荘川桜を語り継ぐ者たち

語り部(壱)ダム建設と桜の移植を陰ながら支えた御母衣の主

多田昇さん

profile:大正14年兵庫県生まれの多田昇(ただのぼる)さんは、昭和27年に設立されたばかりのJ-POWERに入社。すぐに御母衣勤務となり、以来11年近くの長きに渡り、御母衣ダム開 発計画から発電開始までを現地で見届けてきた。荘川桜移植前後の当地の様子や、移植に関わった人々との思い出について語っていただいた(取材=2010年10月21日、本店にて)。

第3回ダム建設と桜の移植を陰ながら支えた御母衣の主(3)

荘川桜の物語の主人公といえる高碕達之助が、荘川桜と触れあう瞬間にも、多田さんは立ち会っていた。

死守会の反対運動は苛烈を極め、話し合いすらできない状態がしばらく続いた。それを打破したのが、J-POWER初代総裁の高碕であった。高碕は自ら御母衣へ足を運んだだけでなく、意外な気さくさで村人と接し、死守会住民との対話を根気強く続けることでダム建設の理解を促した。膝詰めによる話し合いでは、村人が故郷を失う無念さを思い、ときに涙を流して心情を聞いたという。さらには、昭和29年に高碕が総裁を辞した後、総裁に就任した藤井崇治が死守会住民に対し、いわゆる『幸福の覚書』という補償交渉の基本姿勢を提示したことで、死守会が態度を軟化させ、交渉に応じる姿勢を取った。

そして、昭和34年11月が訪れた。

死守会の解散式には、直接交渉に当たってきた初代総裁の高碕が招かれ、解散宣言に立ち会った。長年に及んだ補償交渉だったが、この日をもってすべて終了し、全水没世帯との対話は妥結した。

この解散式に参列した死守会住民や、J-POWER社員の多くが、もはや平成の現在にあっては存命でなく、直接取材することはかなわない。解散式より5年後の昭和39年2月、高碕もこの世を去っている。

その解散式の当日、カメラを持参して現地にいた多田さんの証言は貴重である。

故郷を守り抜こうとした人々が、長年の反対に幕を下ろしたその日の1枚。多田さんが撮影した解散式直後の高碕(右)のスナップ(写真1)。

「御母衣ダム建設は、この死守会解散式が、一つの山場でしたね。工事が始まっても反対運動をつづけてきた死守会が、とうとう解散に至ったわけですから。それまで、いろんなことがありましたし、高碕さんは総裁でいらした時代から、御母衣ダムの完成について大変ご心配されていました。解散式のときにはもう藤井総裁で、高碕さんは総裁辞任から5年も経っていたわけですが、ご自分が直接交渉をされてようやく建設が進んだ御母衣ダムですから、死守会の解散式についても、最後まで見届けるおつもりだったのでしょう。式は、とても和やかでした」

多田さんが撮影した写真には、式場から出てきた高碕の姿も写されているが、確かにその表情には、万感がこめられた穏やかさがある(写真1参照)。

そして、この解散式の直後に多田さんが映した1枚に、桜の前で記念撮影している高碕の姿もあった(写真2参照)。

「解散式の式場からすぐ近くに、この桜があったんです。そのときに、高碕さんが、たまたま桜をご覧になられて、その桜の前で写したんです。移植前の荘川桜です。私が現像した写真だから、あんまり綺麗じゃないですけどね」

残念ながら、当時庶務課の一社員だった多田さんは、「雲の上の方」と称する元総裁の高碕と直接会話をする機会はなかった。だが、高碕の人柄がうかがえる逸話を披露してくれた。

「私が一番印象に残っているのは、高碕さんが帰京されるという日に玄関先で、村人が松の盆栽みたいなものを『持って帰ってください』と差しだされたんです。そういうものをお土産にというのは、お荷物になるし邪魔かもしれませんよね。当時は東京までは長旅でしたしね。でも元総裁は、『お土産にします、帰りの展望車の中で話題になります』と会話を交わしておられたのを耳にしました」

多田さんが紹介してくれたこの逸話は、高碕達之助という人物について示唆している。

一つは、高碕の村人に対する思いやり。もう一つは、植物に対する優しさである。

それはそのまま、荘川桜の物語を生み出す契機にも直結している。

死守会解散式の直後、ふと高碕は、湖底に沈む集落の様子を最後にもう一度見たい、といった。

村を歩いている最中に、光輪寺の境内で、老桜の巨木と出会った。

そして、この桜を水没から助けたい、といった。

なぜ、光輪寺の桜だったのだろうか。

多田さんが、高碕の思いを代弁してくれた。

老桜の巨木とともに記念撮影する高碕(左から2人目)。ダムの底に沈む運命だった桜を救おうと、この直後に決意する高碕の表情を、多田さんが撮影(写真2)。

「光輪寺の住職さんは、ダム建設に反対していた方で、光輪寺が死守会の集会場にもなっていたとうかがっています。高碕先生は、そんな光輪寺の桜を移植したいという思いだったのでしょうね。ですから、桜の移植について高碕先生がやってこられたことは一貫しているんです。光輪寺の桜に、ものすごい思いがあったんです」

光輪寺の桜を助けることによって、故郷をダムの底に失う人々の心を、少しでも癒したかったのだと、高碕の心情を多田さんは推察する。

その後、高碕が移植のために尽力したことを、この死守会の日ではなく、ずいぶんあとになってから、多田さんは知ったという。だが、思えばこの写真を多田さんが撮影していたそのときに、荘川桜の物語が始まっていた。

「高碕先生が桜と出会われた場面に立ち会うことができたことや、そして今、移植されて花開いている荘川桜のことを考えると、自分にとっても、一生のなかで、荘川桜は、思い出の柱になっています」