荘川桜を語り継ぐ者たち

語り部(弐)職人魂で奇跡の大移植を成しとげた庭師たち

内藤重明さん

profile:昭和6年愛知県生まれの内藤重明(ないとうしげあき)さんは、昭和20年代半ばに豊橋市の造園会社「庭正造園(以下「庭正」)」に入社。「東海一の植木職人」と呼ばれた丹羽政光氏に弟子入りした。昭和35年、親方とともに、根を掘り起こす作業から活着させるまで、荘川桜の「奇跡の大移植」に携わった。(取材=2010年12月9日、庭正にて)

第1回職人魂で奇跡の大移植を成しとげた庭師たち(1)

御母衣ダムの開発計画が持ち上がった昭和20年代半ば、一人の若者が庭師を志して造園会社で働き始めた。

昭和6年愛知県名古屋市に生まれた内藤重明さんは、戦中に父の郷里であった豊橋市へ疎開してきた。家は農家で内藤さんは長男だったが、田畑の面積が広くなかったことから、小学校を卒業すると同時に働きに出た。自宅近くにあった運送会社で、馬を牽いて荷物を運ぶ仕事をして家計を助けた。

昭和24年頃になると、馬からトラックへと輸送手段が変わった。内藤さんは昼夜通してトラックで遠方へと荷物を輸送する毎日だった。過酷な条件で労働するなか、体調を壊してしまったこともあり、日中だけの仕事へと転職を考えていた矢先、通りかかった造園会社の前で、ある人物に声をかけられた。

「最初はそのつもりじゃなかったですけど、たまたまこちらの通りに、ちょうど親方が立っとって、行き会って無駄話から始まってね。こちらの植木を、よう名古屋へ運んでいたので、親方とは面識があって、ざっくばらんに話ができたんです。体調が悪いと話すと、『昼間だけ働く仕事があるけど、どうだ?』と話をいただいて、それじゃってんで、すぐに気持を切り替えて、庭師になろうと。太っ腹な親方なら、自分を可愛がってくれると思ってね、運送会社を円満退職して、こちらへ転職したんです」

庭正造園の植木職人・丹羽政光の一番弟子の内藤重明さん。職人肌の親方に厳しく育てられ、腕を磨いていった。荘川桜の移植は、親方との良き思い出でもある。

内藤さんがいう「こちら」とは豊橋市にある造園会社「庭正造園(以下「庭正」)」で、「親方」とは当時「東海一の植木職人」と称された丹羽政光氏のことである。

内藤さんが弟子入りした丹羽氏は明治41年生まれで、度胸や気風のよさでも有名だったが、仕事においては妥協を知らない根っからの職人肌だった。頼まれればどんな仕事でも断らず、どこまででも足を延ばした。そんな親方に従って、内藤さんも他県まで同行して寝食を共にしながら腕を磨いていった。

「仕事は厳しかったですよ。職人になるなら道具の手入れをできんと一人前にはなれんといわれ、一生懸命勉強させていただきました。同じ種類の樹木でも、それぞれの木によって、道具の使い方などの考えを変えなければならない場合もあるんです。この仕事は一生勉強だと、私はそう思っていました」

親方の丹羽氏から教わったことの数々は、80歳になるいまでも、弟子の内藤さんは忘れていない。ある日、樹木が植えられている根元の土をスコップで掘っているとき、「木は生き物だ」と注意されたという。

「根をスコップで叩き伐(き)るようなことはしてはいけない。根は鈍器ではなく、必ず鋭利な刃物で伐りなさいと。ですから、土を掘るときは、いつもそれを心掛けて、大事なところではスコップを使いませんでした。厳しい親方でしたけど、私たちが休憩しているときにでも、親方は休まずに剪刀(はさみ)を持って手入れをされているんです。それを見ながら、私は仕事を覚えたものでした。親方のことを、尊敬していました」

「東海一の植木職人」と称された丹羽政光氏。数々の植樹を成功させてきたその腕前は、荘川桜という前代未聞の移植で試されることに。

数々の植樹を手掛け、なかでも松の移植に関しては右に出る者はいないとされてきた丹羽氏は、樹木に優しい職人でもあった。

「一括りに木というけれど、一本一本、違う生き物なんだと。若木なのか、古木なのか、太いのか、細いのか、状態の違いをうまく見抜き、植樹したり管理したりするのが、私たちの仕事の大事なところなんだと」

「庭正」とJ-POWERとは、縁が深い。
昭和28年の佐久間ダム着工の際、その周辺に植樹したり芝を張ったりする仕事を、丹羽氏は引きうけた。

そして昭和32年着工の御母衣ダムの現場でも、同じように丹羽氏とその弟子たちによって、周辺に緑が配されていった。当時、丹羽氏の一番弟子になっていた内藤さんは、発電所近くの鉄塔部分の芝張りなどを任されていた。

そんな折り、驚くべき話を、内藤さんは耳にした。
ダムの完成までには湖底に水没してしまう村に、2本の巨木があった。それを、どうにか救ってやれないものかと、丹羽氏がJ-POWERから依頼されたというのだ。
親方と2人で、光輪寺の境内に植えられているその巨木を視察に行ったとき、内藤さんは絶句した。

「すごい木があるもんだと、びっくりしました。正直にね、この木を移植するとなると、容易な仕事じゃないなと思ってね」

「容易な仕事じゃない」理由は、おもに4つあった。

1つめに、木の大きさ。
高さ約20メートル、幹周り約6メートル、重さ2本合わせて73トン。
そのような巨木を見ることさえ稀なのに、移植するとなると、どのように運搬すればよいのかさえ、内藤さんには見当もつかなかった。

2つめに、木の古さ。
寺の住職が植えたとされる桜の樹齢は、およそ400年といわれる。
そのような老木が、たとえ移植できても活着できるのか、これも内藤さんの想像を絶した。

3つめに、木の種類。
「桜伐る馬鹿、梅伐らぬ馬鹿」といわれるほど、桜は外傷に脆弱なことで知られている。たとえ小枝が1本折れただけでも、そこから腐食が始まって、いずれは幹の芯まで空洞化してしまうこともある。
そんな繊細な桜のなかでも、光輪寺の桜はアズマヒガンザクラという野生種で、これまで内藤さんは、むろんそのような山桜を移植した経験はなかった。

4つめに、時間。
移植を依頼されたのは昭和35年11月だったが、翌年には村の水没が始まってしまう。
移植に与えられた時間は、内藤さんには十分とは思えなかった。

「でもね、親方は侠気(きょうき)のある人だったし、度胸もある人だったから、ぜひ、と頼まれるならやりましょうと、そんな気持で決めたんだと思います」

無口だったという丹羽氏は、弟子である内藤さんに、一言、こう告げたという。

「やるぞ」