荘川桜を語り継ぐ者たち

語り部(九)伯叔父・高碕達之助との思い出

高碕三起子さん

profile:高碕家の現当主である高碕康司さんの夫人であり、高碕達之助が伯叔父にあたる高碕三起子(たかさきみきこ)さん。幼少の折、生家を訪れた高碕達之助との、2人きりの懐かしい思い出がある。それは、荘川桜移植にも通じる、自然をこよなく愛する高碕が垣間見せた素顔だった。(取材=2011年9月20日、大阪府高槻市・高碕邸にて)。

第1回伯叔父・高碕達之助との思い出

伯叔父である高碕達之助に、高碕三起子さんは可愛がられた。
高碕が晩年に帰郷した際、幼かった三起子さんにとっての、唯一の伯叔父との思い出がある。

「伯叔父がここへ帰ってこられると、警察官ですとか、SPの方々がついてこられるんですよね。その様子のせいか、私は伯叔父が怖い人のように思えてしまって、近寄りがたかったんです」

すると、突然にその高碕から三起子さんは呼ばれたという。

淀川の堤防から望む高碕家。高碕三起子さんは、淀川で泳ぐ高碕達之助の姿を、いまでも憶えているという。

「この座敷に入るなり、思いついたように、三起子、ついてこい、そういわれるんです。お声も大きくて、怖くってね(笑)」

高碕の大きな背中を追い、恐る恐る三起子さんがついていった先は、実家のすぐ傍(そば)に流れる淀川だった。

「浴衣を着て行き、それをお脱ぎになって、泳ぐんです。そこには2人だけで、私は伯叔父の浴衣を持って待っていました。伯叔父はパンツ一枚で。どれくらいの時間だったか、30分くらいだったのでしょうか、私はずっと待っていました」

当時は、ちょうどJ-POWERの初代総裁として辣腕(らつわん)を振るいながら、多くの事業を抱えている最中で、激務の合間に、故郷で羽根を休めていたものと思われる。

「母がいうには、帰ってきたら、母が漬けたお漬物を、キュウリとナスの古漬なんですけれど、生姜醤油をかけて、それがいちばん美味しいといって召し上がってくれはったそうです。母は、それが嬉しそうでした」

前回の高碕家の菩提寺である法光寺前住職の牧尾空祥さんのお話にも、「古漬」が出てきた。
高碕の素朴さがうかがえる逸話である。
そして、高碕の数々の偉業のなかでも、荘川桜の移植こそが最も「先生らしい」と三起子さんは語る。
ちょうど、三起子さんを川原に待たせて淀川を泳いでいたその年あたりに、高碕は御母衣ダム建設予定地を訪れた際に、荘川桜を救いたいと着想している。
故郷を愛する高碕には、やはり失われてゆく故郷を思う御母衣(みぼろ)の人々の心情が、痛いほどに理解できたのだろう。

「大きくなってから、荘川桜の話を知りました。そんな桜があるんだって。知ってからは、テレビなどで紹介されるたびに、熱心に見るようになったんですよね」

実際の荘川桜も、三起子さんは大人になってから2度訪れている。

いまでは、毎春、荘川桜の開花が気になるという、高碕三起子さん。「荘川桜の子孫が全国に植えられていると聞き、先生の思いが未来へとつながってゆくようで、ほんとうにありがたく思っています」

「寒いときと、花が咲いて終わりかけのときと、2度荘川桜を目にすることができました。あんなに老木なのに、お花が咲いているだけでも驚くべきことなのに、湖の底に沈むはずだった場所から引きあげられて移植されただなんて。上にあがって助かって、ほんとうによかったなと思いました」

そんな荘川桜移植のきっかけを作ったのが、淀川で泳いでいたあの高碕だと思うと、三起子さんは不思議な感じがするという。

「もちろん、誇らしいという思いもありますが、移植されたというそのこと以上に、みなさんの努力のおかげで、ずっと咲き続けているということが、私にはありがたく思えます。荘川桜が生きているからこそ、高碕達之助の名前が、いまだに語り継がれているのですから」

昭和39年2月24日、高碕は79歳で永眠している。
それは、高碕が長年自宅で飼っていたゾウガメが死んだ翌日のことだった。
自然を愛し、動物を愛した高碕は、「カメの背に乗って竜宮へ旅立った」と、近親の者には語り継がれているという。
毎月24日、高碕の月命日に、高碕家では法光寺の住職にお参り頂いている。

「先生のこと、そして荘川桜のことを、みなさんが大切に思ってくださっていることに、感謝しています」