターでの移送が考えられていたが、それはまったく不可能とされた。そこで、移植工事を依頼された間組が、当時最大級の大型クレーン車2台を準備した。
しかし、吊り上げたとたんに木が倒れてしまった。
クレーン車の能力は1台15トンで、用意された2台を合わせても30トンにしかならなかった。
作業員たちは途方に暮れていたが、内藤さんら「庭正」の職人たちは意を決していた。

「枝を伐るしかないと、私ら最初から決めていました。それが前提の移植でした。運べんようじゃ、いくら湖底に残しとっても、どうしようもないですからね。運べるくらいに枝を伐って、軽くしてやりましょうと」

心を痛めながらも、移植成功を願って枝を伐る職人たち。伐らなければ運べないという現実が、内藤重明さんの親方・丹羽政光氏の英断を促した。

外傷に弱い桜、しかも樹齢400年以上とされる古木、枝を伐り落とせば命取りになる危険性は丹羽氏も承知していた。
「枝はなるべく伐らぬこと、たとえ、伐るにしてもその角度と個所などは必ず私自身の指図によること」(『櫻男行状』)
枝を伐ることには笹部氏も懸念を示していたが、全体の重量を軽減させるためには、ほとんどの枝を伐り落とさなければならない。

運べなければ意味がないという現実に直面した丹羽氏は、常識破りの伐採の責を笹部氏に負わせてしまうのではなく、笹部氏が不在の間に、現場にいる自らの責において断行した。
親方である丹羽氏から、伐採の大号令を受けた弟子の内藤さんらは、鋸を手にして枝に向かった。

決断していたとはいえ、鋸の歯を枝に当てるとき、内藤さんは心を痛めたという。

「木に申し訳ないという気持はありました。でも、ダムの底へ沈む桜を助けて、村人の故郷の証に、という話を親方から聞いていました。『この桜をうまく生かすことができれば、村人は喜ぶなあ』、そんな独り言を親方がいっておりました。私らも、じーんときましたよ。うまく生かすことができれば、ではなくて、ぜひともうまく生かしたいという気持は強かったです」

裸同然になった2本の桜を眼にしても、内藤さんに不安はなかった。

「不安な気持は全然なかったですね。根の状態を見ても、これはいける、そう思ったですね」