荘川桜を語り継ぐ者たち

語り部(拾)境内の桜とともに生きつづけて

杉野明俊さん

profile:岐阜県高山市堀端町にある照蓮寺(しょうれんじ)の第26世住職である杉野明俊(すぎのみょうしゅん)さん。寺は御母衣ダム建設以前には大野郡荘川村(現・高山市荘川町)にあったが、重要文化財に指定されている本堂とともに現在の場所へと移転した。かつて境内に植えられており、いまは村が沈んだダム湖を見下ろす高台に立っている「荘川桜」の思い出を語っていただいた。(取材=2011年12月20日、岐阜県高山市・照蓮寺にて)。

第2回境内の桜とともに生きつづけて(2)

いつかは照蓮寺(しょうれんじ)を継ぐ立場にありながらも、寺のことは父に一任し、杉野明俊(みょうしゅん)さんは昭和27年(1952年)の春より、岐阜県大野郡白川村にある白川中学校で教鞭をとることになった。

新米教諭として生徒たちと向き合っていた同年の秋頃、明俊さんの耳に、驚くべき話がとびこんできた。

故郷である大野郡荘川村(現・高山市荘川町)中野地区が、御母衣ダムの建設予定地として調査されているとのことだった。実際には、すでに6月23日には「第1回ダム反対地区住民大会(以下、住民大会)」が村の人々213人によって開会されており、静かだった村が騒然としていた。さらに、調査段階では噂に過ぎなかったダム建設の話が、10月18日に総理府(現・内閣府)より御母衣ダムの建設計画として公表されるに至ると、村の人々は「ダム反対」の気炎を強めた。

「御母衣にダムが、なんていわれても......。昭和28年の3月頃になると、父親から、『おい、教師をしておる場合ではない。ダム建設が決まったぞ』と」

境内に植えられている、思い出深い桜のことも気掛かりだったという杉野明俊(みょうしゅん)さん。だが、生きた桜、しかもあれだけ大きな桜を移植するなどという発想はなかったという。

照蓮寺としても、むろん、ダム建設を容認しているわけではなかった。そんななか、昭和28年1月13日の住民大会に参加した174戸にて、「御母衣ダム絶対反対期成同盟死守会(以下、死守会)」が結成された。それとときを同じくして、ある騒動が村で起きた。

ダム建設調査において道路を除雪していたブルドーザの運転手が、崖下へ転落する事故で落命した。その遺体が運びこまれたのが照蓮寺だったが、葬儀がとりおこなわれることにダム建設に反対している住民たちが反発した。

「事故があったのは白川村だから、白川村の平瀬にあった寺へ遺体を運んでゆくべきだと。ところが、照蓮寺へ運びこまれたんです。そのことに、地元の人たちが、がちゃがちゃなって反発したんです」

ダム建設のために作業していた者を、なぜ、ダム建設を反対している土地で葬らなければならないのかと怒号が渦巻いた。しかし、このときの先代住職である父の意思を、明俊さんはこう理解していた。

「僧侶というのは、道に誰が倒れていようと、最終的には葬(ほうむ)っていかなきゃならん一つの役目があるんです。しかも、遺体を運ぶ前に、中野地区に総代がおりましたので、総代の許可を得てここへ来とるんでと。そういうことから、ダム建設のことは関係なしに、亡くなった人を弔(とむら)うんだということだったのでしょうね」

結果的に葬儀はとりおこなわれたが、それによって照蓮寺はダム建設反対住民の非難の的となった。

「父は私に、『教師なんてしとるときでない、とにかく帰れ』と。その年の4月30日をもって中学校をやめて、寺へ帰りました。しかし、私が帰ると、父はおらなんだ。ダム建設反対住民から非難されて、白い目で見られたりもして、富山の方に雲隠れしてしまったのです」

それだけ強硬にダム建設に反対していた住民も、長年にわたって誠意ある交渉が続けられたことで、やがては態度を軟化させてゆくことになる。戦後の復興期より日本全体が電力不足に陥っており、それには御母衣ダムの建設が急務であるという国策を、明俊さんも理解できていたという。

「ダム建設の反対運動が激しいうちは、私がお盆で門徒にお参りにいきますと、門前払いでした。御坊さんお断りやぞと、帰ってもらえと、仏前に参れないこともありました。私は、いいたいことはいわせてやればいいんやし、逆らいもしませんでした。もちろん、電力が必要なんだということも理解していましたし。御母衣ダムの豊富な水量によって発電すると同時に、下流にあるダムの水量も調節しているんだと。東洋一のロックフィル式ダムということですから、それなりの働きをしてくれるんだと」

やがて、ダム建設に同意して村をあとにしてゆく人々も現れるなか、いよいよ照蓮寺も移転の検討を余儀なくされた。

「ダム建設に反対している人たちが、照蓮寺を住職の自由勝手にさせんということまでいってきたんです。でも、自由勝手にさせんというその身が、いずれ動いていかなならんということも、あるわけです。死守会、死んでも守る会に、私も最初から入っておった。当初は墓を抱えても動かんと、最後まで頑張ろうなと。だけども、最終的には、誰一人、墓を抱えてなくなるっていうものはおらんかった」

御母衣ダム建設によって、昭和36年に高山市堀端町へ移転した照蓮寺(しょうれんじ)。中野地区にあった当時は、その本堂の正面に、桜の木(現在の荘川桜)が植えられていた。

照蓮寺の高山市堀端町への移転は、昭和36年(1961年)に移築完了する。移築するのは、元弘4年(1334年)建立の梵鐘(ぼんしょう)、永正元年(1504年)建立の本堂、天正2年(1574年)建立の中門で、いずれも重要文化財に指定されているものだった。本堂の正面に佇(たたず)んでいる桜も、いつ植樹されたものか判然としないほどに年輪を刻んできた古木だが、それはそのまま残され、やがて材木商によって伐(き)られることに決まった。

しかし、照蓮寺移転の前年、昭和35年(1960年)の早春、ダム建設の喧騒を静かに見守っているような桜は、「桜博士」と称される老翁(ろうおう)の目に止まることになる。