荘川桜を語り継ぐ者たち

語り部(拾)境内の桜とともに生きつづけて

杉野明俊さん

profile:岐阜県高山市堀端町にある照蓮寺(しょうれんじ)の第26世住職である杉野明俊(すぎのみょうしゅん)さん。寺は御母衣ダム建設以前には大野郡荘川村(現・高山市荘川町)にあったが、重要文化財に指定されている本堂とともに現在の場所へと移転した。かつて境内に植えられており、いまは村が沈んだダム湖を見下ろす高台に立っている「荘川桜」の思い出を語っていただいた。(取材=2011年12月20日、岐阜県高山市・照蓮寺にて)。

第3回境内の桜とともに生きつづけて(3)

昭和34年(1959年)11月、御母衣ダム建設補償交渉が全面的な妥結点に到達し、「御母衣ダム絶対反対期成同盟死守会(以下、死守会)」の解散式が行われた。この直後より、大野郡荘川村(現・高山市荘川町)の人々は、次々と転居を開始した。当時の人々の心情を、照蓮寺(しょうれんじ)第26世住職である杉野明俊(みょうしゅん)さんが代弁してくれた。

「その頃になると、ダム建設に反対した人はおられんでしょう。やはり、高碕(達之助)先生の人柄というものもあったのでしょう。若山(芳枝)さんやら、死守会の幹部の人達はだんだんそれがわかってくるし、そして、それに応えて高碕先生も死守会の気持ちも知り、お互いに解けあうようになっていったんじゃないですか。高碕先生の存在というものも大事にしていかなきゃならんことだったろうなと思います」

照蓮寺(しょうれんじ)の高山市堀端町への移築工事は、本堂を解体するだけで3カ月ほどかかったという。7間(約12.7メートル)の通しの丸太でさえ、伐(き)ってしまうことなく、そのままトラックで運ばれた。

照蓮寺も高山市堀端町への移転が決まり、本堂を始めとする歴史的建造物がそのまま移築されることになった。

「建物は重要文化財の指定を受けていたものですから、文部省(現・文部科学省)が全責任をもって現場監督、現場主任、助手まで派遣してきて運んだんです。本堂を解体するだけで3カ月くらいかかったのですが、運ぶのも大変でした。今の道路状況ならいざしらず、狭い山道もありましたから、かなり無理があったのですけども、なんとか全部トラックで運びました。7間(約12.7メートル)の通しの丸太にしても、ややもすれば、まっぷたつに伐(き)らなければならなかったのですが、大工さんが2、3人トラックに乗りこんで、大事なものを伐らずに持っていこうと。昼間でしたが、狭い道ながら、交通量も激しくないし、運べたのでしょうね」

しかし、移転工事開始後も、明俊さんは照蓮寺のあった荘川村の中野地区へしばらく留まった。

「まだ檀家が残っているもんで、さよならと(移転先に)来てしまうわけにもいかず、中野地区の方におりました。どこかに泊まらなければならず、若山さんに一室を借りて、2、3カ月泊まりました」

元死守会書記長だった若山芳枝氏の母方の菩提寺が照蓮寺であり、若山氏と明俊さんは血縁関係もあった。ダム建設反対運動のさなかには、照蓮寺が反対派住民の非難の的とされたことは前述した。だがこの頃になると、若山氏と明俊さんは、もはやダム建設についての話題はいっさい持ち出さなかったという。

「(ダム建設については)話しませんでしたね。縁故関係のない人ならいわはるでしょうけど、そのへんは、気を遣ってみえてたと思うですな。私も、そういった話は持ちださんことにしておったし、かなりの人々が移転しはじめておる最中ですから、若山さんの内心もいずれか、と。かといって、(反対派の)先頭に立った人ですから、弱みは見せたくないでしょうし。傷つけようと思ったら、いくらでも傷つけられるんですよ、言葉ひとつで。でも、互いにそのへんを察したんですね」

そんな折、突然、驚くべき報(しら)せが明俊さんの耳に入った。

死守会の解散式に参列した高碕達之助が、散会後に村を散策したとき、光輪寺の桜を目にし、それを救うことを思いついたというのだ。しかも、その後に高碕の依頼を受けて移植について現地調査に来ていた桜研究家の笹部新太郎氏が、車窓から沿道の土質を観察していた際に照蓮寺の桜も目にし、それについても、光輪寺の桜と同時に移植するよう指示したらしかった。これには、明俊さんは驚きを隠せなかった。

境内に植えられていた桜の古木が移植されると聞き、杉野明俊(みょうしゅん)さんは驚きつつも、「何とかついてくれよ」、そう願ったという。

「(桜の移植について)私は、そこまでは毛頭考えておりませんでした。私ら自分らではどうにもならんもんで、地元の木材関係やっとった人に渡して、2、3日もすれば伐るところやったと思うんです。それを、高碕先生の一声で桜を動かすことになったと聞いて、うわあ、こりゃ、えらいことになってきたぞと。照蓮寺の本堂を解体するだけで、3カ月ほどかかっているんですね。そういうなかで、生きている樹木、しかも小さいものならいざしらず、あの大きな桜を上げるんやということで、えらいこっちゃなと」

その後、移植計画を聞くに及び、桜が活着するか否か、明俊さんは半信半疑だったという。

「桜の専門家がついて、3年間の猶予をみたということも聞いて、半分半分の気持ちやね。あとから聞いたら、光輪寺の桜と、私のところの桜、幹の一部が空洞になっているところもあり、表面から薄くなっておると。これ、つくんだろうかという思いもあったですけどね。それでも、私ら物心ついたころから眺めておった桜ですし、せっかく移植するのだから、何とかついてくれよ、何とかついてくれよ、という願いを持ちました」