荘川桜を語り継ぐ者たち

語り部(壱)ダム建設と桜の移植を陰ながら支えた御母衣の主

多田昇さん

profile:大正14年兵庫県生まれの多田昇(ただのぼる)さんは、昭和27年に設立されたばかりのJ-POWERに入社。すぐに御母衣勤務となり、以来11年近くの長きに渡り、御母衣ダム開 発計画から発電開始までを現地で見届けてきた。荘川桜移植前後の当地の様子や、移植に関わった人々との思い出について語っていただいた(取材=2010年10月21日、本店にて)。

第2回ダム建設と桜の移植を陰ながら支えた御母衣の主(2)

荘川桜の物語は、自然と、人間と、そしてなにより、時代が、生み出したといっていい。

高度経済成長期の入口へと突進しようとする我が国において、電源の開発が急務とされていた時代であった。

昭和27年、J-POWERが設立されたときすでに、国により大規模水力発電所の計画地点の決定がなされていた。当初の開発計画にあった14地点のうち、佐久間に次ぐ最大出力であった御母衣は、すぐにでも建設を開始したい地点とされていた。だが用地買収交渉が難航したために計画は遅々として進まず、この地で庶務にあたっていた多田さんは、昭和32年の着工まで、辛抱強く雪国生活を送るほかなかった。

自身が撮影した、半世紀前のポジフィルムを見る多田さん。「当時はカラーなんて珍しかったんですよ」。

「ダム建設に反対の方たちとの交渉はなかなか進んでいませんでしたし、いつ工事が始まるかわからない状況でした。しかし、当時の日本の電力不足を解消しなければという社員として当然の思いがありましたし、御母衣にこもりっぱなしの私たちを気遣って、本店が励ましのためにテレビを買ってくれたりもしていましたので、(ダム建設を)やるんだ、どうしてもやらなければならないんだ、ということでみんな一致していました」

米の収穫がほとんど見込まれなかった飛騨地方の他の地と比べると、御母衣は、珍しいほど肥沃な穀倉地帯であった。そこに240戸が水没し、約1200人が移転を余儀無くされるというダム建設計画が持ち上がったことで、電源開発促進法案審議中の昭和27年6月には、「御母衣ダム絶対反対期成同盟」が結成された。よって多田さんが御母衣入りした頃にはすでに、水没予定地住民の反発は過熱した状況にあった。

「私が御母衣へ入った当初から、『ダム絶対反対』などと書かれた横断幕がありました。当時の用地課長が私の俳句の先生で、そのご苦労は大変なものがあったと察せられました。しかし、私個人としましては、反対されることも、しょうがないと思ったんですよね。故郷がダムの底に沈んでしまうわけですから、そのお気持ちは、痛いほど理解できますから」

昭和27年11月に用地買収交渉が開始されると、一部住民が同盟会を脱退して交渉に応じる姿勢を見せた。危機感を募らせた残る174戸は団結を強め、「御母衣ダム絶対反対期成同盟死守会(以下死守会)」を新たに結成。死守会が反対運動を激化させたことで、交渉は膠着状態に陥った。だが、反対に多田さん自身は、長くこの地に留まることを覚悟していたこともあり、村人との交流をさらに深めていった。

「死守会という組織を作っているメンバーは、やっぱり団結していましたね。だけど、私が入ってからは、職員や従業員に対して嫌がらせをするような村人はいませんでした。私は庶務だったこともあり、ダム建設について直接地元の方々とお話をさせていただくことはありませんでした。むしろ、仕事以外での交流を深めていき、それを通じて、少しずつこちら(J-POWER)のこともご理解いただけたというかたちではなかったかと思います」

なかなか工事が始まらない焦燥のなか、多田さんは村人たちとの距離感を縮めていくことで、徐々に御母衣に溶け込んでいった。娯楽が少ない村に16ミリフィルムの映画を持ち込んでの上映会を、村人との交流に役立てたりした。

「一般の娯楽映画の上映会を各集落でやりました。私ともう一人とで映写機を回して、みなさんに喜ばれました。のちには、映画『佐久間ダム』(劇場公開当時575万人の観客動員を誇った記録映画)を上映したりして、J-POWERという企業を理解してもらったりもしました。ただね、死守会のメンバーが多かった中野地区には、さすがに私たちは、なかなか入れませんでした。当時は娯楽がなかったですから、きっと中野のみなさんも映画を見たいんでしょうけど、来ませんでしたね」

死守会の解散式にて(写真1)。多田さんが自身のカメラで撮影した貴重な1枚。右から2番目が初代総裁の高碕達之助。右端が初代総務部長の佐々木良作。

まだ死守会との交渉は暗礁に乗り上げたままであったが、昭和32年5月、川の流れを迂回させる仮排水路工事が実施されたことで、実質的にダム建設が開始されることとなった。日本初にして、世界有数の大規模ロックフィルダムである御母衣ダムは、「20世紀のピラミッド」と称されるほどの建造物となる予定で着工された。

多田さんが村人との交流に励んでいた時分、むろん、荘川桜は、まだ光輪寺、照蓮寺の境内に存在していた。その2本の桜を、多田さんは眼にした記憶はないという。

「見てないです。花を咲かせていた姿も、知りませんね」

気にもならないほどに、2本の桜は当地の自然に馴染んでいたのかもしれないし、もしくは、多田さん自身が当地に馴染もうと必死だったために、眼を向ける機会がなかったのかもしれない。

荘川桜は、多田さんを含めた御母衣の人々の活動を、物言わず、静かに見守っていた。

そして、昭和34年11月がやってきた。

多田さんは取材の日、数枚の写真を持参してくれた。

そのうちの1枚、ポジフィルムの原版を光に透かしてみると、浮かびあがったのは、御母衣の山々を背景に、6人の男女が居並んでいる記念写真であった。

それは、荘川桜の物語を語る上では欠かせない有名な1枚で、昭和34年11月の死守会の解散式の模様である。

「実は、これは私が撮った写真なんです。高碕さんも、死守会のメンバーも、ここに写ってるんですよ」

この写真の撮影者が多田さんであったことは知られていないし、死守会解散式の模様についても、これまで多く語られてきたわけではない。

「ちょうど、新しいカメラに買い替えたときで、カラー写真の出始めで、まだネガではなくポジの時代だったんです。たまたま死守会解散式のときにカラーを入れて、いいときに撮影できました。私は用地の担当じゃないから、解散式には入らないで、カメラをぶらさげて、撮影することを目的に行ったんです。ですから、式の中のことは写していませんが、外に出てこられて歩いているところを写していたんですよ」