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でんき犬とともに
1956年~2052年の時間旅行へ出発!
J-POWERの歴史、
今後の取り組みについてご紹介します。
「でんき」にまつわる
生活の豆知識も掲載しているので探してみてね♪
1952
1952
社会課題と新しい取り組み
戦後、極端な電力不足に陥った
日本の復興と経済発展のために
1945年に終戦をむかえ、復興にむけて歩みはじめた日本。それに伴い電力需要も急増していきますが、当時の主要な電源であった火力発電所は、戦災により以前と同等の電力を生み出すことができませんでした。また、燃料となる石炭は炭鉱の荒廃、空襲による被害などが原因となって産出量が半減。日本は深刻な電力不足に陥り、東京では1日おきに停電が起きていました。
そんな日本の電力不足を克服すべく、1952年7月に「電源開発促進法」が成立。この法律に基づいて、同年9月に設立された電源開発株式会社(J-POWER)は、まず大規模水力発電の開発に取り組みました。
1956
佐久間ダム
1956
J-POWERの想い・挑戦
当時の日本の土木技術では
不可能と呼ばれた工事への挑戦
静岡県佐久間村(当時)は、天竜川の中流部に位置します。
天竜川は夏季の多雨と冬季の降雪により年間を通じて膨大な流量に恵まれていたことから、古くから水力発電の適地とされてきました。しかし、断崖絶壁の難所であったことから、当時の日本の土木技術では大規模な工事は不可能と言われていました。
そんな中、J-POWERは日本で初めてアメリカから大型土木機械を導入し、不可能と呼ばれた土木工事を完遂。当初10年以上かかると言われた難工事を、わずか3年で成し遂げました。完成した佐久間ダムは、高さ155.5m、頂長293.5mにものぼり、当時としては日本一の大きさを誇りました。
1956~
1956~
J-POWERが貢献した社会
「もはや戦後ではない」
高度経済成長の日本を明るく
日本経済は、戦後復興著しい高度成長期が訪れました。1956年「もはや戦後ではない」という言葉が経済白書に記され大流行し、人々は映画館の新館ブームに沸き、デパートの建設ラッシュが始まりました。
また、銀座では明治初期に文明開化の象徴として建設されたアーク灯が復元されました。
そんな中、佐久間水力発電所は年間平均約14億kWhという日本一の電力量を生み出し続けることで戦後の復興と経済発展を支え、電気で人々を明るくしました。
1960~
1960~
社会課題と新しい取り組み
格差にあえぐ途上国のために
海外技術協力という使命を帯びる
1950年代後半から、世界の途上国と先進国間の経済格差に関するさまざまな問題、いわゆる「南北問題」がクローズアップされるようになりました。国際連合は途上国の経済開発促進による南北問題是正の取り組みを進め、日本も経済協力の一環として技術協力を行うようになります。技術協力の中でもインフラ、とりわけ電力供給は、国の根幹を支える重要課題のひとつでした。
日本の技術協力は、当時国策企業であったJ-POWERもその担い手となりました。1960年に電源開発促進法が改正され、J-POWERは海外からの要請があれば政府の許可を得て技術協力が可能になり、海外技術協力を通じ、世界の発展に貢献していくこととなります。
1962
タクナ水力発電計画(ペルー)
1962
J-POWERの想い・挑戦
日本で培った水力発電技術を活かし、
数々の技術支援により途上国の発展に貢献する
佐久間ダムの難工事を成し遂げたJ-POWERは、国内外からその技術力を高く評価され諸外国の河川開発調査への参加要請がなされるようになりました。そこで、日本で培った水力発電の技術力を活かそうと、海外での技術コンサルティング事業がスタート。1962年のペルーにおける「タクナ水力発電計画」は、J-POWERの海外コンサルティング事業の礎を築いた計画となりました。
タクナ水力発電計画への協力を皮切りに、1967年のタイ「クワイヤイNo1(シーナカリン)水力発電計画」、1969年のトルコ「ハサンウールル水力発電計画」のプロジェクトによって技術を磨き、各国との信頼関係を構築し、海外での事業基盤を強化していきました。
その後は、水力発電だけでなく、大規模送電、大規模石炭火力、揚水発電など、アジアを中心に多くの途上国で幅広い技術協力を行うようになりました。現在まで実施した海外コンサルティング事業は370件を超え、世界の持続可能な発展に貢献し続けています。
1962~
1962~
J-POWERが貢献した社会
途上国、そして世界中を明るく
1960年代は、J-POWERの技術支援により、人々の生活条件の改善に貢献していく水力発電所が当時の途上国で続々と建設されました。電力インフラの確立は、各国の経済・社会・暮らしを支える大きな原動力となりました。その後、途上国だけでなくJ-POWERの技術支援は全世界に拡大していき、今日まで64か国、374件にのぼります。
この長年の技術支援で築いた信頼関係が実を結び、2000年代には海外での発電事業も開始。今までも、そしてこれからも世界中の人々の暮らしを明るく照らし続けます。
1970~
1970~
社会課題と新しい取り組み
地域間で電力を融通し合えるように
送電線など広域運営の役割を担う
戦時中の電気事業は国家統制の下にありましたが、戦後の1951年より民営の9電力体制(沖縄返還後は沖縄電力の加入により10電力体制)が始まりました。この体制は一定の成果を上げた一方で、各地域の電力会社がそれぞれ独自の供給体制を整備していたことから、地域間での電力融通が困難といった新たな課題を生み出していました。
こうした課題を解決しようと、1958年に9電力会社とJ-POWERは「広域運営に関する協定書」を締結し、広域運営体制が発足。J-POWERは電源の開発に加え、生み出した電力の運用面でも日本の電気事業全体の効率化に協力することとなりました。
日本の電力系統は、北海道、本州、四国、九州に分かれ、電力系統の周波数も東西で50Hzと60Hzの2系統に分かれています。こうした分断を解消し、経済性や安定供給を向上させるため、J-POWERは電力系統の連系に取り組むようになります。
1979
北本連系設備
1979
J-POWERの想い・挑戦
北海道から九州までの電力系統を連系し、
日本の電力系統をひとつにする
J-POWERの送変電事業は、1962年の中国と四国を結ぶ中四幹線の建設からはじまりました。1965年には、東日本(50Hz)と西日本(60Hz)の異なる周波数間の電力供給を日本で初めて可能にした佐久間周波数変換所を建設し、送変電事業の実績を着実に重ねてきました。
とりわけ、1979年に運転を開始した北本連系設備(60万kW)は、日本初の高電圧直流送電という技術の導入により、北海道から本州間の連系を実現しました。日本の電力系統を、北海道から九州までつなげた画期的な出来事でした。
北海道から本州間は津軽海峡によって隔てられており、長きにわたって技術的、経済的に連系が困難と言われていました。そこで、J-POWERは通常の交流送電ではなく、これまで実績が少なかった高電圧の直流送電を採用することで連系を実現。J-POWERの新たな発想と技術力が発揮された事業でした。
1979~
1979~
J-POWERが貢献した社会
電力系統をつないで、日本を明るく
北本連系設備の完成は、東日本地域の電力会社を中心に電力を相互に融通しあうことによって、各社の電力供給の安定性を高め、発電コストを引き下げる経済効果を発揮しました。また、2011年3月11日に発生した東日本大震災では、震災発生から2日後の13日午前2時45分、北本連系設備は本州側に送電を開始、約半年間60万kWのフル稼働を続けました。半年間の累積通過電力量は約23億kWhにものぼり、震災復興の支えとなる電力インフラとして活躍しました。
現在J-POWERグループは、日本全国の地域間を相互に連系する地域間連系設備を含め、総亘長約2,400㎞におよぶ送電線と4ヵ所の変電所、4ヵ所の交直変換所、1ヵ所の周波数変換所を保有しており、日本全体の電力系統の広域的な運用に貢献しています。
1979
1979
社会課題と新しい取り組み
オイルショックで石油火力発電の見直しへ
新たな資源として海外炭が注目される
1973年の第四次中東戦争を機に第1次オイルショックが始まり、1979年にはイラン革命を機に第2次オイルショックが発生しました。これによって原油生産が削減され石油価格が高騰し、世界的にエネルギーに対する不安が広まっていきました。日本では、石油価格とは直接関係のないトイレットペーパーの買い占め騒動が発生し、人々がパニックに陥りました。
この石油価格の高騰により、当時の発電量の7割以上を占めていた石油火力発電においても、海外からの安価な原油の輸入が難しくなり電気料金は高騰。
かつて石炭火力発電で一時代を築いた、日本国内の石炭も採掘量が少なくなっており、日本は新たな電源の確保を求められました。
そこで着目したのが、海外から石炭を輸入して発電を行う「海外炭火力」です。
J-POWERは、日本で初めて海外炭を主燃料とする火力発電所の建設を開始しました。
1981
松島火力発電所
1981
J-POWERの想い・挑戦
日本で初めて海外炭を主燃料に
エネルギー安全保障の礎を築く
石油火力発電に大きく依存していた日本は、2度のオイルショックを機に電源の多様化が求められました。
そこでJ-POWERは、安定的に電力を供給するために、海外輸入炭による大規模石炭火力の建設・稼働に挑みます。
1981年に運転を開始した松島火力発電所は、全国的にもあまり例をみない島に位置する大型の発電所です。大規模な輸入に必要な広い貯炭場を確保することができ、世界の産炭地から安定的に石炭を確保することに成功しました。最大の懸念点であった発電コストは石油危機による石油価格の上昇が続き、運転開始後石油火力と石炭火力のコストは逆転。安価な電力を安定供給することを実現し、人々の生活を支えました。
1981~
1981~
J-POWERが貢献した社会
80年代の好景気を明るく
1980年代後半はいわゆるバブル景気と呼ばれ、物価が安定していた一方、株価と地価が高騰しました。不動産・ホテル業界はリゾート地開発を次々と行い都心にはいわゆる「億ション」が建設されました。
松島火力発電所の1号機・2号機がつくる100万kWの電力は、長崎県の平均電力需要の約7割をまかなうことができる規模で、九州の経済・社会・暮らしを支える大規模な火力発電所となりました。また、松島火力発電所の成功により、海外炭を利用した石炭火力発電所の建設が進みました。J-POWERは1983年に竹原火力発電所(3号機、広島県)、1986年には石川石炭火力発電所(沖縄県)の運転を開始。石炭火力という新たな発電方法の拡大により、1980年代の日本の好景気を支えました。
1990~
1990~
社会課題と新たな取り組み
地球環境問題が国際的な課題として浮上、
電源の多様化も重要な課題に
冷戦が終わり新たな時代へ突入した1990年代。グローバルな課題として浮上したのが、環境問題です。国際社会においては、「持続可能な開発」が人類の現在及び将来の基本的課題であるとの共通認識が形成され、オゾン層の破壊、酸性雨、地球温暖化などが、地球規模の環境問題として挙げられました。
日本では1994年に「新エネルギー導入大綱」が策定され、国全体で再生可能エネルギーにどのように取り組むかという指針が示されました。これにより、風力発電や太陽光発電といった再生可能エネルギーの導入など、電源の一層の多様化も重要になってきました。
しかし、当時はまだまだ大規模な再生可能エネルギーの導入は先の話だと考えられていました。そうした中、J-POWERは2000年12月、日本の大規模な風力発電の黎明期と言える時期に、苫前ウィンビラ発電所の運転を開始しました。
2000
苫前ウィンビラ発電所
2000
J-POWERの想い・挑戦
日本における大規模ウィンドファームの先駆け、
苫前ウィンビラ発電所の運転を開始
地球環境問題への関心の高まりや電源の多様化の重要性が改めて見直されるなか、J-POWERは苫前ウィンビラ発電所(北海道苫前町)の運転を開始しました。
苫前ウィンビラ発電所は、当時国内最大級の規模を誇った日本における大規模ウィンドファームの先駆けといえる存在です。また、発電所は町営牧場内に位置しており、牧場経営との共存に配慮するといった先進的な取り組みも注目されました。
J-POWERがいちはやく取り組んだ大規模風力発電事業は、日本における再生可能エネルギー事業の未来を拓く力となりました。
2004~
NEDOと共同実施の洋上風力発電実証研究
(福岡県北九州市沖)
2004~
J-POWERが貢献した社会
民営化と新生「J-POWER」
21世紀の社会を明るくクリーンに
特殊法人改革の一環として、1997年にJ-POWERの民営化が閣議決定されました。その後、2004年に完全民営化を果たしたJ-POWERは、風力などの再生可能エネルギーの開発や本格的な海外発電事業をはじめとした多様な事業展開を行っていきました。
とりわけ風力発電事業においては、苫前ウィンビラ発電所を風力開発の足がかりとして、現在全国25地点に風車を建設、出力合計は50万kWを超え、風力事業者として国内2位の規模を誇っています。苫前ウィンビラ発電所の開発以降、他の電力事業者も含めてさまざまな大規模ウィンドファームが誕生しました。日本の風力発電は全電力の1%に満たないですが、これからさらに増えていく風力発電事業において、苫前ウィンビラ発電所の開発は大きな一歩を刻むことになりました。
現在、J-POWERはさらなる風力発電事業の拡大に向け、新規開発に積極的に取り組んでいます。
また、国内でも本格導入が期待される洋上風力発電にも力を入れており、福岡県響灘沖では国内最大級となる洋上風力発電所の建設準備を進めています。
2007~
2007~
社会課題と新たな取り組み
成長著しい新興国で電力需要が増加、
直接、海外で発電事業を行う
1990年代に入り、東南アジア、インド、中国、中東などの新興国の経済発展はめざましく、電力需要は大幅に伸びました。加えて、90年代後半になると世界的に電力自由化が進み、電力事業者が国境をこえて進出できるようになりました。そこで、海外を舞台にしたIPPが注目を集めます。IPPとは「独立系発電事業者(Independent Power Producer)」のことで、企業が発電設備のオーナーとなって電力をつくり出し、現地の電力公社などに販売する事業モデルです。
新興国では、急増する電力需要に応える発電能力を持つと同時に、環境負荷が低い発電所の建設が望まれ、これまで以上にJ-POWERの技術・知見が活かせる状況となりました。また、新興国以外にもJ-POWERの技術・知見は求められるようになり、海外でIPPとして発電事業を行うようになりました。
2007
カエンコイ2火力発電所(タイ)
2007
J-POWERの想い・挑戦
他国の電力インフラを担う責任を持って
海外発電事業へチャレンジ
1990年代後半からの世界的な電力自由化を受け、J-POWERは海外発電プロジェクトへの参画を、フィリピンのレイテ地熱への投資という形で初めて果たしました。その後、タイ、米国、中国、その他アジア諸国を中心に、既存権益の獲得から新規電源の開発へ、段階的に事業を拡大してきました。
とりわけタイでは、2000年以降タイ国内の独立電気事業者と共同で多くの発電事業を実施することにより、タイにおける電力事情改善・経済発展に寄与しています。2008年に営業運転を開始したカエンコイ2火力発電所は、タイ国内における主要電源として継続的な電力の安定供給に貢献しています。
2007~
2007~
J-POWERが貢献する社会
世界中で電力をつくり、地球を明るくクリーンに
J-POWERが海外発電事業の拡大に成功したのは、長年のコンサルティング事業を通じて築いた信頼関係に加え、日本で培った優れた環境技術や電力技術によるものです。タイ、米国、中国、その他アジア諸国を中心に、多くの発電事業を手掛け、人々の暮らしや社会を明るくすると共にクリーンな電力の安定供給に努めています。
現在、海外事業は国内の電力卸事業と並ぶ経営の柱となるまで成長し、さらなる発展を続けています。J-POWERは、これからも国や地域の開発ニーズに応じて、再生可能エネルギーをはじめとした多様な電源の開発に取り組んでいきます。
2021
2021
社会課題と新たな取り組み
気候変動への対応と
カーボンニュートラル社会実現へ向けて
国際社会における気候変動問題への関心が高まる中、温暖化の原因となる温室効果ガス排出削減の積極的対応が課題とされています。2020年10月、日本政府は温室効果ガスの排出量を全体としてゼロにし、2050年までにカーボンニュートラル社会の実現を目指すことを宣言しました。
これを受け、私たちJ-POWERも気候変動問題への取り組みを加速するべく、J-POWER “BLUE MISSION 2050”を策定しました。再生可能エネルギー等のCO2フリー電源を拡大し、これを出力調整に優れたCO2フリー水素発電と電力ネットワーク増強の取り組みで加速させるべく、総力を挙げて挑戦していきます。
2021
大崎クールジェン株式会社
(中国電力株式会社との共同出資企業)
2021
J-POWERの想い・挑戦
「電力の安定供給とカーボンニュートラルの両立を目指す」
2050年に日本でカーボンニュートラル社会を実現するという大きな目標。
この目標の達成に向け、J-POWERは国内発電事業のカーボンニュートラルの実現に段階的に挑みます。まずは、2025年度までに、J-POWER国内発電事業におけるCO₂排出量を700万t削減することを目標に、再生可能エネルギーの新規開発等に取り組んでいきます。
また、水素発電実現に向け大崎クールジェンプロジェクト(国立研究開発法人新エネルギー・産業技術総合開発機構(NEDO)の助成事業として、中国電力株式会社と共同で実施)を着実に遂行していきます。これは、輸入した石炭をガス化し、水素を製造、製造した水素を利用し電気を作り出すプロジェクトです。これまでに様々な実証試験をクリアし、現在は製造した高濃度の水素を使って発電するという最終段階の試験を行っています。
また、ここで得られた成果を生かし、既設の松島火力発電所に石炭ガス化設備を付加するアップサイクルを行い、水素を含むガスで発電を可能とする計画を進めています。
これらの取り組みにより、電力の安定供給とカーボンニュートラルの両立を目指します。
2052~
2052~
J-POWERが貢献する社会
「青く美しい地球、そこに暮らす70億を超える人類の未来のために。」
世界中の人々が明るい笑顔で暮らしていけるように。
わたしたちJ-POWERは、「人々の求めるエネルギーを不断に提供し、日本と世界の持続可能な発展に貢献する」という使命のもと、さまざまな困難に立ち向かってきました。
人々の笑顔を原動力に、2052年の創立100周年に向け、これからも社会課題解決に向けた挑戦を重ね、日本と世界のより良い未来を拓き続けていきます。
日本の暮らしを一変した「三種の神器/白黒テレビ・電気洗濯機・電気冷蔵庫」
高度経済成長の真っ只中である1950年代後半、白黒テレビ・電気洗濯機・電気冷蔵庫は「三種の神器」と呼ばれ、庶民のあこがれの家電でした。
当時、白黒テレビは大変高価なもので、人々は電器店の店頭や銭湯、主要な駅などに設置されて放映される、大相撲やプロレス中継などを群がるように観ていました。また、電気冷蔵庫と電気洗濯機は、早朝から休むことなく家事に勤しんでいた主婦の救世主的存在と言えます。電気冷蔵庫の普及前は、毎日買い物をして調理をしなければなりませんでした。一方、電気洗濯機の普及前は、“洗濯板”に洗濯物をこすりつけて汚れを落としており、重労働でした。
このように「三種の神器」は人々の生活を劇的に変え、欠かせない必需品となっていったのです。
日本の住居を変える食の革命「自動式電気炊飯器」
「三種の神器」と同様に、日本の暮らしに大きな変化をもたらした電化製品が「自動式電気炊飯器」です。当時は火を使用したかまど炊きが主流でしたが重労働であり、火災などの原因にもなっていました。ところが1955年に発売された自動式電気炊飯機の第1号機である自動式電気釜は、火を使わずに電気でお米を自動で炊ける、まさに革命的な家電でした。経験と勘で頼っていた工程を自動化することで、自動式電気炊飯機はあっという間に日本中に普及。また、かまどが不要になったことで土間が取り払われ、板の間に台所がつくられるようになり、日本の住居のカタチも変えていきました。
季節や昼夜問わず快適に「エアコン」
エアコンは1935年頃より生産が開始され、当時は空気調整機と呼ばれました。発売当初は高価であったため少数の劇場や事務所などを中心に使用され、1950年代より本格的に量産が進みました。一般家庭に普及がはじまったのは1960年代です。1961年に冷房だけでなく暖房もできる空気熱源ヒートポンプエアコンが発売され、60年代後半になると形状も現在の主流である壁掛け式のエアコンが登場しました。エアコンは、季節や昼夜問わず家庭や職場、商業施設などを、より快適な空間にすることを可能にしました。
世界初の高速鉄道車両「新幹線」
“夢の超特急”といわれた東海道新幹線は、東京オリンピックの開会式を10日後に控えた、 1964年10月1日に開業しました。当時、東京と名古屋、大阪、神戸を結ぶ東海道本線の輸送力は限界に迫っており、これを打破する高速鉄道の必要性が高まっていました。そこで誕生したのが新幹線です。最高時速は当時の世界最速である210km。東京~新大阪間を約4時間で駆け抜ける、世界初の高速鉄道車両でした。新幹線はその後、高速化と路線の拡大を通じて、高度経済成長時代から現在に至るまで日本社会をけん引しています。
コンピューターが家庭に来た!「パソコン」
パソコンとは、パーソナルコンピューターの略で、個人が家庭や職場で使うコンピューターのことです。大型コンピューターと違って、誰でも手軽に操作でき、高度な入力や計算、データ処理、通信など多彩な機能が特長で、もはや現代社会には欠かせません。このパソコンは、一般的に1975年に発売された米MIT社のAltair 8800が最初と言われています(諸説あり)。1980年代に入ると、これまでの米国製のパソコンとは違い、日本仕様のパソコンとして漢字処理機能を持つ機器が発売されて大ヒットしました。そして80年代後半頃から、マウスで画面上のアイコンをクリックするだけで操作が可能になったり、ノートPCが発売されるなど、誰でも気軽に使えるコンピューターとなっていきました。
家庭の遊びが変わった!「家庭用電子ゲーム」
1980年代から1990年代前半にかけて、多くのメーカーから、テレビをディスプレイとして使用する電子ゲーム機が開発・発売され、大ヒット。人気のゲームソフト発売日には、行列の様子がニュースで取り上げられるなど、子供から大人まで夢中になりました。
これまでの電子ゲームは、ゲームセンターと言われるアミューズメント施設へ行って遊ぶしかありませんでしたが、家庭で簡単に気軽に遊べ、しかも高性能な電子ゲームの出現は、新たな文化が誕生した瞬間と言えるでしょう。
高性能コンピューターが手の平に「スマートフォン」
パソコンに近い機能を搭載し、インターネットやメール、音楽や動画と幅広く利用できる多機能携帯電話「スマートフォン」。略して「スマホ」と呼ばれ、いまや全世界の約半分の40億人が所有しているとも言われています。2007年に、米国製のタッチディスプレイ搭載のスマートフォンが登場。通信機能により、オンラインストアからアプリを追加して拡張できるという画期的な機能も備えており、あっという間に世界を席巻しました。スマートフォンは、今や私たちの暮らしに欠かせない存在になっています。
エコドライブで地球にやさしく「電気自動車」
電気自動車とは、その名の通り電気を動力源としてモーターを動かして走る自動車です。ガソリンエンジンを使用しないため、走行中に排出ガスを一切出しません。そのため、地球環境にやさしく、騒音も少ないのが特長です。環境問題の深刻化から各国で開発が進められており、日本では2009年に生産が開始されました。
現在、脱炭素化の流れを受けて、世界的にEV(電気自動車)シフトと言われる潮流が加速しています。最近では、街中で電気自動車を見かけるようになってきていますが、近い将来、電気自動車がクルマの主流となる日も遠くないかもしれません。
CO2を出さない社会に「水素社会」
燃料電池自動車や水素発電所、家庭用燃料電池など、日々の生活や経済活動などに、水素をエネルギー・燃料として広く活用する社会を水素社会と呼びます。水素は燃焼しても水(水蒸気)となり、二酸化炭素などの温室効果ガスや大気汚染物質を排出しません。また、水素は石炭などの化石燃料、木材や生ゴミなどのバイオマスなど、あらゆる資源から製造することができ、エネルギーの多様化に貢献できると期待されています。加えて、再生可能エネルギーを水素に変換して貯蔵できるというメリットもあります。エネルギーとして水素を最大限に活用することは、カーボンニュートラル社会の実現のためには欠かせません。
未来の再生可能エネルギー「宇宙太陽光発電」
宇宙太陽光発電とは、その名の通り、太陽光を地上ではなく宇宙空間で電気をつくる新しい発電方式です。具体的には、宇宙空間において、太陽光をマイクロ波やレーザー光に変換し、地球に伝送して電力として利用する発電システムです。現在、将来の実用化を目指して研究開発が進められています。天候によって発電量が左右される地上の太陽光発電と違い、宇宙は常に快晴で、1年中安定して発電し続けることが可能です。しかし、“電気を電波に変換し地上と宇宙間の長距離で正確に送る”技術の開発など様々な課題があり、国の宇宙基本計画が示す商用化の目標は2050年となっています。