荘川桜を語り継ぐ者たち

語り部(六)兄・高碕達之助への追懐

宮田譲吉さん

profile:高碕達之助の実弟が存命である。32歳年下で、大正6年生まれの宮田譲吉(みやたじょうきち)さんがその人だ。宮田さんが物心ついた折には、すでに高碕は製缶会社「東洋製罐株式会社」を設立する実業家として活躍していた。宮田さんが若かりし日には、高碕の仕事を手伝い、たびたび叱責された思い出もあるとか。そんな畏敬(いけい)の兄と、兄が移植に尽力した荘川桜について語っていただいた(取材=2011年9月20日、大阪府高槻市・高碕邸にて)。

第1回兄・高碕達之助への追懐

実業家、政治家として、戦前から日本の発展に尽力してきたJ-POWER初代総裁の高碕達之助。
荘川桜の移植における主人公の一人でもあるその人を、実弟である宮田譲吉さんは、こう語る。

「僕にとっては普通の人ですね。ともかく、よく人を動かす人。それで、よく叱る人でした」

高校を卒業する際に東洋製罐へ提出した成績表を、高碕が2~3年後に見たときのことを、94歳になった宮田さんは、いまだに記憶している。

「おまえ、なにしとんねん、この成績なら、大学へ行けたやないか、なんで大学へ行かないのかと、ものすごく怒られまして。僕は、いい成績だったらしいですわ(笑)。でも、四角四面なことが嫌いやったんです。なんで行かないのかと訊(き)かれて、誰も行けっていうてくれへん、自分じゃあかんと思って、というと、また怒られて、もうボロクソでした」

初めて移植されたばかりの荘川桜を見たとき、宮田譲吉さんは、「こりゃあかん」、そう思ったという。だが、実兄・高碕達之助の思いは、見事に花開くことになる。

宮田さんが高校を卒業した昭和9年当時、すでに高碕は東洋製罐株式会社を設立し(大正6年)、事業を軌道に乗せていた。そこで実弟の宮田さんは、まずは工場の事務方として働くことになった。

「ところが、九州の戸畑工場へ3月に来いというのを、僕は4月まで放っておいた。すると、おまえ行っとらへんじゃないかいと、また怒られて(笑)。カネはないわ、なんにもないわ、切符だけもろて、裸一貫、大阪から九州ですわ。下宿せいといわれても、なんにもないから工場長に話したら、寝るところはちゃんとやったるって話でしたが、蒲団(ふとん)もなにもありませんわな」

約半年後、その工場へ高碕が現れると、こんどは大阪の工場へ行くようにいわれ、そこでは3年ほど現場で下積みの仕事をすることになった。

「事務をやれといわれましたが、僕、事務はかないませんというと、ほな現場行けと。そんなだったんです。こき使われるとは、あのことですわ(笑)」

以降は、東洋製罐関連の商事会社で営業職に就き、それからも高碕の命で関連企業を転々とした。

「辞令なんて、もらったことがないんです。高碕の一言で、どこへでも行かされました。つぎはどこへ行かされるなって、だいたいわかっていましたから、私、辞めますわって、12年間いた東洋製罐を辞めました。そしたら、また怒られました(笑)」

高碕と離れてプラスティック関連の事業を始めた宮田さんだが、それからも、高碕との交流が途絶えることはなかった。

「なんだかんだと私的なことばかりで、ずっと交流はありました。高碕にはよく怒られましたけど、頭の回転が速いんですね。その点は僕もよく似ていますわ(笑)。相手の気持ちを察し、なにを話してくるか、先読みしているしね。その点はたいしたものでした」

高碕の晩年の活動で、宮田さんが感心したのが、荘川桜の移植だった。
当初、その話を耳にした宮田さんは、高碕の着想に、驚くというより呆(あき)れた。

「あんなところに桜の樹をもっていって、そんなもん、つくかい、そういうとったんです。僕は、枯れるとふんでいました」

その予想は、むろん高碕には話さなかった。

生き写しと思えるほど、兄の高碕達之助とよく似ている宮田譲吉さん。大切にしている兄からの言葉は、と問うと、「なにもないなあ。怒鳴られた思い出ばかりや(笑)」。

「いってない。そんなこといったら、なにいってるか、と怒鳴られますから(笑)。桜の話はあまりしていませんが、えらい大仕事したと、それだけ、軽くいっていましたよね、自分では。でもたいへんなことだったと思いますよ。大型クレーンを使って移植したと聞いていますから」

移植されたばかりの荘川桜を目にし、宮田さんは自身の予想に確信を抱いた。

「びっくりしました。僕は、あかんと思っていました。まるっきり裸でしょ。裸というより酷(ひど)くて、枝が伐(き)り払われた幹だけ。綺麗さもなければ、なんにもないですから、こりゃあかんわと」

ところが、宮田さんの予想は外れ、荘川桜は見事に活着する。

「たいしたもんですな。移植当時から、見とれよ、もっともっと生きよるぞと、本人はそういうていました。しかし本人が、その桜よりも先に死んでしまうんですから。葉がついている桜を見たときには、これは偉いことやなと思いました」

「見とれよ、もっともっと生きよるぞ」
そういったという高碕は、移植から4年後の昭和39年、腹膜炎のために東京・信濃町の自宅で急逝した。
けれども、荘川桜は、移植50周年を迎え、高碕亡き後も、花を咲かせている。
2度、現地へ足を運んで荘川桜を見たという宮田さんは、花の時期ではなかったため、葉桜を楽しんだ。

「ほんとうに、たいしたもんですな」