荘川桜を語り継ぐ者たち

語り部(拾壱)荘川桜移植の発案者・高碕達之助に仕えて

石高治夫さん

profile:実業家であった高碕達之助と同郷で、高碕が創業した東洋製罐株式会社に昭和9年に入社した石高治夫(いしだかはるお)さん。のちに、やはり高碕が起こした日本フエロー株式会社の代表取締役社長となり、公私ともに高碕と多くの時間を共有し、戦前戦後の混乱期、そして復興期を歩んできた。明治45年生まれ、今年で満100歳を迎えた石高さんに、2人の故郷・大阪で、高碕氏や荘川桜の思い出を語ってもらった。(取材=2012年1月31日、大阪府豊中市内のホテルにて)。

第3回荘川桜移植の発案者・高碕達之助に仕えて(3)

東洋製罐株式会社(以下、東洋製罐)の営業マンだった石高治夫さんは、昭和26年、辞令で日本フエロー株式会社(以下、日本フエロー。現・東罐マテリアル・テクノロジー株式会社)に異動することになる。そこは、同25年に高碕達之助が創設した、戦後化学工業界におけるわが国初の外資導入会社だった。

「日本が戦争の荒廃から復興し、これから成長していくためには、外国から資本と技術を導入して行かねばならない。それによって様々な分野での産業を興し、国力をのばしていく必要があるというのが、高碕先生の理念でした」

当時は琺瑯(ほうろう)用フリットの製造販売がおもな業務内容だったが、わずか21名の社員とともに、石高さんは、それまでほとんど知識のなかった琺瑯、陶器用の釉薬(うわぐすり)、顔料などの製造について、高碕がアメリカより招聘(しょうへい)した技術者から学んでいった。

33年間、高碕に仕えてきた石高治夫さん。「残念ながら、いま、ああいう実業家、政治家はおりませんわな」と高碕と過ごした日々を懐かしむ。

入社まもないある日のこと、同業者の社長が得意先を集めた会合の席上、高碕の挨拶の後で皮肉混じりにこういったという。

《「えらい会社ができたものだ」と。》(『100年を振り返って』石高治夫著)

おそらくそれは、アメリカに敗戦した日本において、その敵国の資本や技術を導入して設立された日本フエローを揶揄(やゆ)した発言だったのだろう。するとすかさず、高碕が相手を睨(にら)みかえして怒鳴ったという。

《「えらい会社とは、どういう意味だ! 我々は日本の産業復興のため国家のために新たな分野で事業を興そうとしてがんばっているのだ。いまの言葉を取り消せ!」》(同著)

「いまの時代では、こんなことをいえる経営者はおまへんやろ。この言葉はすぐに全社に伝わって、さすがにうちのおやじは肝っ玉が据わっていると、さらに株が上昇したものです(笑)」

日本フエローでも営業一筋だった石高さんは、得意先まわりを必死で続けた。

「注文をもらわなければ帰れんというくらいの馬力で頑張りました。私ら社員の心にも、国の産業復興のためやという高碕先生の精神が入っているので、みんな一生懸命でした。高碕先生はお忙しい方でしたが、ときどき社に現れて業績を見ていかれるんです。いつ見えてもしっかり売上など報告できるようにしておかんと、『なにをぼやぼやしとる』と叱られるんです」

急成長を遂げてゆく日本フエローにおいて、石高さんも実績を買われて昇進していった。昭和34年には取締役に、昭和36年には常務取締役に、昭和38年には専務取締役に、昭和49年には代表取締役社長に就任することになる。

「経営に関しては、高碕先生は細かいことはいわれませんでした。とにかく結果を見て、現状把握と来季の見通しなど、ポイントだけ抑えられるわけです。売上には厳しく、借金はなかったけど、余分な金もない、そういう方でした。日本フエローでは、ボーナスもどんどん支給しろということでしたから、日頃厳しくいわれても、やりがいがありましたわ」

東洋製罐株式会社創設の際、高碕達之助が掲げた「経営の根本方針」。「三、」の、「関係者の繁栄に努力しなければならぬ」は、荘川桜の移植にも通ずる精神であろう。

そんな高碕と石高さんは、公私ともに多くの時間を共有してきた。高碕が衆議院議員選挙に出馬した際、石高さんは彼の後援会「高清会」の会長として支えた。地元で選挙活動をともにし、演説会場への人集めなどにも奔走した。

「高碕先生の演説には、不思議な魅力がありました。先生が語りだすと、雰囲気が変わるんです。野次る人はおらず、みんな静かに聞き入っていました。日本の産業をもっと伸ばさなあかんと。それはぴしっとした立派な演説で、理屈よりも、日本をこうしたいという理念で説かれるんです。4回も当選されたのは、人徳だと思いますよ」

また、束の間の休息日、高碕の生家があった高槻市柱本で、一緒に寛(くつろ)ぎもしたという。

「でも暇だからといって、じっとしておられない方でした。家の向かいに流れている淀川へ入り、網で魚をとりに行かれました。私もお伴をして、バケツに獲物を入れる役をしました(笑)。先生とご一緒だと、すぐにバケツ半分くらい魚がとれるんです。その魚でさえ、先生は独り占めになどせず、料理屋さんなどに分け与えて『みんなで食べてくれ』と。先生は自然や動物がお好きでした。ご自宅で鰐(わに)や駝鳥(だちょう)も飼われていましたし。ですから、荘川桜に目がとまったことも頷けますよ」

そして、昭和34年の晩秋、日本フエローの取締役に就任したばかりの石高さんは、高碕から思いもよらない話を聞くことになる。

「『どんなことがあっても、お寺の桜、樹齢400年の桜を枯らすわけにいかんから』と、大きな桜を移植して生かすとおっしゃるんです。動物に愛情を持っていらしたのと一緒で、桜も見殺しにできなかったんでしょうな」