荘川桜を語り継ぐ者たち

語り部(伍)願いを託された「桜博士」の功績

柴橋明子さん

profile:笹部新太郎氏による、桜に関する膨大な収集物「笹部さくらコレクション」を、西宮市からの寄託を受けて管理保存しているのが、白鹿記念酒造博物館。そこで柴橋明子(しばはしあきこ)さんは、担当学芸員としてこのコレクションの調査研究に携っている。今回は、膨大な資料から読み解く、荘川桜移植当時における笹部氏の「思い」を、柴橋さんにうかがった。(取材=2011年5月27日、白鹿記念酒造博物館にて)。

第4回願いを託された「桜博士」の功績(4)

2本の桜を運搬するにあたり、移植場所の選定にも、笹部新太郎氏は、桜への思いやりを滲(にじ)ませている。

「移植の場所は、私には土地の事情は判らぬが活着した場合、予定地の中野という小字の墓地とあっては観賞の対象としてはどうにもならない。これだけ大がかりの事をする以上は、将来行人の悦ぶ観光資源ともなるようにすべきだ。全国の巨桜はあっても、それがたまたま場所が墓地だというばかりで顧みられない例はいくらでもある」(『櫻男行状』笹部新太郎著)

そうして移送作業が整ったとき、その運搬の合図を、笹部氏が出すことになった。

「と見ると丹羽君らを中心に、周りには電発と間組の人たちが一斉にみな私を見つめている。こんな仕事をするには私は余りに年を取っていて定めしみじめなこの私の姿を見たことであろう。(中略)私はしらずしらずに眼を閉じ、両手を合わせてひたすら神仏のお加護を祈った。そして、さっと右の手を高く上げた」(『櫻男行状』)

そして、昭和35年12月24日、移植が終ったときの笹部氏の心持ちを、白鹿記念酒造博物館の学芸員・柴橋明子さんに代弁していただいた。

水没記念碑除幕式での笹部新太郎氏。「荘川桜」と命名されたばかりの桜とともに。(写真=西宮市笹部さくらコレクション─白鹿記念酒造博物館寄託─)

「ほっとされたと思います。とりあえず一段落だと。しかし、その後は、複雑なお気持ちになったかもしれません。感謝されると思っていた村人たちから、非難の言葉を投げかけられたり、手紙を受けとったりしましたから。枝を伐(き)られて裸にされ、布を巻かれた桜を目にした村人は、こんな無惨な姿になるのなら、そのまま湖の底へ沈ませてやればよかったと。莫大な費用を使い、専門家が事にあたってもこれでは酷いではないかと」

その村人からの手紙に、笹部氏は「目の前が真っ暗くなった」(『櫻男行状』)という。さらには研究者たちのあいだからも非難され、「私にはただ、流れる歳月をじっと待っているよりほかに手がなかった」(『櫻男行状』)。

そこで笹部氏は、「これまでの強気もどこか失せてしまって、ただ何者にも取りすがりたいような気に」(『櫻男行状』)なってゆき、連日J-POWERの大阪連絡所に電話を入れては、桜のその後の様子を確かめている。心細かったそのときのことを、こう書き残している。

「一日一日をちょっとした事でも気のつく事は一つ一つ、電発大阪事務所から現地に電話してもらったが、その都度誰一人いやなそぶりを見せる職員もなかったことは、自分にはこれだけの味方があるのだと、いつもどうかするとぐったりもする私の心を引き立ててくれた」(『櫻男行状』)

待ちに待った翌春、枝が伐り払われた2本の桜に、30センチほどの蒼い若芽をふいたという報せに、笹部氏は胸を撫でおろした。

昭和37年6月12日、水没記念碑除幕式が催された。

ここで笹部氏は、日ソ漁業交渉でソビエト連邦から帰国したばかりの高碕達之助と再会し、丹羽政光氏とともに、紅白巻に飾られた2本の桜を、見届けている。

そこに集まった約500人の村人たちは、この桜の幹を手で撫でながら涙し、声を上げて泣いたという。

その光景を見ていた笹部氏の感想は、いかにも彼らしいものであった。

「木に寄する愛情から木をなでて独り言をいうのは、この私にも武田尾の山でよく園丁から笑われたことは前篇にも書いたかとも思うが、こうした情景を見るのは初めてのことである」(『櫻男行状』)

移植された2本の桜は、「荘川桜」と名付けられた。
それからまもなく、高碕も、丹羽氏も、この世を去ったが、笹部氏は、90歳を超える長寿を全うした。
そして、そのあいだ、荘川桜のことを気にかけつづけていたという。

いまでも荘川桜が壮健に花を咲かせ、春には多くの人々がそれを愛でていることや、その管理を、高碕の意志を継ぐJ-POWERが担っていることを、もし、笹部氏が知ったら、どう思うのだろうか。最後に柴橋さんは、微笑みながら答えてくれた。

「荘川桜も、わが子のように見ていたであろう笹部先生ですから、先行きは誰よりも心配していたかと思います」と思いを馳せる柴橋明子さん。笹部新太郎氏の残した記録を手に。

「荘川桜も、わが子のように見ていたであろう笹部先生ですから、先行きは誰よりも心配していたかと思います。桜は生き物で、笹部先生が手掛けられた多くの桜も、いまは残念ながら残っていないものが多いんです。それが、荘川桜はこのようなかたちでいまも残り、多くの方々の目に触れていることは、私が言うのもおこがましいですが、ササベザクラの新種発見と同様に、桜に生涯を捧げた笹部先生への、神さまからのご褒美ではないかと思っています」

水没記念碑除幕式の直前、笹部氏は、こう書き残している。

「それにつけても思うことだが、この二本の桜、本来ならば文部省なり、所在県庁なりが移植については当然手をさしのべるべき筈の仕事を、電源開発が、自分の手でやり終せた事実を誰よりもよく知っている私には、とかく、これまでは、にべもなく山川を何の思いやりもなくぶちこわしている組織とばかり早合点をしていただけに、この迂闊なはきちがいを遅蒔ながら改めさせてもらったのに感謝する」(『真珠』昭和37年4月1日号)