J POWER 電源開発

WORK

PHASE.1

日本のために大局的な視点で取り組んだ火力発電

戦後の復興期を経て、日本経済は力強さを取り戻し、いよいよ高度経済成長期へと向かいます。
1950年代後半には、白黒テレビ・洗濯機・冷蔵庫が“三種の神器”として宣伝され、本格的な消費革命の時代が明けようとしていました。1960(昭和35)年には当時の内閣が「所得倍増計画」を発表。これは国民総生産・国民所得を倍増させようという計画で、人々はやがてやってくる豊かな生活を夢見て、日々を過ごしていました。こうした社会の変化に伴い、電力需要も高まっていったのです。
このような電力需要増に応えるためJ-POWERでは全国で水力開発を進める一方、1963(昭和38)年、初めての火力発電所を立ち上げました。若松火力発電所(北九州市)です。J-POWER第1号の火力発電所がこの地に建てられたのは、近隣に筑豊炭田があることが大きな理由でした。ここから産出される石炭は低カロリーで、これまで燃料として利用されていませんでした。若松火力発電所は未利用エネルギーの有効活用を目的として建設されたものであり、ここで培ったノウハウはその後のJ-POWERの石炭火力技術の礎となりました。
一方でこの頃に始まった産業構造の変化は、古い産業の衰退に拍車をかけることにもなりました。その代表が石炭産業です。1960年代、国際石油資本が日本のエネルギー市場に進出。安価な石油が大量に日本に輸入されるようになると、石炭から石油へとエネルギー源の転換が進み、それに伴ってわが国の石炭産業は急速に衰退の道をたどっていったのです。特に雇用への影響は深刻で、1940年代に最大45万人以上いた炭鉱労働者数は1960年代には10万人前後に減少していました。
この石炭産業の急速な衰退を防ぐことが政策課題となり、1962(昭和37)年に閣議決定されたのが「石炭対策要綱」です。これによって国内の産炭地で消費しきれない石炭を船で運び、電力の大消費地で発電を行う方式が国策として採用されたことから、J-POWERは磯子(神奈川県)・竹原(広島県)・高砂(兵庫県)の3ヵ所に国内炭を使用する火力発電所を建設しました。
衰退する石炭産業の保護という国の動きに応じて進められた形の火力発電所の建設でしたが、これはJ-POWERにとって意義深いことでした。というのも、水力発電の専門技術者が火力発電にも取り組むことになった結果、社員の間に「国の役に立つことなら自分の専門にとらわれず何でも挑戦しよう」という気概が醸成されたからです。こうした大局的な視点に立った思考・行動は、J-POWERならではのものといえるでしょう。

PHASE.2

電気を人々のもとへ届けるためのチャレンジ

当然のことですが、電気は発電しただけでは使えません。消費地へ送る、つまり人々のもとへ送り届けることで、初めて利用されるのです。従って送電ネットワークの構築も、電力会社の重要な使命です。
戦後の復興期から高度経済成長期にかけて電力需要が急増するにつれて、地域によって電力供給力に差が生じるようになりました。また、電気料金も地域間で格差が発生するようになりました。こうした状態を解消し、地域間で電力の融通ができるよう、1958(昭和33)年、電力会社各社とJ-POWERは「広域運営に関する協定書」を締結し、より効率的な電気事業運営を目指した広域運営が発足しました。
これによってJ-POWERは異なる電力会社同士を結び、地域と地域の電力融通の役割をも担うことになったのです。
具体的には、J-POWERは、自社の発電所から消費地へ電気を送る基幹送電線に始まり、北海道、本州、四国、九州をつなぐ連系線の建設と運用を行うことで、日本全国の電力の融通を実現したのです。
東日本と西日本ではそれぞれ50Hzと60Hzに周波数が分かれており、東日本地域と西日本地域を直接送電線で繋ぐことはできません。この問題を打開するために建設されたのがJ-POWERの佐久間周波数変換所であり、完成には多くの困難を伴いました。
人体に喩えれば、心臓から送り出された血液が血管を通じて全身くまなく巡るように、J-POWERの送電線と周波数変換所によって、電気が日本全国を駆け巡るようになったのです。

PHASE.3

電力危機や石油危機を乗り越えて、さらなる安定供給体制を築く

高度経済成長を経てわが国が米国に次ぐ世界第2位の経済大国となったのは、1968(昭和43)年のことでした。それより一足早く、1964(昭和39)年に電力の消費量は世界第2位となっていました。
そしてこの頃から電力需要のピークは冬から夏に移行。夏の電力需要の伸びは関係者の予想をはるかに上回るもので、電力の需要に供給が追いつかない“電力危機”が忍び寄ってきたのです。もちろんその対応策として大型の火力発電所の建設が行われましたが、建設の反対運動が盛んになってきたこともあり、思うように計画は進みません。そこで期待されるようになったのが、大規模な揚水式水力発電所でした。
これに応える形でJ-POWERは、水力発電の豊富な実績を活かし、新豊根(愛知県)、沼原(栃木県)などに大規模揚水発電所を建設しました。
時を前後し、1973(昭和48)年、第1次石油危機が発生しました。国民の間にはパニックが起こり、トイレットペーパーの買い占めなどが発生。石油価格は高騰を続け、産業界の成長にもブレーキがかかり、日本は戦後初めてのマイナス成長に直面することになったのです。こうした事態を受けて石油依存からの脱却が強く主張されるようになり、さらに1979(昭和54)年の第2次石油危機を経て、脱石油への流れは加速していきます。
このような流れを踏まえてJ-POWERでは、海外から輸入した石炭によって大規模な発電を行う海外炭発電プロジェクトに着手。その第1号として松島火力発電所(長崎県)を建設しました。
海外炭のプロジェクトで大きな壁となったのが、石炭をどこから輸入するかという問題でした。燃料炭の長期取引は、国際的にも前例のない事業だったからです。J-POWERのプロジェクトメンバーは、この難題にも臆することなく挑戦。苦労の末、オーストラリアからの輸入を実現させました。松島火力発電所が運転を開始した翌年1982(昭和57)年にはオーストラリアのブレアソール炭鉱の権益を取得するなど、安定的な燃料調達を実現させています。
時代の要請に応じて着々と水力発電所と石炭火力発電所の開発を進めてきた結果、現在のJ-POWERの水力・石炭発電設備の出力規模は約1700万kW(水力860万kW+火力840万kW)まで拡大し、水力発電については国内第2位の規模を、石炭火力発電については国内第1位の規模を誇っています。