荘川桜を語り継ぐ者たち

語り部(拾)境内の桜とともに生きつづけて

杉野明俊さん

profile:岐阜県高山市堀端町にある照蓮寺(しょうれんじ)の第26世住職である杉野明俊(すぎのみょうしゅん)さん。寺は御母衣ダム建設以前には大野郡荘川村(現・高山市荘川町)にあったが、重要文化財に指定されている本堂とともに現在の場所へと移転した。かつて境内に植えられており、いまは村が沈んだダム湖を見下ろす高台に立っている「荘川桜」の思い出を語っていただいた。(取材=2011年12月20日、岐阜県高山市・照蓮寺にて)。

第1回境内の桜とともに生きつづけて(1)

かつて、岐阜県大野郡荘川村(現・高山市荘川町)の中野地区に、古寺が建っていた。

浄土真宗の宗祖である親鸞(しんらん)の教えを受けた嘉念坊善俊(かねんぼうぜんしゅん)による「正蓮寺(しょうれんじ)」建立から約250年後の永正元年(1504年)、第10世住職明心(みょうしん)が焼失していた寺を再建した。改称されたその寺が、照蓮寺(しょうれんじ)だった。

飛騨地方は浄土真宗が盛んで、寺と民衆が強固なつながりをもっている土地だった。その中心的役割を担っていたのが、現存する浄土真宗の寺院では最古の建築物となる照蓮寺の本堂だった。現在では重要文化財に指定されている本堂について、その建物内に座しながら、第26世住職の明俊(みょうしゅん)さんが説明してくれた。

すべて一本の大杉をもって建てられたと伝えられている照蓮寺(しょうれんじ)の本堂は、現存する浄土真宗の建築として最古のもので、重要文化財に指定されている。

「室町以前は民間の家を利用しての『道場』が、浄土真宗における集会所でした。それが、室町中期になって初めて本堂という形になったのが、ここなんです。道場時代の姿を取り入れてあるということから、建物内部は書院造り、すなわち座敷になっています。門信徒のみなさんが、気軽に出入りして参拝できるように造られているんです」

寺と門信徒の結束ぶりや、その勢力ゆえに、安土桃山時代には、後の飛騨高山藩初代藩主・金森長近(かなもりながちか)が恐れをなし、天正16年(1588年)に寺を高山城下へと移転させた。しかし、中野地区には開基(かいそ)善俊の墓地と本堂がそのまま残され、通称「中野照蓮寺」として存続した。

民衆との強固なつながりの他に、他の寺院には稀な特徴が、照蓮寺にはあった。

それは、巨樹との深い関わりである。

照蓮寺の本堂は、間口7間(約12.7メートル)、奥行9間(約16.4メートル)という堂々たる構えながら、すべて一本の大杉をもって建てられたと伝えられている。いかに杉の産地として名高い飛騨にあっても、これだけの建造物の材料になる一本の大杉の存在や、それを建築する技巧が室町時代の人々に備わっていたのか、訝(いぶか)しがる向きもあった。ところが後年、昭和になって本堂が解体された折、伝説が事実であったことを裏付ける証が発見された。

「一本の大杉で建てられたと聞かされておるだけで、その杉がどのくらいの大きさだったのか、私にもわかりませんでした。それを解体の折に調査しよったら、一枚の大きな板が床板として出てきたんです。あれだけの幅の板は珍しいと、文部省(現・文部科学省)の文化財担当者が、板から寸法を割り出してくれたんです。そうしたら、直径17尺(約5メートル20センチ)、幹周12メートルという寸法であることがわかったんです。実際に、柱の2、3本を除いては、すべて節のない材料ばかりが使われていることもわかりました。天井上の屋根には、7間通しの丸太もありました」

そして、一本の大杉によって建てられた本堂の正面には、これまた大きな桜が植えられていた。

それは「アズマヒガン」の古木で、黒くごつごつとした太い幹から伸びる枝には、毎年5月になると、ごく淡いピンク色の花弁が咲いた。荘川村の人々は、寺を訪れるたびにこの桜を目にし、代々愛しんできた。戦国時代に植えられたとも伝えられる桜には、昭和7年(1932年)生まれの明俊さんも、思い入れが深かった。

現在では「荘川桜」と名付けられている、2本のうちの1本の桜が、照蓮寺の本堂の正面に植えられていた。「毎年、満開、満開で」と当時の思い出を語ってくれた杉野明俊(みょうしゅん)さん。

「近くの光輪寺にも大きな桜があったのですが、あれは幹の別れるところまで低かったし、ちょうど桜のすぐ近くが小学校の運動場になっとったもんで、木に登っては遊んだものです。でも、私のところの桜は、なかなかそれができん。下から幹の別れるところまでちょっと高いもので、普通では登れんのです。それでも、どこからか梯子(はしご)を持ってきて、登っている子どももいましたね(笑)。子どもにとっては遊び場でもあったし、それに、桜が満開のときには、花見をやる大人もあったかな。下で一杯呑むかという者もいました」

当時、照蓮寺の桜は、花が咲かない年などなかったと明俊さんは記憶している。

「私の知る限りでは、今年は花が少ないな、なんてことはなかったですね。毎年、満開、満開で。また、この桜以外にも、2人でないと抱えられない桜がもう一本あったんです。それに、大きな杉があったり、銀杏(いちょう)の大きいのもあったり。小さいですけども、八重桜もありました。とにかく木に囲まれている環境で私たちは暮らしていたんですね」