荘川桜を語り継ぐ者たち

語り部(壱)ダム建設と桜の移植を陰ながら支えた御母衣の主

多田昇さん

profile:大正14年兵庫県生まれの多田昇(ただのぼる)さんは、昭和27年に設立されたばかりのJ-POWERに入社。すぐに御母衣勤務となり、以来11年近くの長きに渡り、御母衣ダム開 発計画から発電開始までを現地で見届けてきた。荘川桜移植前後の当地の様子や、移植に関わった人々との思い出について語っていただいた(取材=2010年10月21日、本店にて)。

第1回ダム建設と桜の移植を陰ながら支えた御母衣の主(1)

2本の荘川桜が、まだ光輪寺と照蓮寺の境内に息づいているときのことであった。

昭和28年7月、多田さんは電源開発(以下J-POWER)に入社した。

ときはまさに電源開発促進法によって(昭和27年7月31日施行)、急激な電力需要の増加に伴う慢性的な電力不足解消のため、大ダム構想の実現が急務とされるさなかであった。戦後の我が国における土木技術史の原点となった佐久間ダムを始めとし、「O.T.M.」と呼ばれる奥只見、田子倉、御母衣の各ダム・発電所建設の推進も、J-POWERの最重要事業とされていた。

大正14年3月、兵庫県美方郡香美町に生まれた多田さんは、逓信省(現・総務省、日本郵政、及びNTT)からJ-POWERへ入社した当時、まだ28歳の独身であった。入社後、御母衣発電所開発計画のため御母衣調査所に着任した。多田さんと、御母衣との、長きにわたる縁の始まりであった。

以来、開発計画の初期段階から、発電所の工事着工や発電開始に至るまで、多田さんは現地の庶務として携わっている。むろん、荘川桜についても、移植から開花まで、じかにその眼で見届けている。

「1期生の方よりはちょっと遅れていますけど、会社設立の翌年に入社しました。それですぐに赴任ということで御母衣へ行きまして、その後、昭和39年1月に本店勤務になるまで、11回も御母衣で冬を過ごしたんです。私よりも長く御母衣にいた人は少なくて、古くからいて事情がわかっているから、『御母衣の主』なんていわれたもんですよ」

そんな『御母衣の主』に、桜が移植されるまでの御母衣での生活などについて、語っていただく。

J-POWER設立の翌年に入社した多田さんは、すぐに御母衣勤務となり、それから約11年、ついには「御母衣の主」と呼ばれるまでに。

「荘川桜が移植されてから、もう50周年ですか......。まだ若かった私も、85歳になります。物忘れはしますけど、俳句をやっていまして元気にしております。私も、荘川桜も、よく生きたものだと思います。私自身、荘川桜には愛着あります。こういう企画について、元気だからこそ、私の話を聞かしてほしいというご要望があるのだし、私もお話をしようという気持ちがあるんです。ありがたいと思っています」

さて、御母衣で11年近くを過ごした多田さん。御母衣に入って2年目の昭和30年に結婚し、2人の子宝にも恵まれた。長男の幼少期まで続いた雪国生活。決して都会育ちというわけでもなかった多田さんだが、樹齢450余年ともいわれる荘川桜が育ってきた自然環境は、想像を絶するものであった。

「冬はね、桜に限らず、人間そのものが生きることだって、あれだけ雪が降れば大変ですよ。4メートルも降雪のあるところでの生活ですから。高速道路(東海北陸自動車道)なんてまだまだない時代に、飛騨街道を白鳥から御母衣まで歩いて帰ったことがありました。わずか10数キロの道程なのに、無理しないでいいからと周囲に止められて、途中で一晩泊まって帰りました。それほど危険な行程だったんです。いまでは高速道路ですぐなのにね(笑)」

当時はまだ近隣都市から遠く離れた場所だった荘川桜の里は、冬場の降雪だけにとどまらず、物資調達にも一苦労だったという。なかでも冬場の食料品調達は困難を極め、新鮮な野菜や果物が摂れないことから、ビタミン不足も心配されるほどであった。

「子供が育ち盛りの頃はよく食べるでしょ。まだ食料品を売っている店が村に2軒しかなくて、平瀬までいったらもう少しはあるけど、わざわざそこまで行けないし、ですから夕飯を作るのに苦労したと家内がこぼしていました。伊勢湾台風のとき(昭和34年9月)には、道が寸断されて一週間くらい孤立して、食料が入ってこなくて大変な思いをしました。また冬場もビタミン不足が心配されて、越冬のために、大根や菜っ葉を、穴を掘って埋めて貯蔵したりしたものです。新鮮な果物が必要だからと、長野までりんごを買い付けにいってきて、家屋の押し入れに籾殻入りの木箱に保管して、1個ずつ取りだしては食べて冬場を凌いだ、なんていう思い出もあります」

国道156号線沿いから見た真冬の荘川桜。「人間そのものが生きることだって大変」。多田さんは、この雪国で11回も越冬した。

また、調査所時代は冬場は遠出することもできず、雪がとけて、桜が咲き始める季節がやってくるまで、御母衣にこもって働く多田さんたちは、退屈した時間を長く過ごさなければならなかった。荘川桜の里には、電波障害によりラジオさえ入らなかったことから、昭和28年に放送が始まったばかりで、当時はまだ一般家庭に普及していなかったテレビが持ちこまれることになった。

「ラジオはザーザー鳴るばかりで入らなかったので、テレビが映るかどうか調べろと所長がいうんです。名古屋のテレビ塔から100キロ以上もあるし、標高700メートル以上もある高地だから、電波が届くかどうかわかりませんでした。それが、高いアンテナを立ててみたら、うまい具合に電波が届いたんです。娯楽室にテレビを設置して、暗幕を張って暗くしてみんなで見ました。現場でテレビがついたのは、東京の本社より早かったんじゃないですか(笑)」

御母衣ダム建設の噂に猛反発されていたにもかかわらず、J-POWERの社員として入村してきた多田さんは、積極的に御母衣の人々とふれあう機会を設けて溶け込んでいった。なかでも喜ばれたのは、社員のために設置したテレビの存在であった。

「御母衣ダム建設反対派の人々との対話については、用地の担当者は苦労した面などいろいろとあったでしょうけど、庶務の担当者は、補償交渉とは関係なくお付き合いをさせていただきました。むしろ、地元の方々との交流は盛んで、大相撲が始まる時間には、村の人がテレビの前に集まって、人垣で見えないほどでした。私達は仕事がありますから5時にならないと見られないんですが、村の人は先に来て見ているんです(笑)。その後、世界遺産になった白川郷の『遠山家』(国指定重要文化財の合掌造り家屋)にもアンテナを立ててテレビを設置するのを手伝ったりして、そのメンテナンスも私がやっていましてね。そんなふうに交流していましたから、荘川桜の移植後に東京の本社へ転勤することになっても、このまま御母衣にいれば白川村の助役でもやれるんじゃないの、なんて冗談をいわれたもんです(笑)」