荘川桜を語り継ぐ者たち

語り部(拾)境内の桜とともに生きつづけて

杉野明俊さん

profile:岐阜県高山市堀端町にある照蓮寺(しょうれんじ)の第26世住職である杉野明俊(すぎのみょうしゅん)さん。寺は御母衣ダム建設以前には大野郡荘川村(現・高山市荘川町)にあったが、重要文化財に指定されている本堂とともに現在の場所へと移転した。かつて境内に植えられており、いまは村が沈んだダム湖を見下ろす高台に立っている「荘川桜」の思い出を語っていただいた。(取材=2011年12月20日、岐阜県高山市・照蓮寺にて)。

第4回境内の桜とともに生きつづけて(4)

照蓮寺(しょうれんじ)の大野郡荘川村(現・高山市荘川町)中野地区から高山市堀端町への移築が完了したのは、解体調査開始より2年後の昭和36年(1961年)のことだった。その翌年、杉野明俊(みょうしゅん)さんは結婚し、さらに1年後には亡き父から寺を引き継いで第26世住職となった。

明俊さんにとっては、多忙を極めた人生のこの一時期に、もう一つ、大きな出来事があった。

昭和37年6月12日、水没した村を見下ろす展望台に、水没記念碑が完成した。その除幕式に、明俊さんが導師として招かれた。式には、日ソ漁業交渉から帰国したばかりの高碕達之助や、桜博士の笹部新太郎氏、そして、各転居地へ散り散りになっていた元村民約500名も参列した。

移植された荘川桜を目にした杉野明俊(みょうしゅん)さんは、「感慨無量というか、よう生きてくれたなと」。いまも春が訪れるたび、荘川桜の開花が気になるという。

水没記念碑が建てられたその展望台に立ち、元村民たちは、かつて家々が建ち並んでいた場所を見つめていた。すでにそこは、水を湛(たた)えた湖面となっており、涙する者もあったという。

しかし、そんな人々の心を慰(なぐさ)めたのは、展望台に移植されていた2本の桜だった。ここまで運搬されるに及び、枝が伐(き)りはらわれて裸のような姿になってしまってはいたが、移植開始から約1年半が経過し、これより1カ月前には花もつけ、どうやら活着の見込みも出てきたようだった。「荘川桜」と名付けられた、かつては寺の境内に植えられていた桜を見た明俊さんは、言葉が出なかったという。

「(活着の見込みは)五分五分の気持ちやったですよな。専門家がついて動かしてくれたんだから、大丈夫とは思いながらも、あれだけの大木ですからね。でも、枝を伐ってしまった幹から、芽が出て、枝が伸びているのを見たときは、感慨無量というか、よう生きてくれたなと。力強く、ようついたもんやなと、本当に喜びですよ。普通の人が上げたら駄目だったでしょう。専門家の先生が、注意して、いろんな方法で手を加えてくださったからこその成功だったと」

それ以降、昭和40年代に入ってからも、明俊さんはたびたび故郷を訪れている。かつて、「御母衣ダム絶対反対期成同盟死守会」を結成してダム建設の反対運動をしていた婦人たちの多くが、新たに結成された「ふるさと友の会(以下、友の会)」に入会し、集まっては故郷を懐かしみつつ語りあうようになっていた。そして昭和47年(1972年)からは、年に1度、8月の第1日曜日に御母衣湖畔の展望台に集るようになった。明俊さんが振りかえってくれた。

「年に1度、かならず友の会会員はここへ集まるんやぞと。最初は婦人方が中心でしたが、男衆がやきもちをやくんです(笑)。そして、男衆の組合も友の会に協力するから仲間にしてくれよと、お互い誘いあって、集まらんかいと申しあわせをしたんです。私は組合に入っておりませんでしたが、住職として招かれて行くようになったんです。というのも、何年かやるうちに、ダム建設の際に亡くなった人だけでなく、木にしろ、草にしろ、動物にしろ、すべての供養というものも必要やぞということで、その供養法要をやったんです」

高山市堀端町へ移転した照蓮寺(しょうれんじ)の境内には、荘川桜の二世桜が植えられている。明俊さんの手によって育てられている二世桜は、春には見事な花を咲かせている。

友の会は、平成5年(1993年)をもって解散することになった。

「みんな年老いてくるし、次の世代どころか、次の次の世代にまで変わったかな。2代、3代となると、ダム建設の事情を知っているものもおらんようになってくるんですよ。そういうことで、見切りをつけて、20年で解散したんです」

展望台へ足を運ぶ機会は減ってしまったものの、明俊さんの郷愁は消えない。高山市堀端町へ移転した照蓮寺の境内にも、荘川桜の二世桜の苗木を植え、それを大切に育てている。昨春には見事な花を咲かせた。

「樹齢400年ともいわれている荘川桜が、移植されてからも50年が経(た)ちました。そして、私も、本堂の移築工事が完了した頃は29か30歳でしたが、それがもう、数え年だと80歳。桜ばかりではない、人生も早いもんじゃなと。どっちも生命のあることです。荘川桜には、長く生き延びて欲しいですね」

いまもときおり、荘川桜の地元の人々が、桜の様子を伝えてくれる。「今年はちょっと疎(まば)らに咲いたわい」「今年はよう咲いて満開やぞ」。明俊さんは、これからも末永く荘川桜に元気であってほしいと願っている。

「私一人が頑張ったって、なかなかできることはない。J-POWERさんはもとより、荘川桜の地元のみなさんのお力添えというのは、大事になってきますわな。放っておいては駄目ですから、なんらかの手を加えながら、優しく育ててもらうことですわね」