荘川桜を語り継ぐ者たち

語り部(拾壱)荘川桜移植の発案者・高碕達之助に仕えて

石高治夫さん

profile:実業家であった高碕達之助と同郷で、高碕が創業した東洋製罐株式会社に昭和9年に入社した石高治夫(いしだかはるお)さん。のちに、やはり高碕が起こした日本フエロー株式会社の代表取締役社長となり、公私ともに高碕と多くの時間を共有し、戦前戦後の混乱期、そして復興期を歩んできた。明治45年生まれ、今年で満100歳を迎えた石高さんに、2人の故郷・大阪で、高碕氏や荘川桜の思い出を語ってもらった。(取材=2012年1月31日、大阪府豊中市内のホテルにて)。

第2回荘川桜移植の発案者・高碕達之助に仕えて(2)

昭和9年より東洋製罐株式会社(以下、東洋製罐)の営業マンとして、サニタリー缶の販売に奔走していた石高治夫さん。同社の創業者である高碕達之助が目をつけてアメリカより導入した新技術を用いたサニタリー缶は、《(前略)どんどん売れ、「バタコ」(三輪トラック)一台分送ってくれといった注文が相次いだ(後略)》(『100年を振り返って』石高治夫著)

今年で100歳を迎えた石高治夫さん。いまでも、自身の脚で出かけてゆく。高碕達之助の鶴の一声で禁煙させられたことも、壮健さの一助になっていると回顧する。

営業マンとして自信をつけていった矢先の昭和12年、日中戦争が勃発すると、同19年までの7年間に2度、石高治夫さんは召集されて戦地へ赴いた。陸軍兵長として山砲隊に配属されて満州のソビエト連邦(以下、ソ連)との国境沿いに石高さんがいた頃、東洋製罐社長の高碕もまた、同地満州にいた。日中戦争開戦以降、缶の材料である鉄の供給が滞り、国策企業の満州重工業開発株式会社(以下、満州重工業開発)に鉄を融通してもらおうと満州まで交渉に出向いたところ、その満州重工業開発の副総裁(のちに総裁)を任ぜられることになったのであった。

昭和19年1月に石高さんは兵役を解かれて帰国できたが、翌20年7月には石高さんらがいた陣地がソ連軍に占領され、多くの日本兵が捕虜となった。満州日本人会の会長でもあった高碕は、同地に留まってソ連側と帰還交渉をした。やがてソ連軍に替わって中国人民解放軍が進出すると、そことも交渉を続けた。そのため高碕の帰国は昭和22年と遅くなった。当時の心境を、高碕はこう記している。

《外国での抑留生活というものは、裁判での弁護はいうに及ばず、生命の保証すらもないので、留守家族の焦燥は筆舌に尽せぬものがある。私自身も満州で終戦を迎え、その後の二年間を、ソ連、中共、国府軍のうちに過したが、日本に残った家族たちは、現地の情況が皆目判らぬため、想像に絶した心配と不安にかられていたのである。》(『文藝春秋 昭和38年9月号』)

しかし、このときの経験がのちに、昭和33年のソ連との日ソ漁業交渉や、昭和37年の中華人民共和国(以下、中国)との日中総合貿易に関する覚書(通称LT貿易。Tは高碕のイニシャル)に活かされるあたり、転んでもただでは起きぬ高碕の真骨頂といえると石高さんは述懐する。

「日本は井の中の蛙(かわず)でやっていてもこのままではいかんと、国際的な視野で拡大せないかんと。後年のソ連や中国との交渉ももちろんですが、戦後間もない時期に敵国だったアメリカにも目を向け、なんのわだかまりもなしにアメリカの企業、フエローコーポレーションに10パーセントを出資させて新たな企業、日本フエロー株式会社(現・東罐マテリアル・テクノロジー株式会社)を起こされました。高碕先生は懐が深く、目が高い。『これからは外国の技術も資本も入れてやっていかんと』ということでした」

ヘビースモーカーだった高碕達之助には、煙草(たばこ)やマッチに関する数々の逸話が残されている。昭和30年2月に衆議院議員選挙へ出馬した際の写真にも、欠かせなかったのであろう灰皿が手許(てもと)に写っている。

そんな高碕は、かなりの愛煙家で、とりわけイギリス製の煙草(たばこ)や国産の「チェリー」を好み、1日に100本は吸っていた。

「高碕先生は、私たち若い社員に、東洋製罐大阪工場の前にあった煙草屋へ『4箱くらい買うてこい』というわけです。そんなだから、私はチェリーをつねに2箱くらいずつ持って、どうぞ、と出したんです。『若いのにおまえはよく気がつくな』と褒められて(笑)。でも、札を渡されて1箱買ってきたときには、『バカもん、おつりで全部買うてこい』とまた買いにやられたこともありました」

そんなヘビースモーカーが、突如として禁煙を始めた。

「『俺は今日限り煙草をやめた』と、『諸君もみんなやめ』と、こういうんですわ。あれだけのヘビースモーカーが、74歳にして、ぴたりとやめてしまわれたんです」

禁煙の理由について、高碕が認(したた)めた文章が、いかにも彼の人間性を表している。それは、ソ連との日ソ漁業交渉中、アルバイトで沖へ出た中学生も含む数多くの漁民がソ連の巡視船に拿捕(だほ)され、抑留されるという問題が相次いでいたとき、根室半島の納沙布(のさっぷ)岬の灯台で、漁民たちから窮状を訴えられた際の決断だった。少し長いが引用したい。

《この霧の中で、営々と貧しい作業に従事する人々は、今なお同じ不安を抱きつづけている。これは、政治や経済の問題という前に、すでに人道上の問題ではあるまいか。ノサップ灯台上で、私は人を遠ざけ、日の暮れるまで物を想った。涙が、とめどもなく流れたのを記憶している。私は、日本の水産業者の団体である大日本水産会の会長であった。大企業の発展には何ほどかのプラスをしたかも知れないが、この零細な漁民たちのために、一体何をしたといえるだろう。この、日本の水産を支える底辺の人たちの幸福なくして、何の水産日本なものか。北洋安全操業問題の解決こそ、私の余生にかけられた最大の責任であることを痛感した私は、同時にこの悲願達成には少なくとも五、六年の歳月を要することも知っていた。老齢の私のことである。それまで自分の健康を保たせることができるかどうか。》(同誌)

漁民たちのために身を尽くしたいという思いは、これよりのちの最晩年、御母衣ダム建設時に、水底へ沈んでしまう村に暮らしていた村民たちを思いやる心、そして、そこに生きてきた老桜を愛しむ心にも似ている。

昭和34年8月から禁煙断行した高碕は、それより以降、《私はもう煙草の味を忘れてしまった》(同誌)という。そして彼は、昭和39年、79歳という長寿を全うし、漁民たちを救い、そして荘川桜を救って世を去っている。

ちなみに、石高さんも「ゴールデンバット」を指先が黒くなるほど吸っていた愛煙家だったが、高碕の禁煙せよの一言をきっかけに煙草はやめてしまった。

「高碕先生のすすめで、煙草をやめさせてもらってよかったと思います。なんせ、この歳まで私ね、こうしていられるのですから(笑)」