荘川桜を語り継ぐ者たち

語り部(八)名誉市民・高碕達之助を偲んで

牧尾空祥さん

profile:高碕家の菩提寺である高槻市の法光寺。その前住職であり、昭和4年生まれの牧尾空祥(まきおくうしょう)さんには、寺で高碕達之助と接した思い出がある。高碕が名を隠して釣鐘を寄贈してくれた秘話や、高碕の人柄ゆえに生まれた荘川桜移植の偉業について、高碕家の仏壇にある、高碕の遺影の前にて語っていただいた(取材=2011年9月20日、大阪府高槻市・高碕邸にて)。

第1回名誉市民・高碕達之助を偲んで

高碕家の菩提寺である高槻市の法光寺には、戦後に作られた釣鐘がある。
戦前のものは第二次世界大戦中に、軍に徴集されてしまい、当時は寺に釣鐘がなかった。それを寄贈したのが、高碕達之助その人だった。
前住職の牧尾空祥さんに語っていただいた。

「私の父が、茨城中学で高碕先生の後輩でして、しかも当時の村長さんも先生の同級生で、仲がよかったようでした。そして、先生が帰郷された折、うちの檀家さんが、釣鐘がないというお話をされたんやと思います。ですが、うちは浄土真宗なんですけど、近くに日蓮宗の寺もある。もしうちだけに釣鐘を寄贈されたら妬(ねた)まれますやろ。そやから、先生ご本人の名は出されることなく、寄贈してくださったんです」

高碕家の菩提寺、法光寺の牧尾空祥さんに、高碕家の仏壇の前にて語っていただいた。そこには高碕達之助の遺影があり、それを眺めて牧尾さんは、「こんなに見事な政治家が、またこの地から育つことを夢見ています」。

釣鐘が完成したとき、高碕もかけつけ、その荘厳(そうごん)な音を耳にしたという。
そのときの様子や、人伝(ひとづて)に聞いた高碕達之助像を、牧尾さんはこう語る。

「あんなにお偉い方ですのに、用意されたお食事の魚には手をつけられず、古漬を持ってきてくれと、これは美味いいうて、召しあがっていたらしいです。その逸話だけでも、とても気さくな方だったことが偲(しの)ばれますね」

また、こんな逸話も牧尾さんが語ってくれた。

「先生の上着のポケットに、なぜかマッチの軸が何本も、折れて入っていたそうです。なぜそんなものがあるのかと人に訊(たず)ねられると、国会議員は苛々することが多く、まさか怒鳴るわけにもいくまいから、ポケットのなかでこれを折ることで我慢しているんだと。そうした激務の合間に故郷へ帰ってこられ、ほっとしたときを過ごしていらしたのかもしれませんね」

気さくで、それでいて短気でもあった高碕は、一方で、信心深く、慈愛の心も満ちていた。
それは、昭和29年3月、東大阪市の慈眼寺に悲母観音を建立した事業でも垣間見られる。
牧尾さんは、高碕のそんな心は、母への追慕(ついぼ)の念からきていると察する。

「政治家は、とかく細やかなところまでは目が行きとどかないようなところがあります。なのに先生は、動物や自然がお好きで、弱い立場のものを愛することができる精神をお持ちでした。それは、小林一茶が幼少期に母と死別して、さびしさを感じ、あれらの素晴らしい句を詠んだのと同じようなことが、先生にもおありだったように思うんです。お母さんに幼い頃苦労をかけたという懺悔(ざんげ)の心とか、お母さんに病死されてからの改心が、あれだけの偉業の根幹にはあるのかなと」

たしかに、幼少期の高碕は母に涙されるほどの「悪童」で、しかし中学3年生のときにその母と死別すると、そこから勉学に勤(いそ)しんで立身出世をはかったとされている。
そして、慈眼寺の悲母観音は、そんな高碕の母をモデルに、母の生地に建立された。

高碕家の旧家が、いまは高槻市柱本の公民館として寄贈されている。地域に多大な貢献をした高碕達之助は、高槻市の名誉市民にもなっている。

「晩年の荘川桜移植の事業も、そのお話そのものが素晴らしく、先生のお人柄を象徴しているように思われます。先生は、よくおっしゃっていたそうです。自然や動物は、嘘をつかんと。正直やと。自然や動物の気持ちまでをも理解されて愛していらっしゃったのでしょうが、おそらく、荘川桜も、そうだったと思いますよ」

その荘川桜を、いまは亡き高碕を偲(しの)びつつ、牧尾さんは現地へ赴(おもむ)いて見にいっている。

「先生を始めとして、荘川桜に関わったすべての人々の誠意、心掛け、そして人間の輪、それら因縁が結合して、花を咲かせているのだと思います。素晴らしいなと感激しました」