荘川桜を語り継ぐ者たち
語り部(七)政治家・高碕達之助と寄り添った日々
岩田規夫さん
profile:昭和8年生まれの岩田規夫(いわたのりお)さんは、高碕達之助の姉の孫にあたる。高碕達之助が故郷・高槻市で衆議院議員選挙に出馬した際、岩田さんは秘書として約2週間、選挙運動に帯同した経験を持つ。そんな岩田さんに、政治家・高碕達之助の素顔と、荘川桜の思い出を語っていただいた(取材=2011年9月20日、大阪府高槻市・高碕邸にて)。
第1回政治家・高碕達之助と寄り添った日々
岩田規夫さんが初めて高碕達之助と会ったのは、大学4年生の昭和29年のこと。就職を頼みに高碕邸を訪れた。
「最初にいわれたことが、このバカモンが、と。頭ごなしに怒鳴りつけられましてね(笑)。大学なんて行かないで、百姓をしていればよかったんだと。東洋製罐の大阪工場へ履歴書を届けろと。それが最初で、10月に東京で入社試験があり、その際は先生が、ブラジルのサンパウロ市400年祭等へ日本の代表として招かれていて、先生のお部屋が空いていたわけです(東京・信濃町の高碕邸)。先生のベッドに、1週間泊めていただいた思い出があります」
東洋製罐の入社式を4月に控えていた昭和30年、高碕の故郷であり、岩田さんの実家がある大阪の高槻市(旧・大阪3区)から、高碕が衆議院議員選挙に出馬することになった。すでに前年の昭和29年には、第一次鳩山一郎内閣で経済審議庁長官(現・経済企画庁長官)を民間として務めていたが、あらためて政治家として、さらなる日本の発展に貢献したいという意向だった。
実家にいた岩田さんは、秘書として2週間、その選挙活動を手伝うことになった。
当時、選挙カーとは別に、一般車に高碕と同乗して各地の演説会場へと走りまわった。

「乗用車のなかから、あれはなんだ、これはなんだと、道にある珍しいものについて先生が私に訊(き)かれるんですね。知りませんと私がいうと、またバカモンが、と(笑)。バカモンが、は口癖のようなもので、しょっちゅういわれていました。ほんとうに大きな声で、助手席にいる私を、後部座席から怒鳴るわけです。あとで、一緒にいらした先生の長女が、ノリオちゃん、辛抱しとってなと慰めてくれましてね。演説内容までは憶(おぼ)えていませんが、けっこうお話がうまかったと思います。私を怒鳴るときのあの声が、よく通りましたね(笑)」
衆議院議員初当選から5年後、ちょうど荘川桜の移植が終わった年のこと。帰郷した高崎とともにした時間が、岩田さんには忘れられない。
川に投網を打ち、雑魚(当地ではジャコと称する)を捕まえて大豆とともに砂糖と醤油で甘辛く煮る「雑魚豆」が、高碕の好物だった。
その日、投網を打ちはしたものの、川底で引っかかってしまい、引きあげられなくなった。
「おまえがいちばん若いんだ、おまえが入れといわれ、パンツひとつになって泥のなかへ入って、大きな石を除けましてね。先生も、ステテコ一枚の姿で一緒にやっていました。それが、故郷でゆっくりされた最後だと思います。のんびりされていた姿が思いだされますね」
その後、活着に成功した荘川桜を見に、岩田さんは4度も、現地へ赴(おもむ)いている。
「移植の話を最初に耳にしたときには、古いものを残す、自然を愛するという、先生の精神が根底にあったような感じがしました」
高碕は絶滅が危惧(きぐ)される動物の保護に尽力し、数々の動物を動物園に寄贈したことで知られている。また、自らも動物愛好家で、ワニや、ダチョウを飼育するなどしている。
「地元にある高碕邸へ幼い頃に訪れたことがあるんです。そこにはワニがいて、怖いといって隠れていた記憶もあります。そのワニの剥製(はくせい)が、大学に寄贈されたものが一つあり、私の家にも一つ残っているんですよ」

古きものや自然を愛(め)でた高碕の象徴的事業でもある荘川桜は、岩田さんにとっても、大切な景勝地となっているという。
「無謀で、移植はあかんのではないかといわれるほどの古木、大木でしたけれど、先生の思いや関係者のご尽力で、見事に花を咲かせるようになりました。私も満開の荘川桜を見たことがありますが、一本の樹であれだけ立派な桜は、全国でも一番だと、私は思っています」
そして、岩田さんは、もし、いまの時代に、高碕が存命であったならと想像する。
「政界、経済界で、あれだけの方が、いまの時代にいたなら、そう思ってしまうんですよ。この日本の危機に、先生なら、どう判断されたかなと」
現代、そして未来にまで、咲き続ける荘川桜。
白く可憐な花が、高碕の思いを代弁しているかのようにも感じられる。
「荘川桜は、先生の数々の事業のなかでも、いちばんの偉業じゃないかと思っています」